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天国と地獄を行ったり来たり

 その夜、サフィレット家は大騒ぎだった。

 ルシルが無実の罪を着せられ、大勢の人の前で侮辱され、更に一方的に婚約破棄されたことを知った彼女の両親は、王家に文句を言いに行くと言って聞かなかった。けれど、それをルシルは止めた。なんだか疲れてしまったのだ。

 両親を宥め、ルシルは自室に入るなりベッドに飛び込んだ。


(なんで、こんなことに……。何がいけなかったの? どこで間違ってしまったのかしら? 誰か、教えてほしい……)


 今夜は眠れないかもしれない。

そう思っていたが、彼女は自分で気づかないくらい疲れが溜まっていたらしく、その夜、ルシルは泥のように眠った。





「……って、今何時!?」


 ルシルは、ガバッと勢いよくベッドから飛び起きた。

 カーテンの隙間から微かに朝日が漏れている。


 控えめに自室の扉がノックされ、入室を許可すると、サフィレット家のメイドであるソフィアが遠慮がちにそっと部屋に入ってきた。


「すみません、ルシルお嬢様。何度か声をかけたのですが、相当疲れていらっしゃるのか、ぐっすり眠っておられましたので、ソフィア、今日はもうお休みでいいかなと思って、起こさなかったんです」


 『勝手なことをしてごめんなさい!』と勢いよく頭を下げられる。

 ソフィアはルシルより少し年上だが、妹がいたらこんな感じかなとルシルが思ってしまうような存在だった。


「顔を上げて、ソフィア」


 ソフィアは恐る恐る顔を上げ、ゆらゆらと不安そうに揺れるその瞳にルシルの姿を映す。


「お休みにしてくれて良かったわ。今日はなんだか、学園に行く気分じゃないもの」


「ルシルお嬢様……」


 心配そうにしているソフィアに、ルシルは微笑んだ。


「ありがとう、ソフィア。私、大丈夫よ」


「でも……。ローラルド様の婚約者でいるために、お嬢様が頑張ってきたこと、ソフィア知ってます。それを知らずにお嬢様を否定したことが、どうしても許せません……」


 昨日のことは既に皆知っているようだ。

 第二王子の婚約者という立場を失い、皆に迷惑をかけ、失望されるかもしれないと思っていた。

 けれど、父も母も、そしてメイドである彼女も皆、優しい言葉をかけてくれる。不謹慎かもしれないが、ルシルはそれが嬉しかった。


 愛はなかったけれど、いつか結婚するんだと思っていた人に婚約破棄をされ、浮気までされた。

 お互いが七歳の時に婚約者という関係になってから今までずっと、ローラルドの隣に並んでも恥ずかしくないようにと、勉学に励んできたし、振る舞いにも気をつけてきたつもりだ。

 その努力が全て否定されたように思えて、ルシルは泣きたいくらい悲しかったし、努力が足りなかったのかと自分を責めもした。

 けれど、不思議と涙は出なかった。

 それは、自分の代わりに怒ってくれる人がいたからだと、ルシルは思う。

 自分の代わりに、怒り、悲しみ、涙を流してくれる人がいる。

 そんな人達がまわりにいることは、当たり前のことではない。


(私は幸せものだ)


 婚約破棄をされ、第二王子の婚約者という立場を失っても、彼に大切な女性がいたことを知っても、なお、心が折れずにいられるのは。


(みんなのおかげだわ)


 自分は恵まれている。


(だから、大丈夫)


