可憐な彼と昔話
「ごめんなさい、俺がやりました!」
パンと勢いよく手を合わせ、アルは謝罪の意を表すように頭を下げた。
気まずい沈黙が流れるだろうというルシルの予想は外れ、アル……もとい犯人は、清々しいほどにあっさりと自白した。
「えっ」
つい先程まで、場を支配していたはずの重い空気は、一瞬にしてどこかに吹き飛んだ。
急な展開についていけず、ルシルは硬直する。
「ほんとごめん、そんなに悲しませるようなことだとは思わなくて! どうしてもルシルに会いたかったし、あわよくば、あなたの部屋に入りたかったから!」
(えっ、怖っ、なんで!?)
「えっと……。それは、つまり、お母様に何かしたと認めるということ?」
アルの勢いに内心引き、気づかれないように僅かに彼から距離を取って、ルシルは問いかけた。
「轢くつもりは本当になくて! ちょっと部下に頼んだだけなんだ。指定時刻にあそこを馬車が通ってくれたら嬉しいなーって」
「部下?」
「あ! 使用人! 使用人です!」
部下でも使用人でも、一般庶民の下にそのような存在がいることにルシルは違和感を覚えた。
そういえば、と思い出す。
一度だけ訪れたアルの家は、平民の住まいとは思えないほどに豪華で、定期的に整えられているであろうことがうかがえる、花で溢れた庭があり、また、メイドも何人かいるようだった。
ルシルは、アルという人間がますます分からなくなってしまった。
「あなたのお母様って、お人好しでしょ? だから、恩を売れば上手いことあなたの家に入れるかなー、なんて。でも、そっかぁ。お母様に何かするのは駄目なんだね。覚えとくよ」
(……?)
母に危害を加えられそうになって、黙って受け入れる人などあまりいないのではと思い、ルシルは首を傾げる。
「あの、一応言っておくけれど、お母様以外も駄目よ? お父様も、もちろん、使用人のみんなも」
「えっ、使用人も駄目なの!? えー、なんで?」
「な、なんでって……。使用人も皆、私の大事な家族だもの」
幼い頃から自分の世話をしてくれている使用人達の顔を思い浮かべながら言う。
「ふーん、よく分からないけど……。ルシルの言う家族の枠に入ってる人には手を出さないように気をつけるよ」
気をつけるではなく、絶対に手を出さないでほしかったのだが、アルとのやり取りで疲弊したルシルは、注意する気力を失っていた。
「うーん、でも、そっかー。あなた以外ならどうなっても別にどうでもいいかなって思ってたんだけど」
「全然良くないわよ。アルだって、家族に危害を加えられたら嫌でしょう?」
「なんで?」
「なんでって……」
疑問に疑問で返されるとは思っておらず、困惑したのち、考えることを放棄したのか、深いため息をついたルシルはこの話題を深く追及することをやめた。
代わりに別の疑問を投げかける。
「……貴方って、どうして女の子のフリをしているの?」
「え? フリっていうか、俺に似合ってるでしょ? こっちの方が可愛いし。好きな格好をしてるだけだよ」
「そ、そう……」
確かに女の姿の時のアルはとても可愛らしい。ルシルもそう思ってはいるが、彼が自分でもそう思っているということに複雑な気持ちになり、けれど、自分にそれだけの自信があることが少し羨ましいとも思った。
「女の子の格好してる時に、いつもの俺な感じで喋ったら、可憐なアルちゃんのイメージが崩れるでしょ? だから、女の子してる時はなるべく可愛いお嬢さんを意識して喋ってるけどさ」
「えっ。な、なら、今はどうして……」
「え? ルシルには女じゃないってバレちゃったし、もういいかなって。それに、俺、別にあなたの前で内面まで女の子でいたいわけじゃないなって思って。バレてなかったら、女の子同士ならではって感じで自然にいちゃつけるかなとも思ってたから、ちょっと残念ではあるけど……」
「へ、へぇ……。そう……」
ルシルは身の危険を感じ、男だと知れて良かったと強く思った。
「……あなたは、俺が男だって分かっても、気持ち悪がったりしないんだね」
「え……」
小さくこぼされた声に、ルシルは瞬きをする。
「えっと? 充分驚いているし、避けたりもしたと思うのだけど……」
「でも、気持ち悪いとか、男のくせにとか、そういうこと、少しも言わないから」
彼の意図が分からず首を傾げるルシルだったが、どんな時でもまっすぐに自分を見つめていた目が僅かに伏せられ、その瞳が揺れていることに気づく。その様子はどこか、迷子の子どものように見えた。
そんな彼の姿に、ルシルは無意識に自身の右手を、ソファの上に置かれた彼の左手に重ねていた。
「誰がそんなことを言ったのか分からないけれど……。貴方は可愛いわ。貴方が男の人でも女の人でも、それは変わらない事実だもの」
アルの顔を覗き込み、ルシルはふんわりと優しく微笑む。
好きと苦手をはかれる天秤が存在するならば、きっとまだアルに対する感情は、苦手の方が重かった。
けれど、迷い子のような彼を放っておくことはできなかったのだ。
「……ありがとう。あなたは、あの頃のまま変わらないね」
「え?」
「やっぱりあなたは、俺を導く光だ」
ルシルが重ねた手をそのままに、アルは顔を上げて笑みを見せた。
「……あの頃?」
(それって、いつのこと? 最近の、知り合ってからのことを言っているとは思えないし……)
もしかして、どこかで会ったことがあるのだろうか。
そう思い、彼女は思考を巡らせるが、答えには辿り着けそうになかった。
「俺のこと、覚えてない?」
「えっと……? ごめんなさい、私達、どこかで会ったことがあったかしら?」
「あるよ。俺は覚えてる。あの時のことを思い出さなかった日なんて、一日もないよ。俺はあなたの言葉があったから、今、自分らしくいられるんだ」
「え……?」
アルはルシルに触れられていない方の手で、自身のゆるやかに巻かれた銀色の髪に触れる。
それは彼の本当の髪ではなく、少女の姿の時につけているウィッグであることを、ルシルはもう知っている。
昔出会っていたらしい彼のことを思い出せず、けれど、真剣な雰囲気に、何と声をかけていいか分からずに戸惑うルシルを見てアルは微かに笑い、昔話を始めた。
それは、今から十年前のことだった。