もう、逃げない(たぶん)
「まぁ、素敵なお部屋!」
ルシルの部屋でアルは感嘆の声をあげた。
室内をゆっくりぐるっと一周し、まるで美術館を見て回るかのようにカーペットの柄などを細かく見ている彼に、ルシルは心の底からやめてほしいと思った。
しかし、現在彼は来客で、とてつもなく怪しいながらも母の恩人らしいので、サフィレット家の令嬢という立場から注意することができずに歯噛みする。
「どうもありがとう……。あの、どうぞこちらへ」
「ありがとうございます! 失礼しますね」
はしゃぐ彼の姿を死んだ目で見つめ、ルシルは嫌々ながらも、部屋の内装を細かく確認されるよりはマシかと、ソファに座るよう勧めた。
彼が腰を下ろしたのを確認して、ルシルはテーブルを挟んで向かいのソファに腰かけた。
控えめにドアを叩く音が聞こえ、ルシルが『どうぞ』と声をかけると、少し間をおいて、ティーカップとマカロンを乗せたトレーを手にしたソフィアが入室してくる。
「ゆっくりしていってくださいね」
テーブルにお茶とお菓子をセットし、アルに微笑みかけたソフィアは、どこか満足げな様子で、退室しようと扉に向かう。
(行かないでソフィア! この人とふたりきりにしないで!)
助けを求めるようにソフィアの背中をじっと見つめるルシルだったが、祈りは届かなかったようで、パタンと静かな音を立て、扉が閉まった。
やがて足音は遠ざかり、室内はしんと静まり返る。
(ひぇー! 無理無理無理、助けて誰かー!)
彼と何を話せというのだろうか。
まだアルと距離を置いておきたかったルシルは、気まずすぎるこの状況に、落ち着かない様子でティーカップに口を付けた。
「ごめんね、突然来ちゃって」
先程までとは違う低い声と話し方に、もしかしたら今日はこのまま女の子な感じでいくのではと思っていたルシルは思い切りむせた。
「ごほごほっ」
「え! 大丈夫!? 持病はなかったよね!? お医者さん呼ぼうか!?」
咳き込んだ瞬間に彼女の元に飛んできたアルの大袈裟なリアクションに、ルシルは異常に疲れてしまった。
「やめ、やめて……。ちょっとむせてしまっただけよ」
「……そう?」
ルシルの顔を覗き込み、問題が無さそうだと確認した彼は、元の席に戻らず、何故か彼女のすぐ右隣に座った。
(……なんで?)
自然にも思える流れで隣に座った彼に視線を向ける勇気はなく、ルシルは膝に乗せた自身の手をじっと見つめて、どうにかやり過ごそうとした。
黙ったままのルシルに何か勘違いしたのか、アルは『ごめん、怒ってるよね?』と不安げに言う。
「あなたが俺との関係のこと、考えたいって言ってくれたから待ってたんだけど、どこで何してても、ルシルが同じ地面のどこかにいるって考えたら、いてもたってもいられなくて! 来ちゃいました、ごめんなさい!」
何の話だ、とルシルは思った。
やがて、そういえば自分は、距離を置きたいということの他に、アルとの関係について考えたいと言ったことを思い出す。
女性だと思っていたら本当は男性だったアルと、これまで通り友人として変わらない付き合いをすることができるのか考える時間がほしいというのも事実ではあったが、どちらかというと、とにかく一度距離を置きたいという気持ちの方が強かった。
彼から離れることで、自ずと彼と友人でいられるかの答えも出てくるのではないかと思っていたのだ。
けれど、距離を置きたいと言ってから一週間も経っていない今日。
心の準備など全くできていない状態で自宅を訪れた彼に、ルシルは困惑の色を隠せないでいた。
「あの、ひとつ聞いてもいいかしら?」
アルの方を見ずに問いかける。
彼が自宅に来たのは本当に偶然なのだろうか。ルシルはそれが気になっていた。
