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今すぐ1000ヶ所巡りたい!

「ルシルなら、俺が落ちたら心配して戻ってきてくれるって思ってた。でも、受け止めようとしてくれるなんて思ってなかったから、びっくりしたな。でも、そんなあなたが……」


 目の前でペラペラと喋る男。

 女生徒の制服を身に纏うその姿は、一見すると少女のように見えるが、少女だと思っていた相手の正体を知ったルシルには、もう男性にしか見えなかった。

 決定的だったのは、彼の厚い胸板に触れたことだった。

 じっと自身の手を見る。


(……男の人の身体だったわ)


 自分とは違うつくりの身体の感触が、まだ手のひらに残っているような、そんな錯覚。


「……って、聞いてる?」


「え」


 彼の無駄に長い喋りをBGMにし、考え事をしていたようだ。

 彼の手の中にある銀色のウィッグが風で僅かに揺れたのを見て、ルシルはハッと我に返った。


「考え事してるあなたも素敵だなーって思うけど、カフェの約束、いつにするか教えてくれると嬉しいな」


「えっ」


 女生徒に水をかけたり、嫌味を言ってみたり、更には、自身が実は男であるとバレた直後だというのに、アルは平然としていた。

 ルシルが言った、『カフェはまた、いつかにしましょう』というのは遠回しな断り文句だったのだが、彼には通じていなかったようで、ニコニコと微笑んで、次回の予定を確定させようとしている。


「あのカフェ、この学園の生徒がよく行くみたいだし、もし、さっきの変な女達がいたらって思ったら、想像しただけでしんどいよね。分かる。なら、明日はどう?」


 そう言われ、そういえば事の発端は、女生徒達からの呼び出しだったと思い出す。

 アルの性格や性別への衝撃の方が強く、ルシルは完全に忘れていた。


「え! えっと、明日はちょっと……」


「じゃあ、明後日は?」


 永遠に翌日の予定を聞かれ続け、そういえば、こんな会話を前にもしたことがあったなと、疲れきった頭でぼんやりと思った。


「うーん……。じゃあ、また明日聞くね」


「え」


「明日には予定、変わってるかもしれないでしょ?」


(無駄にポジティブなの、やめてほしいわ)


 予定があるというのは嘘だと気づいているのかもしれない。

 明日もこのやり取りをするのかと思うと気が遠くなりそうになるが、それでも、今日はこれで解放されるだろう。

 そう、ルシルは信じていた。


「で、では、私はこれで……」


 ルシルはぎこちない笑みを浮かべ、彼に軽くお辞儀をして足早にその場から立ち去ろうとして。


「カフェはやめとくとして、これからどうする?」


「は……?」


 ピタリと足を止める。


(……今のは幻聴かしら。何か信じられないことが聞こえたような気がするわ)


「どこに行きたい? 俺はルシルがいれば場所はどこでもいいけど、あなたと行きたい場所リストっていうのも、実はお恥ずかしながらありましてー」


 ガサガサと音を立てながら、スカートのポケットから、小さな冊子のような何かを取り出す目の前の男。

 その表紙には【ルシルと行きたい場所1000選】と妙に整った字で書かれており、ルシルは戦慄した。


(1000!? っていうか、むしろ、そんなに行きたい場所あります!? それに、【せんせん】って、すごく言いづらい……じゃなくて! もう! そんなことはどうでもいいのに!)


「俺が一番推したいのは、ここの……」


 行きたい場所リストの解説が始まりそうな気配を察知し、ルシルはここから逃げ出すためにジリジリと少しずつ彼から距離を取り始めた。


「では、私はこれで! ごきげんよう! 私、しばらく忙しくて明日からは一緒に帰れませんので!」


 ある程度彼から距離を取ってから一息に言い、ルシルは一目散に駆け出した。


「あーあ……。逃げられちゃった。慌てちゃってかわいー」


 必死に駆けるルシルの後ろ姿を微笑ましそうに見つめ、校舎裏でひとり、アルはウィッグを被り直した。





 可憐な少女だと思っていた時も、アルはあまり人の話を聞かないところがあったが、男だとバレてから、何かのストッパーが外れたのか、更に話が通じない人間になっており、ルシルは恐怖を覚えていた。


(今日は早く寝ましょう!)


 理解不能なことは、とりあえず一晩置くのがルシルのモットーである。

 よく眠れるように、今晩はソフィアにホットミルクでも淹れてもらおうかと考えながら、全力疾走する。

 自宅に着いた頃には、走りすぎたからか胸が痛み、呼吸が苦しくなっており、彼女はすっかり疲れ果てていた。

 今朝、ソフィアに整えてもらった髪は、走っている間に乱れ、ボサボサになっている。

 自宅に入る直前、後ろを振り返り、アルがついてきていないことを確かめると、安堵の息をついた。

 そうして、ようやくルシルは帰宅することができたのだった。


 何故か髪が乱れ、魂が抜けたように疲弊しているルシルを見て、メイドであるソフィアは何かあったのかと心配し、その日、サフィレット家はちょっとした騒ぎになった。

 『たまには走ってみるのもいいかと思ったの』と、適当な言い訳をしたルシルだったが、それを言ってから、事実を話せば良かったかと、少し後悔した。

 けれど、元婚約者の浮気相手が少女かと思っていたら実は男で、何故かつきまとわれている……などと言っても、自分の頭がどうにかなったと思われそうで、やはり誰にも相談することはできそうになかった。


 その夜、ホットミルクを飲み、いつもより一時間も早くベッドに潜り込んだルシルだったが、少し眠るたびに、夢にアルが出てきて、ハッとして飛び起きるということを繰り返していた。


(悪夢だわ)


 アルが出てくる夢をそう思うようになってしまうとは。

 元婚約者の浮気相手から友人へ。友人から得体の知れない男へ。

 アルという人物は目まぐるしくポジションを変化させていく。


(けれど)


 ベッドの中で、ふと、ルシルは思う。


(私が友人として信じたいと思ったアルは、性別を偽っていたからといって、別に違う人間になったわけではないのよね)


 アルはアルである。それは男でも女でも関係なく、変わらない。

 これから自分はどうしたいのか。もう、アルとは関わりたくないと思っているのか。


(……分からないわ)


 過去、友人として、アルに好感を抱いたことは、揺るぎない事実だ。

 自分の気持ちが分からない。

 遠くで虫の声だけが聞こえる、静かな夜。

 アルのことを考えているうちに、いつの間にか、ルシルは眠りについていた。

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