少女←→少年、夢うつつ
元婚約者の浮気相手が男だった。
……なんてことは、よく考えると馬鹿みたいな話だし、夢だったのかもしれない。
一夜明け、普段と変わらない日常をぼんやりと過ごしているうちに、ルシルはそんなことを思った。
*
放課後、ルシルの教室を覗く少女の姿があった。
女性も思わず立ち止まって見てしまうような美しい少女、アルである。
どこからか視線を感じたルシルが、教室の出入口に目を向けると、深い青の瞳と視線がぶつかった。
その瞬間、アルは花が咲いたようにパッと笑顔になり、ブンブンと手がちぎれてしまうのではないかというくらいの勢いでルシルに手を振った。
その背後を、昨日、アルに水をかけられて阿鼻叫喚になっていた女生徒達が通りすぎようとして、アルの存在に気づいた途端、何故か一瞬で顔色が悪くなり、逃げるようにその場から立ち去った。
ルシルはそれを不思議に思ったが、昨日の女生徒達は、アルに水をかけられ嫌味を言われたのに、やり返さずに黙っているような人間には見えなかったため、逃げるように姿を消した彼女達を見て、もしかしたら、昨日のことは夢だったのかもしれないと思い始めていた。
自分に向かって、嬉しそうに手を振るアル。
その笑顔は愛らしく、ルシルはつられて笑顔になる。
(……そうだわ。アルはこんなにも可愛らしいのだもの。本当は男性だなんて、そんな馬鹿なこと、あるわけないわ)
随分と変わった夢を見たものだ。
アルに話してみよう。彼女はありえないことだと笑うかもしれない。
帰り支度をして、教室の出入口に向かう。
「ルシル、一緒に帰りましょう?」
鈴の音のように透き通っていて愛らしいその声は、少女のもののようにしか聞こえない。
ふんわりと柔らかく微笑むアルに、やはりあれは悪い夢だったのだと、ルシルは心の中で深いため息をついた。
「次の休日、一緒にお出かけしませんか? わたし、ルシルと行きたい場所があるんです」
(可愛い)
思わず心の中でそう呟いてしまうほどに、可憐な少女である。
(そうよね。アルは『俺』とか言わないし、あんなに口が悪くもないし。うん! あれは夢だったのだわ!)
自分で導きだした答えに納得して、何度も頷くルシルを、アルは不思議そうに見つめた。
今日の授業がどうだったとか、最近はまっているロマンス小説の話だとか、そんな他愛のない話をしながら校門をくぐる。
学園の外に出て、しばらく歩いたところに分かれ道があり、ここからアルとルシルの自宅への道のりは別のものになる。
同じ学園の生徒の姿は、この辺りにはほとんどない。
ふたりは、この場所で解散することが多いため、そこに辿り着いた時、ルシルは足を止め、軽く手を振った。
「では、また明日ね。アル」
そう言って彼女に背を向け、自宅の方角へ歩みを進めようとしたのだが、背後から聞こえてきた声に、ルシルは足を止めざるをえなかった。
「あ、ルシル。そういえば、カフェの約束どうする?」
「えっ」
ピタリと足を止めた。何故か背中に嫌な汗がにじむ。
本能で恐怖を感じ、ルシルは歩みを止めたまま振り向くことができなかった。
「もしかして、あのカフェあんまりな感じだった? だったら別の場所にしよ? 俺はルシルがいればどこでもいいし……って、これ、昨日も言ったね」
(昨日……)
サァッと一気にルシルの顔が青ざめる。
自分の鼓動がやけに早く、ドキドキとうるさい。
それはときめきとか喜びとか、そんな華やかな感情から来たものではなく、得体の知れないものに遭遇した恐怖と不安から来るものだった。
『昨日』。『俺』。そして、この言葉遣いに低い声。
ルシルは気づく。昨日のことは、夢ではなかったのだと。
本当は心のどこかで気づいていたのだと思う。
けれど、信じたくないという気持ちが強く、防衛本能からか、現実逃避をしていたのだろう。
僅かに震える自身の身体を、自分で抱きしめるようにして必死に抑え、ルシルはこの状況から脱するべく思考を巡らせた。
「昨日のことって、その……」
絞り出した声は小さく、伝えたいことも纏まらない。
「あ、もしかして、昨日の女達? あれなら、もう何もしてこないと思うよ。大丈夫、心配しないで? それとも、あいつらの心配でもしてる? え、ルシル優しいー!」
「えっ。いえ、そうではなくて」
ひとりで喋り、ひとりで勝手に盛り上がり、ひとりで話を完結させようとするアルに戸惑いながらも、ルシルは徐々に冷静さを取り戻しつつあった。
(あの子達に何かしたのかしら……)
学園を出る前、アルの姿を視界に入れただけで怯え、逃げ出していた女生徒達のことを思い出す。
「昨日のことって、夢じゃなかったのね」
しばらく動けなくなっていたルシルだったが、勇気を振り絞り、振り返る。
そこにいるアルは、どう見ても少女の姿をしていた。
(けれど)
「アルが、その……本当は男の人だとか。そういうのも全部、現実のことなのよね」
固く緊張した雰囲気を感じられるルシルの言葉に、アルはきょとんとした。
「えー! 夢だと思ってたんだ!? えっ、かわっ、可愛いー!?」
手で口を押さえ、驚きと喜びが入り交じったような表情をするアル。
ルシルは沈黙した。そのチョコレート色の瞳には、呆れの色が浮かんでいる。
少女のように振る舞っている時と、凄まじい落差がある目の前の少女……もとい、男の姿を見ていると、だんだんと全てがどうでもいいことのように思えてきた。
「あの、アル……」
「はい!」
無駄に元気の良い返事に頭が痛くなる。
ルシルはそっと自身の頭を押さえた。
「貴方のこと、友人だと思っていたわ。でも、今もそう思っているのか、自分で自分の気持ちが分からないの」
それは、本心から出た言葉だった。
アルのことを少女だと思ったままだったら、恐らく今も、友人として共に過ごしていただろうし、カフェで仲良くケーキを食べて、なんでもない話をして、笑いあっていたのだろうと思う。
けれど、それでも、アルが男性であるという事実は変わらないのだ。
彼の本当の性別を知らないままなら、友人でいられただろうと思う自分に、微かな違和感を覚える。
女性であっても、男性であっても、アルはアルで、その本質は変わらない。
それに、もし、最初から男性として出会っていれば、それはそれで違う形で友人関係を築くことができていたように思う。
(どうして私は、裏切られたような気持ちになっているのかしら)
ルシルはハッとする。
(……私は、隠されていたことが悲しかったのだわ)
気づいた感情は、ストンと胸に落ちてきた。
ルシルは悲しかったのだ。自分達は友人同士ではなかったのか。これから、お互いに心を許せる関係を築いていくことができるのではと思ったのは、自分だけの幻想だったのか。
そんな気持ちを目の前の男にぶつけたかったが、ルシルがこんなにも頭を悩ませているというのに、そんな彼女を見てニコニコと幸せそうにしているアルに、ルシルはそんな気力もなくなってしまった。
「あの、アル……」
「え! 何!?」
無駄に嬉しそうなその声は、きっと、これから告げられる言葉を予想なんてしていないのだろう。
「私、貴方と少し距離を置きたいの。考えたいのよ、貴方との関係について」
声が震えないように意識しながら、ルシルは彼の青の瞳から目をそらさずにそう言った。




