彼女の本当
その瞳は怒りも悲しみも喜びも、何も映していなかった。
感情が何も読み取れない静かな瞳で、少女はそこにいた。
窓枠に腰かけるその姿は、とてもこの王立学園に通う少女とは思えない。
ルシルは自分の目を疑った。
信じられなかったし、信じたくなかった。
けれど、頭の片隅では、こうも思っていた。
彼女なら、やるかもしれない、と。
しばらく、お互いの瞳がぶつかったまま、時が止まったように動かなかった二人だが、やがて、アルはハッとしたようにその瞳に表情を取り戻した。
「あ!? ルシル!? これは、えっと! 普段はこんなとこ座らないから!」
(……うん?)
否定するように思い切り両手を振り、どこかずれた弁明をするアル。
女生徒に水をかけておきながら、普段通りの様子の彼女に、ルシルは何故か背筋が寒くなった。
そして、アルが手を振っているうちに、バケツは彼女の手から離れ、宙に放り出される。
「あ」
アルとルシルの声が重なり、次の瞬間には、バケツは地面へと吸い込まれていた。
大きな音を立て、女生徒達の足元に転がるバケツ。またもや、悲鳴があがった。
あまりにも頭上から悲劇が始まりすぎるため、校舎を見上げた女生徒の一人が、三階の窓枠に腰かけるアルの姿を見つけた。
「アルさん!? もしかして、これ、貴女がやったの!?」
その声を合図に、他の女生徒達も三階を見上げる。
「ちょっと! 信じられない! 何てことしてくれるのよ!?」
「貴女が第二王子と結婚すると思ったから、庇ってあげてたのに!」
「貴女のために、この人を遠ざけてあげようとしていたのに、恩知らずだわ!」
アルを庇っていた女生徒達は、どうやら第二王子の妃というポジションに近づいていたアルに取り入りたかっただけのようであった。
罵倒されても顔色を変えず、アルは可愛らしい顔のままで、不思議そうに首を傾げた。
「わたし、そんなこと頼んでませんけど。だいたい、これはルシルとわたしの……ルシルとわたしの! 問題ですから」
何故か『ルシルとわたし』を二度言ったアルは、どこか満足げである。
(何でそこを強調したの……)
得意気にしているアルを、ルシルは死んだ魚のような目で見つめた。
「は!? 生意気ね! 庶民のあんたなんか、ローラルド様に釣り合ってないのよ!」
「早く婚約破棄されたらいいのに! ブス!」
(ひぇ……)
アルを口汚く罵る女生徒達。皆、どこかのご令嬢であるというのに、とてもそのようには見えなかった。目の前で繰り広げられる地獄絵図に、ルシルはどうしたら良いか分からず、ただ、目立たないように隅で静かにしておくことしかできなかった。
「ふふっ、可哀想。皆様、鏡を見たことがないんですね。ブスって言うのは、貴女方のようなお顔と性格の方のことを言うんですよ。知りませんでしたか?」
天使のように可愛らしく笑い、語尾にハートマークでも付いているのかというくらいの甘い声でそう言うアルだったが、その発言はその場にいた女生徒達皆が怒りに震えるくらいに過激だった。
「はぁ!? 何それ!? 信じられませんわ! ローラルド様に報告させていただきます! 貴女がこんなにも性悪女だってこと!」
怒りで顔を真っ赤にしたリーダー格の少女の、『行きましょう!』という一声で、女生徒達は皆どこかへ行き、校舎裏にはアルとルシルだけが取り残された。
可愛い子犬に隠された獰猛な一面を見たような気持ちで、気まずすぎる状況に、ルシルは逃げ出したいのにその場に足を縫い止められたかのように動けずにいた。
(えっ、気まずっ。どうしよう、これ……)
じっと地面を見つめ、現実逃避していると、頭上から、どこかで聞いた低い声が聞こえてきた。
「はぁ……、行ったか。ほんと、めんどくさい女」
(え)
その声は以前、教室でルシルがクラスメイト達に陰口を叩かれている時に聞こえた謎の声とよく似ていて。
ルシルは声が聞こえた場所をバッと見上げる。そこにいるのはアルだけだ。
そもそも、女生徒達がいなくなってしまった今、この場にいるのはルシルとアルだけ。
それに、ここは誰にもバレずにルシルを糾弾するために選ばれた場所であるため、まわりに人の姿は見えない。
ということは、導き出される答えはひとつだった。
「あ、アル……?」
恐る恐る、窓枠に座る少女の名前を呼ぶ。
「え……。あ! 今のなし!」
ハッとしたようにルシルを見て、慌てて訂正するアル。
その慌て方は、先程の声は自分だと言っているようなものだった。
さっき聞こえた声は低音だったが、ただ低い声というだけでは、そのような女性も存在するし、不審には思わなかっただろう。けれど、女性の低い声という感じでもなく、それは。
(男の人の声みたいだった)
ルシルは何かに辿り着きそうになっていた。
(……いえ、そんなわけないわよね。だって、あんなに可愛らしいのだもの)
ルシルは頭を左右に振り、自身の考えを否定する。
花が咲いたように笑い、まるで天使のように愛らしい。
そんなアルのことを、とても男性だとは思えなかった。
(でも、さっきの声は……)
考えがループする。ついに、ルシルの頭はパンクしそうになり、とりあえず答えは出さないことにした。
(うん! 考えてもよく分からないし、とりあえず保留で!)
