221話
「せっかく金のある男を捕まえたって思っただろうけど残念だったねぇ〜。あんたも捨てられるんだよ。あたしみたいに」
自分の男と言いながらも捨てられると言うミナの矛盾した言葉を春香はボンヤリと聞いていた。
「一緒に居て分かったろ? 雄太は競馬の事しか考えてないんだ。他人の事なんてどうでも良いんだよ。あんたも飽きたら捨てられるんだ」
ミナの言葉に春香の目から涙が溢れた。そして、瞳に宿る怒り。
「雄太くんは……雄太くんはっ‼ そんな人じゃないっ‼」
叫んだ春香は立ち上がるとミナの右手首を掴んだ。それまで、体格で優位に立っていたミナはふいをつかれよろけた。
「な……何だよっ‼」
右手首を掴まれたままミナが激しく腕を動かし、カッターナイフが春香の左頬に傷を作った。
それでも春香は怯まなかった。
「あなたに……あなたに雄太くんの何が分かるのっ⁉ 雄太くんは優しくて思い遣りがあって一生懸命な人よっ‼ 雄太くんのお父さんだって立派な人だわっ‼」
春香はミナの右手首を脇に挟んで思いっきり捻り上げた。
「いっ‼」
小さな叫び声を上げたミナの手が震えカッターナイフが落ちる。それをすかさず春香は蹴った。カッターナイフはガガガと音を立てて地面を滑りミナの手が届かない所で止まった。
その瞬間、隙を伺っていた数人の男達にミナは取り押さえられた。
「離せっ‼ 離せよっ‼」
取り押さえられてもなおも叫び続けているミナ。それを無視して雄太と直樹が春香に向かって走り出した。
「あなたに雄太くんは……渡さな……い……か……」
そこまで言った春香の体がグラリと揺れた。
「春香っ‼」
「春っ‼」
崩れ落ちる春香を雄太は抱き留めると、ゆっくりと膝を着いた。
「春香っ‼」
「ゆ……うた……くん……」
雄太の呼びかけに薄っすらと目を開けた春香の目から涙が溢れた。
「春香っ‼ しっかりしてくれっ‼」
「春、止血をするからな? ちょっと痛むが我慢しろ」
直樹は春香の破れたカーディガンを引き裂いて左腕の付け根をしっかりと縛った。
「……ッ‼」
「春、もう直ぐ救急車が来るからな。しっかり気を持て。良いな?」
直樹がハンカチを出して頬の傷に当てた。
(傷はそこまで深くはないが……出血が酷いな……。動き回ったからか……)
「雄……太くん……」
「春、喋るな」
直樹が止めるが春香は雄太をジッと見詰めて、血塗れの右手で雄太の頬に触れた。
「雄太くんも皆さんも無事で……良かった……」
「ああ。誰も怪我してないからな? 安心して良いぞ。だから、しっかりしてくれ」
「私……浮気相手……なんかじゃ……ない……よね……?」
「当たり前だっ‼ 春香は俺の……春香……? 春香っ‼」
春香は何か言いたげに唇を動かしたが、言葉にならず目を閉じた。
「春香っ‼ 春香っ‼」
パトカーや救急車が到着し、ミナは取り押さえた人達から警察官に身柄を渡される時に警察官を蹴り大暴れをした。
雄太は救急車に乗せられた春香に着いて行こうとしたが、警察に事情を訊かれる事になり直樹が同乗して病院へ向かった。
(春香……。大丈夫だよな……? 春香……)
「雄太、とりあえず手と顔を洗え。血塗れだぞ?」
鈴掛が声をかけると雄太は自分の手を見た。抱き止めた時に付着した血液を見ると胸が詰まった。
「はい……」
近くの厩舎で手と顔を洗いながら雄太は泣いていた。
(春香……。春香……。春香……)
雄太だけでなく、トレセンで働く人々を傷付けまいとして一人で刃物を持ったミナに対峙した春香。ミナの言葉に心を傷付けられ、腕や顔に傷を負い、それでも雄太や皆を気遣っていた春香。その春香に知られてしまった過去。
(もし……春香に何かあったら……。春香……無事でいてくれ……)
人によっては大した事じゃないと言われるかも知れないが、よりにもよって一番会わせたくない相手から自分の過去を聞かされた春香の心情を思うと、雄太はしばらくその場を動く事が出来なかった。