「よし! せっかくソフィアがお休みにしてくれたのだし、ちょっと出かけてくるわね!」


 ルシルはベッドから飛び降り、動きやすい普段着のドレスに着替え始めた。


「え、だ、大丈夫ですか……? お嬢様に無理してほしくないって、ソフィア、そう思ってます。たぶんソフィア以外の使用人達もみんなそう思ってます」


「大丈夫よ。ありがとう、ソフィア。私、無理してなんかいないわ。どうしてかしら? 今、とても気分が良いの」


 ルシルはソフィアに笑いかけた。

 その笑顔に、無理をした様子は感じられない。

 ルシルは思う。いつまでも落ち込んでいられない。

 落ち込んでいたところで、楽しい時も悲しい時も、時間は同じ速度で進んでいく。

 それならば、元婚約者のことで頭を悩ませる時間よりも、自分の好きなことをする時間の方がきっと素敵だ。


 それに、婚約破棄されたことはショックではあったが、ローラルドはルシルに優しい男ではなかった。

 いくら努力を重ねても、彼から認められたことは一度もなく、ルシルは彼といて楽しかったという記憶がない。

 もし、彼と結婚したとしても、きっと幸せな家庭は築けなかったように思う。

 だから、彼と離れることができて逆に良かったのかもしれない。

 一晩ぐっすり眠ったおかげなのか、ルシルは妙にスッキリした気持ちでいた。


 昨夜、第二王子は元婚約者となった。

今まで、第二王子の婚約者という立場から、ルシルは自分の好きなことを満足にできずにいた。

 けれど、今日からはもう違うのだ。好きなことを好きなだけできる。自由の身なのである。


「行ってくるわね、ソフィア! 夕方までには帰るわ!」


「えっ、あっ、お嬢様! い、いってらっしゃいませ!」


 軽く髪を整え、身支度を終えたルシルは部屋を飛び出す。

 その後ろ姿を見つめるソフィアは、先程までは第二王子に対する怒りでいっぱいであったが、ルシルの笑顔を見た今、どこか晴れやかな気持ちでいた。





「うーん、美味しいー!」


 下町にて。歩きながらワッフルを食べるという、とても令嬢とは思えない振る舞いをしながら、ルシルは街を歩いていた。


(最高すぎてびっくりしちゃった! 景色を見て、歩きながら何かを食べるのって、こんなに楽しいのね!)


 先程からすれ違う人のほとんどが、上等なドレスを着ているのに、屋台で何かを買っては歩きながら食べるという行為を繰り返すルシルに、訝しげな視線を向けている。

 けれど、彼女は何も気にならなかった。

 昨日までなら、第二王子の婚約者のルシルなら、きっと、自分に向けられる好奇の眼差しを気にしていただろう。自分の行動を恥じていただろう。

 けれど、今はただのルシル・サフィレットなのだ。


(自由だー!)


 とてつもない解放感から、ストロベリーソースがかかったワッフルを持っていることを忘れ、思わず天に向かって両手を伸ばす。


「ひゃっ!」


 すれ違った女性にぶつかり、ルシルの手を離れたワッフルは宙を舞った。

 慌てて手を伸ばすが間に合わず、それはぶつかった相手のドレスへと当たり、ボトッと切ない音を立てて地面に落ちた。


(…………)


 天国から一気に地獄である。

 地面を見つめ、一瞬放心状態になったルシルだったが、ぶつかった女性のドレスに自分の食べかけのワッフルが当たってしまったことを思い出し、慌てて女性のドレスを確認する。

 真っ白なドレスの裾はストロベリーソースで汚れていた。


「ご、ご、ご、ごめんなさい! 弁償します!」


 女性に向かって勢いよく頭を下げる。


(や、やっちゃったー!)


 ふたりの間に沈黙が流れた。

 クリーニングで落ちない汚れだったらどうしようとか、大切なドレスだったらどうしようとか、色んな考えがルシルの頭の中を駆け巡る。


「あの、本当にごめんなさい!」


 もう一度謝罪し、頭を下げたままでいると、頭上からどこかで聞いたことのある声が聞こえてきた。


「ふふっ、お気になさらないでください。これも柄みたいで嫌いじゃないですから」


(……あれ?)


 聞き覚えのある声。だけど、どこで聞いたのか思い出せない。

 不思議に思いながら、恐る恐る顔を上げると、深い海のような色をした瞳と目が合った。


「え!?」


 思わず大きな声が出て、ルシルはパッと自分の口を押さえた。


「ルシル様も買い食いとかされるんですね」


 目の前で、くすくすと微笑ましそうに笑う女性。それは忘れることのできない元婚約者の浮気相手、アルだった。


(ひぇー! な、なんでこんなところにいるの!?)


 彼女も自分と同じ学園の生徒だ。それならば、彼女は今は学園にいなければおかしい。学園を休んだ自分のことは棚に上げ、ルシルは思った。


「……えっと! その、ドレスのことはごめんなさい! あとで弁償します!」


 昨日の今日で、彼女とどう接したら良いのか分からない。

 自分は婚約者を取られた立場で、彼女は取った立場である。

 だから、どちらが悪いという話になれば、悪いのは彼女の方であるはずなのに、どうしてかルシルは気まずさに耐えられずにあちこちに視線を動かして挙動不審になってしまう。

 そして、ついには耐えられずにその場から逃げ出した。


「ルシル様!」


「びゃあっ!?」


 しかし、回り込まれてしまった。

 逃がさないとでもいうように、ギュッと両手で自身の両手を掴まれ、ルシルは冷や汗をかく。


「弁償なんかいいですから! そんなことより、わたしとお茶しませんか?」


(なんで!?)


