218話
「ウググッ」
「大丈夫ですか?」
スタンドに何度か辰野のうめき声が聞こえ、春香の心配そうな声がする。
「ああ、大丈夫だ」
「では、続けますね」
しばらくすると痛みが引いて来たのを辰野は感じていた。
(ん……? 痛みが……。もしや、この子は噂の子……か? いやいや、神子とまで呼ばれる子が電話一本で来てくれるはずは……)
辰野は少し顔を春香の方に向けた。そんなに力を入れている訳でもないのに汗だくになりながら背中に触れてる春香から溢れるような何かを感じた。
(何だ……? この温かさのある空気感は……)
「ふぅ……。いかがですか?」
小さく息を吐いた春香が優しい微笑みを向けながら訊いた。
「ああ。随分楽になったよ」
「良かったです。じゃあ、ジェルを拭き取りますね」
直樹が準備した絞ったタオルでゆっくりとジェルを拭き取って行く。
「今日一日はご自宅で安静になさってください。もし、痛みがぶり返したら店の方にご連絡をくださいね。私のほうからご自宅に伺いますので」
「そうさせてもらうよ。ありがとう、市村くん」
「はい。じゃあ、後は直樹先生お願いします」
春香は立ち上がると使い終わったタオルをビニール袋に詰めていった。直樹が入れ替わりに辰野の傍に行き、湿布等の準備をし始めた。
「春香、あっちで手と顔を洗えるぞ」
「うん」
(ほう……。雄太と話すとこんな可愛い顔をするのか。さっきまでの顔は仕事用……って処か。成る程な。雄太と同じで仕事となると雰囲気の変わる子か)
二人並んで笑顔で話している姿は年頃の恋人同士といった感じに見えた。
(やはり、この子は……噂の子だな)
春香は騎手達が使っている洗面台で手と顔を洗って綺麗にタオルで拭った。
「お疲れ様、春香」
「うん。まさかこんな風にトレセンに来るとは思わなかったなぁ〜」
春香は雄太に笑いかけた。
「ごめんな? 春香が嫌な思いするかもって思ったんだけど……」
「謝らなくて良いよ。あの調教師の方は雄太くんの味方になってくれてるかたなんでしょう?」
「分かるのか?」
春香は頷いた。
「雄太くんを見る目が優しかったし、私にも優しく話してくださったから」
「ああ。春香の事も分かってくださってる。仕事をちゃんとしてるなら彼女が居ても良いって言ってもらえたから」
春香は直樹に湿布をしてもらって、晒で腰を固定してもらっている辰野の方を見た。
「嬉しいな。そんな風に言ってもらえて。それに……」
春香は雄太の方を見て頬を赤くした。
「何?」
「勝負服じゃなく、普段の仕事着の雄太くんを見られて嬉しいな」
「ただのトレーニングウエアだぞ? しかも仕事終わりで汗臭くて汚れてるし」
「それでも嬉しいもん」
ふふふっと小さく笑う春香。平日の昼間に会えた事が嬉しい雄太。その二人を見ていた辰野。
(何だろうな……。あの二人なら大丈夫だと思えるんだよなぁ……。調教師になったとは言え元勝負師の勘だが)
「じゃあ、私は後片付けして来るね」
「ああ」
春香は辰野達の方へ行き、雄太は顔見知りの先輩に声をかけられ、話をしながら春香を見ていた。
春香はカーディガンを着ると使った道具を籠に入れ、タオル等と一緒に持つとスタンドから出て行った。
(トレセンの中ってこんな感じなんだなぁ……)
緑が多く、厩舎の方からは馬の鳴き声も聞こえて来ていた。寮で顔を合わせた事のある雄太の先輩騎手の人達が春香に気付いて手を振ってくれたりもした。
(もう、馬の調教は終わってるんだよね。一回くらい見てみたいけど、無理だよねぇ……。朝早いのもあるけど、私は関係者じゃないし……ね)
そんな事を思いながら車のトランクを開け荷物を詰めた。そして、施術の邪魔になるとまとめていた髪を一度解きポニーテールに結び直した。
(いつか……分かってもらえると良いな……。雄太くんにストレス与えたくないもん)
春香は再びスタンドに向かって歩き出した。




