運命が変わった日
十年前。冬の寒さが和らぎ、春の花が咲き始めた頃。多くの高級店が立ち並ぶ富裕層向けの商店街。
そこに幼いアルはいた。
ドレスではなく、同年代の少年達と同じような衣装を身に纏っている。
隣国で暮らすアルにとって、初めて訪れる国で目にするものはどれも新鮮なものに感じられ、ケーキショップや宝石店、自国にも存在する店であっても、一つひとつに目を奪われていた。
『あ……』
ピタリと足を止める。
その場に縫い付けられたかのように動かなくなった彼に気づかず、彼の母は少し先にある花屋で店主と談笑している。
『綺麗……』
ブティックの前で、ショーウインドーに飾られた女性向けのドレスを見て目を輝かせたが、すぐに視線を落とし、顔を曇らせた。
『そのドレス、綺麗よね』
ふいに、軽やかで透き通った声が聞こえ、声がした方に顔を向けると、チョコレート色の瞳と視線がぶつかる。
ゆるやかに巻かれた、背中まであるストロベリーブロンドの髪を持つ少女がすぐ側に立っていた。
どこかのお嬢様なのだろうか。誰が見ても分かるような仕立ての良いドレスに身を包んでいる。
自分と同じ年くらいのその少女を見て、お菓子みたいだ、とアルは思った。
『思わず見とれてしまうわよね! その気持ち、すごく分かるわ。わたしもいつか、こんな素敵なドレスを着たいの!』
『君に似合いそうだね』
キラキラと目を輝かせている少女に、アルは本心からそう言った。
少女は照れたように『ありがとう』と言い、『けれど』と続ける。
『あなたにも、きっと似合うわ!』
『え……』
アルは驚いた。曇りがなく純粋そうに見える彼女の瞳には、嘘もからかいも感じられなかった。ただ、本心から、自分が思ったことを言葉にしているだけのようで、そのことに戸惑う。
『そんなわけないよ』
すぐに否定した。透明感があり汚れのなさそうな彼女の瞳を見続けることができず、視線をそらす。
『……僕、男だし。男がドレスなんて着てたら、変でしょ?』
それは、幾度となく、自身の母に言われてきた言葉だった。
『ドレスを着たいだなんて、そんなこと二度と言わないでちょうだい。気持ち悪い』、『頭のおかしい子を産んだと思われるわ。男に生まれたのだから、男らしくしなさい』。
母に言われた言葉が、彼の頭の中をぐるぐるとまわる。
ドレスが着たいと、まわりの女の子が好んでいるようなものを自分も欲しいと言うと、母に軽蔑の視線を向けられる。
その後は決まって、アルの兄達と比較され、兄達はどんなに優秀で男らしいか、アルとは全然違うという話をされる。
母に嫌われたくない気持ちから、アルは自身の本当に好きなものを好きだと言うことをやめた。
けれど、ふとした時、街中で綺麗なドレスを見た時、目を奪われてしまうことは止められなかった。
きっと、今も、ドレスを見て立ち止まってしまったことがバレたら、軽蔑されるのだろう。
思わず俯くアルを見て、少女は不思議そうに首を傾げた。
『どうして? 別に変じゃないわ』
『え……。お、男がドレスを着るんだよ? そんなのおかしいよ』
自分で自分のことを『おかしい』と思うたびに、アルの心には傷がついていく。
けれど、アルはそんな痛みには、もう慣れてしまっていた。
『よく分からないけれど……。男の子がドレスを着ちゃ駄目っていう、決まりでもあるの? わたしはそんなの、聞いたことがないけれど……』
『それは、……ないけど。でも、おかしいよ。僕にドレスなんて』
『おかしくなんてない! 好きなお洋服を着ることは、何も悪いことなんかじゃないわ。自分を一番素敵にコーディネートしてあげられるのは自分だけだもの。それに、あなた、わたしより可愛いもの! きっと似合うわ!』
勢いづいたのか、ズイッとアルに近寄り熱弁する、澄んだ瞳の少女に、アルは一瞬で心を奪われた。
まわりの女の子が好む可愛らしいドレス、リボン、宝石。
そのどれもにアルはときめきを感じていたが、目の前の少女への気持ちはその比ではなかった。
(……綺麗だ)
ただ、そう思った。
遠くから、女性の声が聞こえる。
『ルシルー! もう! 貴女は目を離すと、すぐにどこかに行っちゃうんだから! 戻ってきなさい!』
少女はハッとしたようにし、少年に背を向ける。
『お母様だわ! ごめんなさい、わたし、行くわね!』
『あ!』
走り出した少女に声をかけようとしたが、上手く言葉が出てこず、そうしている間にも少女の姿は小さくなっていく。
せめて、その後ろ姿を目に焼き付けようと見つめていると、アルの不在に気づいた彼の母が、少し先にある花屋からアルを呼んだ。
慌てて母の元へ駆け、しかし、ドレスを見ていたことがバレて、『女の子みたいなことをしないで』と、いつものように注意される。
けれど、どれだけ言葉のナイフが刺さっても、アルにとっては、もうかすり傷だった。
ドレスが好きなアルを肯定した人物は初めてだった。
先程出会った、お菓子のような少女の姿を思い浮かべる。
彼女にもらった言葉があれば、この先、強く生きていくことができそうな気がした。
それは、アルの生き方が分岐した、ある穏やかな春の日のことだった。