 昨晩、アルがルシルにドレスをボロボロに切り裂かれた、というようなことをローラルドが言っていた。

 実際にはルシルの犯行ではなく全くの濡れ衣であるが、恐らくアルはドレスに傷が付くことを嫌がる女性であるはずだ。

 それなのに何故、確実に犯人はルシルであるという状況の今、ルシルにドレスを汚されて、『気にしないで』と言って笑っているのだろう。


(今度は何!? いったい何を企んでいるの!?)


 ルシルにとって、今の状況は恐怖でしかなかった。

 アルの考えていることが何も分からない。

 正体が分からない相手ほど怖いものはない。


「あ、あの、アルさん……」


「はい! なんでしょう、ルシル様!」


(無駄に元気が良くて怖い!)


 浮気された立場、被害者側であるというのに、ルシルは何故か怯えながら恐る恐るアルに話しかけた。


「えっと、ですね。昨日のことは本当にもう気にしていませんから。おふたりに何かしようだなんて思っていませんし、それに、私、ローラルド様のこと、別に好きだったわけじゃないなー、なんて」


「…………」


(沈黙が怖い!)


「で、ですので! おふたりの邪魔はしませんから! 本当に! 末永くお幸せに! あ、でも、結婚式には絶対に呼ばないでください! じゃ!」


 アルの手を振りほどこうと必死になりながら言いたいことをマシンガンのように伝える。

 とにかくふたりの邪魔はしない。自分は無害である。なので、もう関わらないでほしい。そのことさえ伝わればそれで良かった。


(う……。力強っ)


 普通の少女であるはずなのに、アルの力は思いの外強く、なかなか手をほどくことができず、焦りが生まれる。


「……本当ですか?」


ポツリと、アルが言う。


「え、な、何が、です……?」


「第二王子のこと、好きだったわけじゃないって」


そっとアルの顔を覗き見る。


(……あら? 意外と背が高いのね)


 ふと、ルシルはそんな場違いなことを思った。

 昨夜は気がつかなかったが、今、近くでアルを見ると、ルシルの頭一つ分くらい彼女の方が背が高いことに気づいた。


 手を握る力が強くなり、ハッとしてアルを見る。

 彼女は俯き、自身が握りしめたままのルシルの手をじっと見つめている。

 表情はよく見えないが、笑っているようには見えなかった。


(な、何? 私が復讐しないように言質を取っておこうとか、そういうことなのかしら?)


「え、えぇ。ローラルド様とは、お互いが好きで婚約者になったわけでもないですし。親同士が決めた婚約ですから」


「そこに、恋愛感情はないということですか?」


「は、はい」


沈黙。


(本当に何ー!?)


 謎の沈黙に恐怖で震えていたルシルだったが、突然パッと顔を上げたアルに思わずのけ反った。


「本当ですか!? 良かったー! 安心しました!」


「え」


 花が咲いたように明るくて華やかな笑顔である。悔しいが、昨夜、元婚約者がアルのことを天使だとか、可愛らしいだとか、そんなことを言っていた理由が分かった気がした。


「で、では、そういうことなので!? よろしくお願いしますね!」


 僅かにアルの手が緩んだのを見逃さず、今がチャンスだとばかりに、ルシルは彼女の手の中から逃れ、必死に駆け出した。


「はい、また!」


 後方から元気な声が聞こえてきたが、幸いにも、彼女はルシルを追いかけてくる気はないようだった。


(お願いだから、もう関わらないでー!)


 これからは、ただ平和に自由に、何にも縛られずに生きたいだけなのだ。

 『よろしくお願いしますね』という言葉の中に、もう金輪際関わらないでほしいという気持ちを込めたつもりであったが、アルには伝わっていないように思えた。

 昨日は第二王子と共にルシルを糾弾したというのに、この変わりようはいったい何なのだろう。


(……でも)


 思い出す。よく考えてみれば、昨夜、アルから直接何かを言われたことはなかったし、ルシルが捕らえられそうになった時、止めたのは彼女だった。


(……何を考えているのかしら)


 ルシルにとってアルは、元婚約者の浮気相手の女性。ただ、それだけである。彼女に良い印象が全くない。

 今日、アルと話してみて、彼女が何を考えているのかが全く読めず、得体の知れない存在という感想を抱いた。

 とにかく、ルシルにとってアルは、今後一切関わりたくない相手であった。


(でも、ローラルド様のことは別に好きなわけじゃないって、ちゃんと伝えたし! 大丈夫よね……?)


 きっと大丈夫だと自分に言い聞かせるが、ルシルは何故か不安でいっぱいだった。

 いつの間にか爪が食い込むほどに強く握りしめていた手のひらは、じっとりと汗ばんでいる。

 何かが始まりそうな予感に、何も起こりませんようにと願いながら、彼女は自宅の門をくぐった。

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