103話
春香はポケットからキーケースを取り出し通用口から入り階段を駆け上がった。そして、自宅のドアを開け中に入り、その場にペタンと座り込んだ。
(鷹羽さん……何で……何であんな事言うの……?)
会えた嬉しさ。自分の作った料理を美味しいと言ってくれた喜びが胸いっぱいに広がっていた。
それなのに、考えてはいけない……自分には有り得ない将来を言われた事で現実に引き戻された。
知られたくない親の事。忘れたい親の事。結婚をするとしたら、必ず影を落とす親の事。
だから、一生結婚など出来ないのだと……。
夢を見る事すら駄目だと思っていたのに、雄太に『こんな美味い料理が作れるなんて、市村さんは良いお嫁さんになれますね』と言われて、ほんの一瞬『そんな日が来れば良いのに』と思ってしまった自分に腹が立った。
雄太のように優しく前向きで、話していて楽しい人が傍にいてくれたら幸せだろうと思う。
思うからこそ隠しておきたい事実。
(鷹羽さんとは、どうしようもないと諦めていたのに……。それでも、やっぱり嬉しい……。会えた……。笑ってくれた……。お弁当、美味しいって言ってくれた……。嬉しい……)
座り込んだまま、弁当箱の入ったキンチャク袋をギュッと抱き締める。
(鷹羽さん、また少し髪が伸びてた……。優しい声も優しい笑顔も変わってなかった……)
雄太の初重賞のレースを見てから、春香の気持ちは少し落ち着いて来ていた。
雄太への気持ちは消そうとしても消せない。嫌いになる事はない。なら、焦って諦めなくても良い。いつか、友達になれたら良いなと。それが叶わないならば、実際は違うかも知れないがファン第一号でも良いと思った。
一番強く思ったのは、万が一雄太が怪我をした時に自分の手を求められたら真摯に向き合おうと言う事。
そんな日が来ない事が一番だが、自分が雄太の為になるのは『神の手』だけだと思った。
だから泣かないと心に決めた。
何があっても笑っていようと。
(決めたら会っちゃうんだもんなぁ……)
春香はハァと溜め息を吐いた。そして、思い出した。
(あ……。この前、一着になったお祝い言うの忘れてた……)
重賞に出走した同日、雄太が一着になったレースがあった。いつか会えたら、それまでに一着になった分のお祝いを言いたいと思っていたのに、それをすっかり忘れていた事に気付いた春香の手からキンチャク袋が離れ、コトンと音を立てて床に落ちた。
(私のバカ……。一着のお祝いを言い忘れるなんてファン失格だ……)
床に転がったキンチャク袋を拾い上げる。
(さすがに、お弁当箱は宝物入れにしまっておけない……よね……)
いくら好きな人に食べてもらえたからと言って、使った弁当箱を洗わずにクローゼットにしまうと言うのは出来ないと思った。
どうしたものかとしばらく悩んでいたが
「あ……。そうだ」
と思い立ち、弁当箱をキッチンに置いて再び神社へと向かった。
鳥居の前で一礼をして辺りを見回したが、さすがに雄太の姿はなかった。
(鷹羽さん、ごめんなさい……。私、もっと上手く生きたいな……。不器用過ぎる……)
雄太と座っていたベンチに近付き、落ちている桜の花弁をそっと拾って手帳にはさんだ。
(これも、鷹羽さんとの思い出……。一緒に桜を見た記念。お弁当を食べてもらった記念)
✤✤✤
その頃トレセン近くの喫茶店で、連敗をした雄太とオマケの純也を連れて食事をしていた梅野が
(ん〜。短期間に二連敗かぁ……)
と苦々しい思いでいる事を春香は知る由もなかった。




