135話
「春香」
名前を呼ばれて春香がそちらを見ると、雄太は真剣な顔をしながらシートベルトを外していた。春香が車から少し離れると、雄太は車を降りて直樹の前に立った。
(え? え? 雄太くん……?)
状況が読めなくて春香は狼狽えてしまった。なぜ、直樹が外に出て来たのかも分からなかったのに、雄太が直樹の前に立った理由の想像がつかなかった。
雄太がグッと拳を握り一つ深呼吸をして、真っ直ぐに直樹を見た。
「今日、春香……さんに交際を申し込みました。春香さんは受けてくれました。俺、精一杯大切にしますから交際を認めてください。お願いします」
雄太はそう言うと、深々と頭を下げた。
(雄太くん……)
「君は、春の過去も現在も全て受け入れる選択をするんだね?」
直樹が訊くと、雄太は下げていた頭を上げた。
「はい。過去がどうであろうと、今どんな状況におかれていようと、俺は……今ここに居る市村春香が誰より大切ですから」
二人のやり取りをドキドキとしながら見ていた春香は雄太の隣に立った。そっと手を雄太の腕に添える。
「直樹先生……。ううん、お父さん。私、雄太くんと一緒に居たい。この先、泣きたくなるような事や辛い事がないなんて甘い事は思ってない。お父さんとお母さんに迷惑かける事があると思う。それでも……私は、雄太くんと一緒に居たいの。雄太くんの夢を一緒に追い掛けたいの」
「春……」
直樹の脳裏に出会った頃の春香が浮かんだ。折れそうに細い手足。大雑把に切られた丸坊主に近い頭髪。ブカブカの汚れた体操服を着ていた姿。世の中は絶望しかないと恨み諦めていた悲しい瞳。真夜中に何かに怯えて泣いていた姿。
そんな春香が、初めて好きになった男性の隣に立ち、その男性と居たいと言っている。一緒に夢を追い掛けたいと。
(生きる事だけに必死だった春が……こんな風に人を好きになれるくらいに成長したんだな……)
直樹はフゥっと息を吐いた。色々と言いたい事が頭に浮かぶが、春香の強い瞳を見ていると一番言いたい事だけにしようと思った。
「鷹羽くん……。前にも言ったが、春は俺と里美の大切な大切な掛け替えのない娘だ。付き合って行けば色々とあるだろうが、理不尽な事で泣かせないと……決して、春を裏切って傷付けないと誓ってくれ」
「はい。誓います」
雄太は力強く答えた。馬に跨っている時と同じような真剣そのものの顔。真っ直ぐな若いからこその危うさを感じながらも直樹は雄太の強い意思を感じた。
「そうか。なら良い。気を付けて帰りなさい」
直樹は、それだけ言うと屋内に戻った。ドアを閉め、その場にしゃがみ込んだ。
(結局……俺は、春に甘いんだよなぁ……。鷹羽くんは……俺が思ってた以上に大人だったな……。娘を持つ父親って、こんな気持ちになるんだな……。お義父さんの気持ちを、もう味わう事になるとは……な)
✤✤✤
その夜、二人は付き合っていく上で守っていく事を決めた。
・お互いの仕事を蔑ろにしない事
・お互い仕事を優先して、尚且つキッチリこなす事
・大切な事は、お互いが納得するまで話し合う事
・二人で解決出来ないと思った時は、素直に周りの人に助けを求める事
・隠し事をしなくて済む関係を作っていく努力をする事
『これぐらいかな? 春香、他に何か決めておきたい事ある?』
「ん〜。今の処、これくらいだと思うよ?」
『そうだな。また何かあったら付け足そう』
「うん」
もしかしたら、こんな事を決める人は居ないかも知れないとは思うが、二人には大切な事に思えた。
「今日は、本当にありがとう。雄太くん、大好き」
『俺の方こそありがとう。大好きだ。来週もデートしような?』
「うん」
ようやく繋がり重なった想い。幸せな気持ちで胸がいっぱいの二人だった。




