限界キャパシティ
「ルシル様! 今からお時間いただいてもよろしいですか?」
教室のドアから顔を覗かせたアルに、ルシルは自分の認識が甘かったことを知った。
(そ、そうだった! 同じ学園だったわ!)
アルが自分の二つ隣のクラスに在籍していることを、ルシルは完全に忘れていた。
貴族の子女達が通う王立学園ではあるが、才能があれば平民にも入学が許されている。
アルは平民ながら入学を許された秀才なのだとか。そういう話を今朝、ルシルは噂で耳にした。
昨日は学園を休んでしまったが、さすがにずっと休むわけにもいかず、気が進まないながらもルシルは勇気を振り絞って学園の門をくぐった。
学園では第二王子の話題で持ちきりで、『サフィレット嬢はいつか婚約破棄されると思っていた』だとか、『アルさんの方が可愛い』だとか、皆、好き勝手に喋っていた。
教室で自分の席にいても、廊下を歩いていても、どこにいても向けられる好奇の視線に、彼女はただ、早く帰りたいと願うのみだった。
そして、待ちに待った放課後。
とにかく早く教室を出ようと、大急ぎでバッグに荷物を詰め込んでいると、もう二度と聞きたくなかった声が、廊下からルシルの名を呼んだのである。
(も、もうやだー……)
何故。頭の中を占めるのはそれだけである。完全にキャパオーバーで、ルシルは泣きたくなった。
邪魔な婚約者を蹴落とし、大好きな第二王子と結ばれたのだから、それでもういいではないか。
これ以上自分と関わって、彼女は何をしたいのだろう。
アルに対して不信感しかないルシルは、できる限り彼女とは関わらずに生きていきたかった。
けれど、アルが追いかけてくる限り、それは難しいことのようで。
いつの間にかアルは教室に入ってきており、ルシルの机の前に立っていた。
(こ、怖ー……)
「え、えーっと、今日は外せない用事がありますの」
とりあえず断る。ルシルは令嬢らしい上品な笑みを浮かべたつもりだったが、その頬は誰が見ても分かるくらいにひきつっている。
こちらの胸の内を見透かそうとするかのように、じっと見つめてくる彼女の瞳とバッチリ目が合っていて、正直かなり恐怖を感じていたが、上手く回らない頭でルシルはなんとか断り文句をひねり出した。
「そうなんですか、残念です。では、明日は?」
「えっ! あ、明日もちょっと難しいかもしれませんね……」
「では、明後日は?」
「それもちょっと……」
「では、明明後日はどうでしょう?」
(ひぇ……。こわ……怖いわ……。何なの、いったい……)
何度断られても彼女は、『では、その翌日はどうでしょう?』と流れるようにルシルの予定を確認していき、一ヶ月後の予定を確認されたところで、ルシルはすっかり疲弊してしまっていた。
そして、突如、床に視線を落としたまま何も言わなくなってしまったアルに、ルシルは何故か恐怖していた。
(怖い怖い怖い。でも、無理なものは無理なんですー!)
放課後、彼女とふたりで過ごすだなんで、何が起きるのか、何をされるのか全く予測できなくて、その状況は恐怖以外の何ものでもない。
「……ルシル様はわたしのこと、お嫌いなんですね」
「え!」
寂しげにポツリと呟いたアルに慌てて顔を上げるが、もう遅かった。
「そう、ですよね……。当たり前です。わたし、ルシル様の婚約者さんを奪っちゃったんですもん。ごめんなさい、ルシル様! でも、わたし、ルシル様に憧れてて!」
両手で顔を覆ってワッと泣き出した彼女に、ルシルは呆然とした。
(え、な、何!?)
どうしたらいいのかとオロオロするが、状況は悪化するばかりで、教室に残っていた生徒達が、ふたりを見てヒソヒソと話し始めた。
「サフィレットさんがアルさんをいじめてるって噂、本当だったんですね」
「泣かせるとか酷すぎませんか? アルさんが可哀想です」
「ローラルド様に捨てられたのも納得できますわよね」
(ひぇー! 違う、違うんですー!)
いつの間にか廊下の方に人だかりができていて、その人達は皆、ルシルがアルを泣かせたという噂を聞いて駆けつけた人達のようだった。
アルを庇う言葉と、ルシルをなじる言葉があちこちから聞こえてくる。
(違うのに……)
ふいに、婚約破棄をされたあの夜がフラッシュバックする。
会場全体から聞こえてくるルシルを侮辱する声。ルシルの味方は一人もいない。
自分は価値のない存在なのではないかと、そんなことを思ってしまいそうになるくらいの孤立。
「……っ」
(怖い)
どうしようもなく、怖い。
第二王子の婚約者でなくなっても、浮気されて捨てられた可愛げのない女ということになっても、自由になることはできないのか。
やってもいない罪で、永遠に糾弾され続けるのか。
昨日の朝は、もう大丈夫だと、これからは自分らしく生きていくのだと、そう思ったのに。
今のルシルは全く大丈夫ではなかった。もう、頑張れそうになかった。
(誰か、助けて……)
だんだんと周りの音が遠くなっていく。
不快な言葉を身体が本能で遮断しているみたいだ。
今日は勇気を出して登校したが、もう、明日からは頑張れないかもしれない。
そう思った時、温かい何かがルシルの手に触れた。
「……何この学園。ゴミすぎ」
「え」
どこからか低い声が聞こえた。
それは、ルシルの聞き間違いでなければ、到底貴族の子女の言葉とは思えないものだった。
この学園に、そのような言葉遣いをする人間がいただろうかと、ルシルは動揺する。
(え、誰……)
これがどん底なのではというくらい気持ちが落ちていたことも忘れ、声の主を探そうと辺りを見回そうとする。
けれど、いつの間にか誰かに両手をしっかりと握りしめられていたことに気づき、ルシルは謎の声のことは一度忘れることにして、そっと顔を上げた。
深い青の瞳と視線がぶつかる。
「みなさん、気にしないでください! これはルシル様とわたしの問題ですから!」
アルが周囲にそう声をかけると、野次馬達は『アルさんがそう言うなら』と、納得はしていない様子ではあったが、少しずつ散らばっていった。
「ごめんなさい、ルシル様。ちょっと意地悪してしまいました。さぁ、行きましょう!」
「え!」
(なんで! どこに!?)
力強くアルに腕を引かれ、ルシルは躓きそうになりながら、彼女の後ろを走る。
教室を出て、学園を出て、彼女はいったいどこに向かっているのだろうか。
逃げたい気持ちでいっぱいなのに、彼女の手は絶対に自分から離れない気がして、逃げ出せそうにない。
走り出す前、見えたアルの顔には、涙の跡は一切なかった。