179話
梅野が部屋を出て行った後、雄太はジンジンとする背中の痛みを感じていた。
(梅野さんが……きちんと怒ってくれて嬉しかった……なんておかしいかな……?)
『無理矢理やってしまえば良かったのに』なんて言う先輩ではないと信じていた。自分の事だけでなく、春香の事も大切な友人として思ってくれている梅野。
その梅野が真剣に話してくれた事で、いかに自分が愚かな行いをしようとしたか改めて反省した。
(興味本位なんかじゃない……。俺は春香が好きだ……。春香が好きだから……春香だからシタい……)
目を閉じると春香の笑顔が浮かぶ。
『雄太くん』と呼ぶ声が聞こえた気がした。
✤✤✤
土日で二勝した雄太は自宅の電話の前で悩んでいた。
(電話して言うのか……? 明日、シタいなんて言って良いのか……? 雰囲気とか大事なんじゃないのか……?)
わざわざ言う事なんだろうかと悩んでいると後ろから声がした。
「雄太。何をしているんだ」
振り返るとそこには眉間に皺を寄せて腕を組んで仁王立ちしている慎一郎が居た。
「え? あ……電話を……」
「あの女か?」
慎一郎の言い草に雄太はカチンと来た。
「あの女と言う言い方はやめてくださいと言ったはずです」
怒りを押さえながら言う雄太に慎一郎は更に続けた。
「お前は中学の時の事を忘れたのかっ⁉」
「あんな奴と春香を一緒にしないでくれっ‼」
雄太と慎一郎の言い争う声にリビングから出てきた理保が声をかける。
「あなた。雄太。何ですか、大きな声を出して」
理保が心配そうな顔で近付いて来る。
「母さん……」
「お前が口を出す事じゃない。黙ってなさい」
「そんな言い方っ‼ 父さんは、いつでも自分勝手なんだっ‼ 母さんが、どれだけ苦労してるかも知ろうとしないでっ‼ 感謝すらしないで偉そうにっ‼」
騎手時代から慎一郎を支え、今尚調教師として慎一郎を支えている母に向かって吐かれた言葉に雄太はキレた。
「何だとっ⁉ 生意気な事を言うなっ‼ 子供のクセにっ‼」
慎一郎を手を振り上げた。
雄太はやがて来るであろう衝撃に覚悟を決め目を瞑った。しかし、痛みは来ず音だけが聞こえた。
(え……?)
慎一郎の振り上げた手から雄太を庇った理保の頬が赤くなっていた。
(母さんっ⁉)
「理……保……」
理保は真っすぐに慎一郎を見た。
「雄太に手を上げるのはやめてください。叩きたいなら私にしてください。この子は私の大切な子です。あなたは調教師でしょう? なら、その調教師にとっても大切な馬を任せる大切な騎手でしょう? 父親としても、調教師としても、この子は大切なんじゃないんですか」
それまで、大人しく従順で、口答え一つしなかった母の言動に雄太は驚き声が出なかった。
バツが悪くなった慎一郎は何も言わずリビングに戻ると上着を手に外へ出て行った。
雄太は倒れ込んだ理保を抱き起こすとダイニングに連れて行った。そして、冷凍庫から氷を出してビニール袋に入れるとタオルに包み理保の頬にあてた。
「ありがとう、雄太。彼女が電話を待ってるんじゃないの?」
「母さん……。気付いてたのか……?」
「気付かない訳がないでしょう? 電話をするたびに楽しそうに話してたんだから。あの雑誌に載った……雄太の部屋に飾ってある写真の可愛いお嬢さんよね?」
雄太はバレていないつもりだったが、理保はお見通のようだった。
「うん。優しい優しい女性だよ。自分の事より俺を大切にしてくれてるんだ。俺の仕事も理解してくれてる。きっと母さんも気に入ってくれると思う」
理保はニッコリと笑う。雄太が照れ臭そうにしながらきちんと話してくれた事が嬉しかった。
「そう。母さんの事は良いから早く電話をしてあげなさい。もう8時はとっくに過ぎてしまってるわよ? 電話は8時の約束なんでしょう?」
「うん。分かった」
雄太は頷くと電話をかけにダイニングを出た。