「今日は待ち合わせに行けなくてごめんなさい! カフェはまた……また、いつかにしましょう! それでは失礼するわね!」
何かに急かされるように、早口でそう言う。
カフェに行く約束を破ることは心苦しかったが、今の心の状態では、カフェに行っても、アルと何を話せばいいのか分からなかった。
とにかく今はこの場から離れて、あとのことはあとで考えよう。ルシルはそう決め、アルに背を向けた。
「待って!」
自分を呼ぶ声がしたが、聞こえなかったことにし、帰宅に向けての一歩を踏み出した。
けれど、彼女はすぐに歩みを止めることになる。
「あ、わっ!」
聞こえてきた声に思わず振り向くと、アルが窓から落ちそうになっているところで。
その瞬間、ルシルはさっきまでの自分の考えなんて、全てどうでもいいもののように思えて、窓の下に駆け寄っていた。
バランスを崩したのか、三階から落下してくるアルを受け止めようと、大きく手を広げる。
「え!? ルシル、どいて!」
そう言われるが、ルシルはやめようとせず、次に来るであろう衝撃に耐えるため、ギュッと強く目を瞑った。
世界が反転する。そんな感覚があった。
けれど、衝撃は覚悟していたよりも遥かに軽い。
それに、自分は落ちてきたアルの下敷きになっているはずなのに、重みを感じず、むしろ、自分が何かに乗ってしまっているような感じだった。
そして、誰かに強く抱きしめられているような、そんな感覚。
(……あれ?)
さすがにおかしいと思い、そろそろと目蓋を持ち上げると、視界は真っ暗だった。
(え!)
ルシルは慌てるが、背中に回された手の感触に、自分は今、下敷きにしてしまっている誰かに抱きしめられていて、その人の胸に顔を押し付けているような状態なのだと気づく。
「ルシル、怪我してないよね!?」
「!」
突然の声に驚く。よく通る低めの声。これが本来のアルの声なのだろう。
「だ、大丈夫よ……」
少し顔を上げると、アルと目が合う。
「はー、良かったー……」
安堵の息を漏らすが、ルシルを抱く手を緩めようとはしない。
(……あれ?)
ふと、アルの姿に何か違和感を覚える。
けれど、それが何なのかが分からず、とにかくアルの腕から出ようとして、彼女の胸に手をつく形になってしまった。
「わ! ご、ごめんなさ……」
慌てて手を離す。
咄嗟に謝罪の言葉が出るが、それはすぐに止まった。
(え)
何かがおかしい。ルシルはそう思った。
再度、彼女の胸に手を置く。
そこには柔らかさは何もなく、むしろ固く、胸板という言葉の方が似合い、それは男性の体のようであった。
「え!」
慌てて彼女の上から降りようとするが、拘束は強くなるばかりで、簡単には脱出できそうにない。
必死にもがいていると、視界の端に銀色の何かが映った。
(な、何かしら、あれ……)
先程まで、あんなものはなかったように思う。
ふたりから少し離れた場所に落ちているそれの正体を探ろうと、ルシルは目を細め、やがて、それが毛の固まりのような何かであることに気づく。
「ひゃあっ!?」
(何あれ!?)
アルは、動揺するルシルを心配そうに見つめた。
「え、どうしたのルシル」
その声は落ち着いている。
視線をアルに向け、やがてルシルは気づいた。
アルの髪が短くなっていたのだ。
さっき感じたアルへの違和感の正体はこれだったらしい。
一瞬、三階から落ちた衝撃で髪が切れてしまったのだろうかと考えたが、すぐに、そんな馬鹿なことはありえないと否定する。
それに、髪が短くなってしまったというよりも、これが本来の姿であるかのように、妙にしっくりきていた。
(……信じたくないけれど)
女性には出せないような男性的な声。厚い胸板。側に落ちているウィッグのようなもの。
パズルのようにピースがはまっていく。
「……貴方、男性なの?」
恐る恐るそう問いかけるが、本当は確信があった。
アルは、天使のように可愛らしいと思っていた彼女は、元婚約者の浮気の女は……男なのだと。
永遠にも思える沈黙の後。
「あーあ、バレちゃったか。残念。同性の友達っていうポジションも、あなたに警戒されなくて美味しかったんだけどな」
アルは自身の上からルシルを降ろし、ウィッグを拾いに行く。
その背中を、ルシルは冷や汗をかきながらじっと見つめる。
自分の鼓動がやけに大きく聞こえていた。
「ご名答。男なんだ、俺」
振り返った彼女……もとい、彼は、そう言って悪戯っぽく微笑んだ。