215話
玄関ドアに鍵を差し込み開けると春香が走って出迎えに来てくれる。
「おかえりなさ〜い」
「ただいま」
(良いなぁ〜。こう言うの)
抱き締めた春香から香るシャンプーの匂い。
(今日は午後に『神の手』の予約入ってたって言ってたもんな)
神の手を使うと汗だくになるのを知っている雄太は、既に春香が入浴を済ませたのが分かった。
「ん?」
「どうかしたか?」
雄太の背中に腕を回した春香が肩甲骨の下辺りを撫でるようにする。
「ここの辺り少しこってるね」
「ちょっと違和感あるんだよな。こってる?」
「うん。気にする程じゃないかもだけど、後でしっかりマッサージするね」
「うん。頼むな」
ただいまのキスを忘れていた事に気付いた春香が精一杯背伸びをしてキスをする。
「夕飯の準備出来てるから一緒に食べようね」
「ああ」
金曜日からの出来事を話し、レースの事を話し、梅野達の話で笑い合う。そして、春香は片付けをして雄太は風呂に向かった。
(あ〜。やっぱ、ここの風呂の方が落ち着くんだよなぁ〜)
調整ルームにも風呂はあるのだが大浴場しかない。皆と話しながら入るのも楽しいと言えば楽しいのだが、のんびりと入りたい派の雄太は春香の家に来てからゆっくりと入るのが好きだった。
(正直、ここに住みたくなるんだよな……。車で行けばトレセンまでそんなにかからないし……。でも、そうすると絶対に春香が悪く言われるんだろうな……)
少しずつ春香の事を言う調教師達は減ってはいたが、軋轢は生みたくないと思っていた。
(調教師達には感謝してる。いくら俺が頑張っても、調教師達が馬を仕上げてくれなかったら駄目な訳だしな……)
調教師や厩務員が頑張ってくれているからこそ『騎手鷹羽雄太』の勝利があるのだ。
(なるべく波風は立てない方が良いしな。俺の為でもあるし、何より春香の為でもあるんだから)
風呂から出ると冷たい飲み物を準備してくれた春香が笑って待っていてくれる。
(今は、これ以上を求めちゃいけないよな。今年の目標は、まだ達成出来てないんだから)
世間からすれば十九歳の雄太がG1を獲れるとは本気で思っていないかも知れない。
デビュー前から『期待の星』とは書かれていた。でも、それは慎一郎の息子だからだった。
「春香〜」
ソファーに座る春香の隣に座り抱き締める。
「お疲れ様、雄太くん」
抱き締め返してくれる最愛の女性は『元天才騎手鷹羽慎一郎』も知らず、ただの『鷹羽雄太』を好きになってくれた。
騎手として活躍して成績は喜んでくれるが、賞金の額や年収を訊かれた事もなかった。
「俺の収入とか気にならない?」
一度訊ねた事があったが、春香はキョトンとした顔をした後、涙を流すぐらいに爆笑したのだ。
「な……何? 俺、何か変な事言ったか?」
「ご……ごめんなさい。今まで気にした事がなかったから」
焦る雄太に春香は滲んだ涙を拭いながら謝った。
「うん。そうなんだよね。初めて会った時は雄太くんはまだ学生って職業欄に書いてたけど、デビューしたのを見たし、重賞を勝ってるのも見たのにね」
「春香は、まだ俺が稼ぎのない男だと思ってるのかぁ〜?」
笑いながら抱き締めると胸に顔を当ててクスクスと笑っていた。
「じゃあこれからは、外デートの時は雄太くんに出してもらうね。それ以外の時、家での食事費用は私が出すね」
そんなワリカンの仕方が二人の間に出来た新しいルールだった。
「ちょっと筋肉が固くなってるね」
ベッドでゆっくり背中をマッサージしてもらう。
「筋トレやりまくったからかなぁ〜?」
「そうかも」
天性の才能もあった雄太だったが、努力を怠る事はない。しっかりとトレーニングを重ねて体を作っている。
(本当、春香のマッサージは気持ち良い……)
今更ながら、春香を専属にと申し出ていたスポーツ団体や球団やチームの気持ちが分かった雄太だった。




