106話
ふと窓の外に目をやると、いつの間にか雨が降り出していた。いつまで春香が実親に振り回されるのか……春香の心の雨はいつやむのかと思うと、雄太の胸はギュッと締め付けられる。
(市村さん、泣いてるんじゃないかな……? 大丈夫かな……。市村さんは、親の事で苦しんで悲しんで辛いはずなのに、他の人の事ばかり気にして……。どうして……)
それが春香の優しさなのか強さなのか……。もしかしたら弱さなのかも知れない……。誰にも正解は分からない。春香自身でさえ分からないだろう。
「直樹先生がな、大樹のような男が居てくれたらなって言ってたんだよ」
「大樹……ですか?」
鈴掛も、雨が降っている外に視線を向けていた。
「世の中の辛さや理不尽と言う陽射しから守り、悲しみの雨を防ぐ枝葉を広げた大樹。春香ちゃんの乾いた心を潤す果実を実らせ、癒やせる大樹。今は、若木でも二人で大樹になるように力を合わせて育ててくれるような男がいてくれたらなって言ってたんだよ」
雄太は、目を閉じて想像してみた。大地に深く根を張り、大きく枝葉を広げた大樹の傍でキラキラと光る木漏れ日に目を細め、安らぐ春香。そんな春香をずっと見ていたいと思った。
「俺にはよ……。離れて暮らしているけど娘がいるからな。春香ちゃんと娘じゃ歳が全然違うし、恋愛=結婚とは思ってねぇけど、チャラチャラしたロクデナシの男と一緒になって苦労して欲しくねぇんだ。ましてや、男にオモチャにされるとか、性欲の捌け口にされちゃたまんねぇんだよ。直樹先生の心配する気持ちが、痛い程分かるんだよ……」
財布の中に何枚も娘の写真を入れていて、暇があれば眺めている様子を雄太も何度も見ていた。その時はニコニコと見ていたのに、今日の真剣な表情は我が娘と春香を重ねてしまった父親の顔だったのだと分かった。
「娘さん、八歳でしたっけ?」
「ああ……」
二十歳の時に結婚を決意したが、その時所属していた厩舎の調教師から猛反対をされたと聞いていた。こっそりと同棲をしていたのだが、子供が出来た事で結婚をしたものの、騎手の生活サイクルが辛いと言われ離婚をしたと酔っ払った慎一郎が話していたのを雄太は覚えていた。
その後、鈴掛は騎手を辞めようかと思っていたが、事情を知った慎一郎に辞めるのはいつでも出来ると説得をされ、慎一郎が厩舎を開業すると転厩をしたのだと聞いていた。
「お前の歳じゃ、まだ父親の気持ちってのは理解は出来ねぇとは思うけど、恋愛だけじゃなくても、人から利用されたり、雑に扱われたり、裏切られたりしたくねぇってのは分かるだろ?」
「はい……」
✤✤✤
鈴掛が帰ってから、雄太はずっと考え込んでいた。
(大樹……。市村さんを守る大樹……。市村さんと大樹を育てる……。今の俺に出来る事……)
自分の手を広げて見る。
デビューして、まだ三ヶ月と少し。
重賞には出られたが、まだ勝ててはいない駆け出しの自分に何が出来るのか。
まだ、十八歳の自分に何が出来るのか。
(専属になったら遠征とかにも帯同するんだよな……。もし東京の球団の専属だとして、俺が東京で走るとしても、その時に市村さんが東京に居るとは限らない……。だとしたら、俺が市村さんに会える可能性なんてない……。辛い事があっても、話を聞いてあげる事も慰めてあげる事も出来ない……)
鈴掛が言っていたように春香が襲われでもしたらと思うと、また鳥肌が立った。
(市村さん、どうするんだろう……)
鈴掛と話していた時から降り出した雨は一向にやむ気配を見せず、シトシトと降り続いていた。




