229話
4月10日(日曜日)
雄太は前日土曜日に二勝したが、日曜日はまだ勝鞍はなかった。同じく桜花賞に出場する鈴掛と梅野は、騎手控室の隅っこに座っている雄太をチラチラと見ていた。
「雄太、緊張してるんですかねぇ……? いつもより表情が固い気がするんですよぉ〜」
「お前だって、あれくらいの歳の頃はG2でも緊張しまくってたろ?」
「さすがに緊張しますってぇ〜。しかも俺は雄太の歳の頃はG1なんて出てなかったですしぃ〜」
梅野は初めてG1に出場した時は心臓が口から飛び出るような気持ちでいたのを思い出して笑った。
「そうだよなぁ〜。それが普通なんだよな」
「純也も強心臓ですけど、雄太も強心臓ですからねぇ〜」
今や鈴掛や梅野のライバルと言って差し支えないぐらいに雄太も純也も勝鞍をあげており、リーディング上位に名を連ねていた。
「今回は春香ちゃんの件があったからな。余計、気合い入ってんだろうな。まぁ、今の雄太は全く春香ちゃんの事は考えてないだろうけどな」
「市村さん、かなり出血してたんでしょ……?」
「あぁ……。気を失った春香ちゃんを見た時は、マジで心臓が止まるかと思ったぞ」
梅野は子供の頃に空手を習っていたので、その場に自分が居ればと何度も思い、自室に春香の様子を報告に来た雄太に
「本当、間が悪かったよなぁ……。ジムでトレーニングしてなかったら市村さんに大怪我させずにすんだかも知れない……」
と言った。
「春香は梅野さんにも『来るな』って言ったと思いますよ? 『誰にも怪我をさせたくなかった』って怖いくらい真剣に言ってましたから」
雄太にそう言われ、雄太だけでなくトレセンにいる全ての人の為に無茶をした春香を褒めたいような叱りたいような複雑な心境に陥っていた。
(今度会ったら……やっぱり叱っておこう。無茶し過ぎだって)
梅野は相変わらず兄貴の心境だった。春香は休業中で、雄太との時間を邪魔するのは酷だと思い会えるのはいつか判断が出来ずにいた。
パドックから号令が聞こえ、雄太はスッと顔を上げた。
(本当、雄太はスゲェ奴だよ。最愛の彼女が大怪我しても、ちゃんと切り替えてんだもんな)
鈴掛はキリッとした騎手の顔の雄太に見てホッとしていた。
阪神競馬場 10R 第48回桜花賞 G1 15:35発走 芝1600m
春香は自宅のテレビの前でジッと雄太の姿を見詰めていた。手にはお見舞いの花に付いていた複数のリボンをまとめて作った小さなポンポンを持っていた。
(雄太くん……頑張って……。応援してるから。精一杯応援するから……)
パドックでの雄太の姿を見て、いつもの雄太だと思って安心した。
(どんな時でも騎手の雄太くんは馬とレースの事を考えてくれてる……。良かった)
レースの時は自分の事を考えないと言った雄太。それを誇りだと春香は思っていた。
(私の大好きな騎手鷹羽雄太はこうでなくちゃね)
自分の事を考えて落馬したり不甲斐ない騎乗をして欲しくないと強く強く思った。
ゲートに入った雄太は一つ深呼吸をした。春香の事は頭になく、ただ勝つ事だけを考えていた。
(大丈夫だ……)
ゲートが開くと雄太は内枠を利用してそのまま先頭集団につけた。三番手につけた雄太は落ち着いた騎乗で4コーナーを曲がった。
周囲の馬達がコーナーを外側に膨らみ距離をロスする中、雄太は綺麗にコーナーを曲がり、内ラチ沿いを前に前に出た。
(雄太くんっ‼ 頑張ってっ‼)
最後の直線に入ると雄太は先頭に立った。
(え? 雄太くんが先頭走ってる……)
ドキドキと画面を食い入るように眺めた春香の視線は後方から来る一頭の馬に注がれた。
後方からグングンと差を詰めて抜き去ったのは梅野の騎乗している馬だった。そのままゴール板を駆け抜けた。
(梅野さんだぁ……)
雄太は二着になり、梅野が小さくガッツポーズをするのを観客席から見ていた若い女の子達が声援を送っていた。
雄太が勝てなくて少し残念な気持ちになりながらも、春香は拍手をして梅野の健闘を称えた。