状況を素直に受け止めるのならば、彼は母の恩人であるし、娘として彼に感謝しなければいけない。
実際に、少し前までのルシルなら、そうしていただろう。
けれど、彼女から彼になったアルの本性がどこか不穏なものであることを知った今、普段滅多に馬車が通らない場所に偶然馬車が通って、轢かれそうになっていた女性を偶然助け、その女性がルシルの母だっただなんて、そんなにも偶然が重なることが本当にあるのだろうか。
無事だったとはいえ、母が危険な目にあったのだ。
自身の心のもやを晴らすためにも真実を明らかにしたいと考えたルシルは、意を決して隣にいる人物に向き合った。
ずっと彼と視線が合わないようにしていたルシルだったが、反対に彼はずっとルシルを見ていたようで、すぐに視線がぶつかる。
「え、何? 質問コーナー? どうぞどうぞ、ルシルになら何でも答えちゃう! 百でも千でも好きなだけ質問してよ!」
「……ひとつで充分よ」
「えー。ルシルは謙虚だね」
そういうのではない、と言いたかったが、ぐっと堪え、ルシルは真実を知ろうと口を開いた。
「……今日、貴方がここに来たのは、お母様を助けたのは、本当に偶然のことなの?」
「……え?」
空気が張りつめたものに変わった気がした。
それが答えだった気がしたが、僅かに恐怖を感じながらもルシルは続ける。
「本当なら、私はサフィレット家の娘として、貴方に感謝するわ。大切な母を助けてくださった恩人なのだもの。けれど、違うなら私は……」
違うのなら、それなら、どうするというのだろう。
友人関係を無かったものにして、今後一切この男と関わるべきではない。
頭の中ではそう思うのに、どうしてか、ルシルは言葉にすることができなかった。
代わりに、別の言葉を紡ぐ。
「……貴方のことを、これからも変わらず友人だと思いたい。私は、貴方の家の庭で、悲しい出来事は起こさないと誓ってくれた貴方のことを一度だけ信じると言ったわね。正直、その約束は反故にされてしまったと思ってる」
ルシルはアルに真剣な眼差しを向ける。アルは何も言わず、ただ静かに彼女のチョコレート色の瞳を見つめていた。
ルシルもまた、彼から視線をそらすことはしなかった。
「けれど、信じると決めたのは私なのに、自分の理想から外れた行動を貴方がしたからといって、裏切られたと思うだなんて、私は私のことしか考えていなかったみたい。だから、今度は信じるとか信じないとかじゃない対等な立場で、貴方との今後を考えたい」
彼のことを少女だと思っていた頃、花が溢れる庭で、彼のことを信じようと思った。
信じるということは、難しいようで簡単だ。相手が自分の理想と離れた行動をした時には、裏切られたと、信じていたのにと糾弾すればいい。信じる側にいることは、ルシルにとって楽だった。
けれど、逆はどうだろうか。
自分は信じてもらうに値する人間なのだろうか。
それに、自分は永遠に相手の思い描く理想の自分でいることができるのだろうか。
相手に裏切られたと、そんな人じゃないと思っていたのにと言われることを想像したら、信じてもらう側の人間でい続けることは難しいことだと思う。
信じる側と信じてもらう側。それは対等な立場ではなく、信じる側の方が優位で気楽な気がした。
だから、ルシルは信じる側でいることをやめ、彼と同じ場所に立ち、彼のことを見つめようと思ったのだ。
「私は真実を知りたい。もしかしたら、話によっては、貴方と友人でいることはできなくなるかもしれない。それでも、私ひとりの勝手な判断じゃなくて、貴方の話を聞いた上で考えたいの。貴方はまだ、私の大切な友達だから」
ルシルは深い青をじっと見た。
アルという得体の知れない人間に恐怖を抱き、逃げることしか考えていなかった少女の姿は、そこにはもうなかった。