幕間 海と王子とプロローグ
アルがルシルの家に合法を装って訪問した日。深夜未明。王城裏の海岸にて。
寄せては返す波の音だけが静かに聞こえ、生き物の声は何も聞こえない。
どこか幻想的にも見える暗闇の中、ふらふらと一人歩く男の姿があった。
仕立ての良い衣服を身に纏い、しかし、その上質な衣服のあちこちが汚れている。
顔を真っ青にし、おぼつかない足取りで歩く様子は、とても王族には見えないが、彼はこの国の第二王子、その人だった。
彼は女遊びが激しく、まわりには公務と言って外出し、その裏では複数の女性と関係を持っていた。
幼い頃からの婚約者、ルシル・サフィレットは彼の好みではなく、彼女と結婚するのかと思うと気が滅入る日々だった。
どうにか彼女との婚約を破棄することはできないかと考えていたところ、彼に想いを告げてきた下級生の少女がいた。
彼女、アルは、クラスは違うがルシルと同級らしく、婚約者と近い場所にいる女子と関わると、さすがにルシルに浮気がバレるのではないかと戸惑ったが、銀髪の少女はあまりにも彼の好みの花のように愛らしい少女で、一目見ただけで恋に落ちてしまった。
アルは身体を寄せたり、手を握ったり等の軽い接触をしてくることはあっても、それ以上は絶対にしてこなかったし、させなかった。
彼女のそんなところが貞淑でまた愛らしいと、彼はアルへの愛を益々深めていくばかりだった。
そんな大切な彼女から、貴方の婚約者に嫌がらせをされていると涙ながらに訴えられたのは、ルシルとの婚約を発表する予定だった自身の生誕パーティーの一ヶ月ほど前だった。
ドレスや教科書を破く等の嫌がらせをされた、きっと自分と貴方が一緒にいることが気に入らなかったからだと主張する彼女に、ルシルはそのような女だったかと、ローラルドは微かに違和感を覚えた。
けれど、現在お気に入りの女性と、愛情を抱いたことのない婚約者。どちらを取るかと言われれば、彼にとっては前者であった。
ルシルに婚約破棄を言い渡した夜、アルと共に一夜を過ごした。
アルは相変わらず深い身体接触を拒んだが、それでも、愛する女性と共に過ごした夜は、彼にとって幸せなものだった。
翌日、すぐにアルと婚約しようと思った彼だったが、生誕パーティーの翌日、何故か彼の今までの不貞が暴かれた。
複数の女性と関係を持っていたことが明るみに出たのである。
今までバレずに上手くやってきたのに何故と思いつつも、弁解しようとした時にはもう遅かった。
自身の父、国王から勘当を言い渡されたのである。
複数の女性と関係を持っていたことだけでなく、他国の王子に手を出したと、彼は気味の悪い物でも見るかのような目を家族から向けられた。
ルシル以外の女性と関わりがあったことは真実だが、自分は男色ではないし、他国の王子などに覚えはないと訴えても、誰も彼の話を聞くものはおらず、せめてもの情けと、一ヶ月程の準備期間を与えられ、今日、ついに城を追い出されたのだった。
「くそっ、何なんだあいつら、手のひら返ししやがって!」
苛立った様子で砂浜の石を蹴る。
彼が男色だと聞き、過去に関係を持っていた女性達は皆、彼に侮蔑の視線を向け、二度と関わらないでほしいと告げた。
最愛の少女、アルさえいれば、他の女はどうでもいいと思った彼だったが、共に夜を過ごし、その翌朝、ベッドに彼女の姿が無くなっていて、それ以降、銀髪の少女の姿を見つけることができなくなっていた。
心優しいアルなら、自分のことを見捨てないだろう。
そう思い、アルを探していたが、王子としての権力を失った今、自分自身の力だけでは彼女を見つけることは叶わなかった。
ついに城を追い出され、行くあてもなく、海岸をさ迷う。
この国では、どこにいても複数の女性と関係を持ち、他国の王子に手を出した男色という噂がつきまとうだろう。
複数の女性に手を出したことは事実であったが、男性にまで手を出した覚えはない。
身に覚えのない出来事で糾弾され、さらには勘当され、彼は怒りと憔悴を繰り返していた。
このままどこか、誰も自分のことを知らない国にでも行こうかと、ぼんやりと海を眺めていると、遠くの方に人影が見えた。
ほとんどの生き物が寝静まっている深夜。こんな時間に人がいるだなんておかしい。そう思うのに、桟橋に立ち、静かに海面を見つめている人物から、何故か彼は視線を外せなかった。
暗闇の中、潮風になびく美しい銀の髪に彼はハッとし、その人物の元へと駆けよった。
「アル!」
漆黒のドレスの裾を翻し、振り向いた少女は、彼の探し求めていた人だった。
「迎えに来てくれたんだな! 君なら僕を見捨てないと思っていた! やはり、君は僕の天使だ!」
少女の顔には、怒りも悲しみも喜びも、何の感情も浮かんでいない。
全ての感情を消した少女は、どこか人形のようで、ローラルドは美しいと思うと同時に、何故か背筋が寒くなった。
「あ、アル……?」
恐る恐る少女の名を呼ぶと、彼女はいつものように微笑み、彼はホッと息をついた。
「よろしければ、わたしと一緒に、どこか遠くへ行きませんか?」
そう言って、彼女はふわりと笑う。
その姿に、やはり彼女が自分の運命の女だ、とローラルドは思った。
「あ、あぁ! もちろんだ! 君がいれば、もう何もいらない!」
「ふふっ。では、こちらへ」
ローラルドはアルの手を握ろうと手を伸ばすが、逆にその腕を掴まれ、引き寄せられる。
視界が反転し、いつからあったのか、彼女の背後、海に浮かんでいた粗末な小船へと倒れこんだ。
「な、何を……」
彼が起き上がろうとする前に、少女は船を繋いでいたロープを解く。
徐々に船は海岸から離れ、暗い海の中を進んでいく。
その様子を、少女は桟橋から静かに見下ろす。
「おいっ! 何なんだ、お前! どうするつもりだ!?」
喚く元第二王子を、青の瞳は塵でも見るかのような目で見つめた。
「俺の大切な女の子に手を出すからこうなるんだよ」
「はっ!?」
愛らしい少女から聞こえた低い声に、ローラルドは動揺する。
「俺が可愛すぎて残念だったね」
ローラルドに背を向け、海から離れていく少女、もとい、少年。
「な、なんだ、あいつは……」
もう、岸からは遠く離れてしまっていた。
暗い夜の海に囲まれ、呆然としながら、彼は先程の声をどこかで聞いたことがあると思い出す。
「そ、そうだ! あれは……」
アルが少年の姿をしている時、ローラルドは数度、パーティーでアルの姿を見かけたことがあった。
そして、ある噂を聞いたことがあった。
隣国の第三王子、アルバート・エーデルシュタインは、普段は少女の姿をしている変わり者だと。
その話を聞いた時は、そんな王子がいるわけがないと笑い飛ばした。
けれど、もっと真剣に聞いておけば良かったと、今更ながらに後悔する。
あれは、真実だったのだ。
しかし、今さら真実に辿り着いたところで、彼の居場所はもう、まわりに何も見えない暗い海の上しか存在していなかった。