235話
しばらく沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは雄太だった。
「ここまで話して……それでも、まだ春香の事をどうこう言われるのであれば、俺は栗東を離れます」
「雄……太……」
慎一郎が声を掛けるが雄太はそのまま話し続けた。
「馬を回してもらえない栗東に居ても勝鞍は上げられないだろ? それなら美浦に移った方が良い。美浦が駄目ならアメリカでもフランスでも良い。俺は『こいつに馬を任せたい』って言ってもらえる騎手になりたい。誰もが認めてくれる騎手になりたいんだ。俺は馬が好きで競馬が好きなんだ。どうやったらこの馬が速く走れるか……どのコースなら……どの距離なら……。そんな事を考えて、その馬と一緒に一着でゴール板を駆け抜けたいんだ。それが俺の夢だ。そして、その夢を叶える時に春香に傍に居て欲しいんだ。場所はどこだって良い」
「そんな事っ‼」
たまらず慎一郎が声を荒げた。その慎一郎を雄太は怒りのこもった目で見た。
「俺が俺の夢を叶える為に生きる事の何が悪い? 俺は世界に通用する騎手になりたい。その時、春香が傍に居てくれないのは嫌なんだ。何目当てでもない。春香目当てなんだ」
そう言って春香を見た目はいつものように優しかった。そして、雄太は春香の手をギュッと握り締めた。
「雄太くん……」
春香はこの優しく力強い手がどれだけ自分を引っ張ってくれたか。どれだけ慰め癒してくれたかを思うと涙が出そうになった。
「君は……それでも良いのかね……?」
慎一郎が春香に問い掛けた。春香はゆっくりと慎一郎の方へ向き直った。
「私は雄太くんが行くならどこへでも行きます。雄太くんを支え共に歩むと誓いましたから」
雄太に期待を寄せ、春香の排除しか考えていなかった面々の顔に絶望の色が広がった。
雄太が栗東を離れ美浦に行けば騎乗依頼をしても美浦の厩舎を優先するだろう。今まで雄太がもたらした勝ち数も賞金も、次に所属するに入る事となる。もしかしたら、栗東の馬には二度と乗らないと言うかも知れないと思うと背筋が寒くなった。
「でも……。私は出来る事ならここで……日本で頑張って欲しいと考えています。雄太くんは日本一の騎手になって海外に連れて行ってくれると約束してくれました。私は、まだ雄太くんが日本一になる処を見てないので見たいと思っています。もし……どうしても日本で活躍出来る場がなくなるのでしたら、世界中のどこでも付いていきます」
「そうだな。春の腕や技術に国境はない。今までだってオファーはいくつも来ていた。どこでだって鷹羽くんを心だけでなく、金銭的にも支えられるだろうからな」
春香の言葉に一瞬調教師達はホッとしたが、雄太が行くならどこへでも行くと言う事は、春香には雄太を『止める気はない』と言う事であり、再び絶望した。
直樹の言葉は春香の腕が世界中のどこでも通用すると言う事で、雄太の歯止めにはならないと思うとぐうの音も出なかった。
「本来なら雄太の言葉は脅迫と捉えられても仕方ないかも知れん。だが、馬を回さないとか、市村くんと別れるように言ってしまったお前達には何も言えまい。自業自得だ」
辰野はそう言うと雄太達を促し、外へ出た。駐車場で話す二人の姿を慎一郎達は玄関先で見ていた。
先程の怒りに満ちた顔ではなく、穏やかな顔で仲睦まじく話す雄太。そして笑顔の春香は年相応の恋人同士に見えた。
(若いから……と考えていたが、あの子は見た目以上に大人なのだな……。それは雄太もか……)
春香達を見送った雄太は慎一郎に近寄った。
「父さん、俺は春香との結婚を考えてる」
「なっ⁉」
「初めてG1に出た時に決めたんだ。G1を獲ったら春香にプロポーズするって。いつになるか分からないけど……。未成年の結婚は親の承諾が必要なのは分かってる。二十歳になる前にプロポーズしても、結婚は二十歳超えるかも知れないけど、俺は春香と生きて行きたいんだ。お互いを必要としてる女性と生きて行くのはおかしい事じゃないだろ?」
それだけ言うと雄太は慎一郎の返事を聞く事なく寮へと戻って行った。




