突撃!お宅訪問
オレンジ色に染まっていく空の下、ルシルは帰路についていた。
放課後になっても迎えに来なくなったアルに、急いで帰宅の準備をして教室から逃げ出すような真似をしなくても良くなったルシルは、解放されたような清々しい気持ちでいた。
距離を置きたいと宣言した日から数日。約束を守っているのか、アルはルシルに近づかなかった。
そんな彼のことを意外に思ったが、すぐに、意外に思うほど相手のことを知っているわけじゃなかったと思い直す。
最近はずっと隣にアルがいたため、少し寂しく思う気持ちがあることも嘘ではなかった。
けれど、自分の心の整理がつくまでは、彼に会わない方が良いと思ったのだ。
彼とこれからも、何もなかったかのように友人でいられるのか。
その問いの答えはまだ出ていなかった。
*
「ただいま帰りました」
自宅の扉を開け、その瞬間、ルシルは違和感を覚えた。
いつもなら、扉の音にいち早く気づいたソフィアが玄関まで走って出迎えに来るのだが、今日はそれがなかった。
(……まぁ、そんな日もあるわよね)
ふと、奥の応接間から誰かの話し声が聞こえてくる。
(お客様かしら?)
今日は来客の予定はなかったはずだ。
部屋から微かに漏れでている声の中に、母と、もうひとつ聞き覚えのある声が混ざっているような気がして、ルシルは嫌な予感がした。
ゆっくりと、声が聞こえてくる部屋に近づき、扉の前で足を止める。
何故か異常に速くなる鼓動を落ち着かせようと、ルシルは胸の辺りをギュッと強く押さえた。
扉の外からは中の様子をうかがうことができず、また、何を話しているのかまでは聞き取ることができない。
しかし、中に入る勇気はない。
もどかしさを感じながら、そっと扉に触れた瞬間、勢いよく扉が開き、ルシルの額に直撃した。
「い、いたぁ……」
思わず尻餅をつく。
額をさすり、涙目になっているルシルを驚いたように見下ろすのは、サフィレット家のメイドであるソフィアだった。
「え! る、ルシルお嬢様!? ご、ごめんなさい! お怪我はありませんか!?」
「え、えぇ、大丈夫よ」
慌てて駆けよってきたソフィアに心配をかけないよう、笑顔をつくり、立ち上がる。
「帰ってきてたんですね、お嬢様。ごめんなさい、ソフィア、気づきませんでした」
「いえ、いいのよ。気にしないで」
申し訳なさそうに眉をハの字にするソフィアの手には、何も乗っていないトレーがあった。
「……あの、ソフィア。誰か来ているの?」
ルシルはそっと問いかけた。
その答えは隣のメイドからではなく、部屋の中から返ってくる。
「あ、ルシル様! ごきげんよう。お邪魔しています」
ルシルの姿を確認した途端、ソファからパッと立ち上がり、スカートの裾を摘まんで綺麗なお辞儀をする少女。
その少女の正体を知るルシルは、恐怖で思わず後ずさった。
(ひぇっ!)
思わず叫びそうになってしまうが、なんとか耐える。
(ど、どうして、アルがうちにいるの!?)
外で虫を見ても、そこまでの恐怖は感じないが、突然、自宅という自分のテリトリー内に虫がいると怖い。
例えるならば、そんな心情であった。
「わ、私、ちょっと用事を思い出したわ」
そろそろと後ずさり、逃亡を図ろうとするルシルを、ソフィアは不思議そうに見る。
「ルシル、帰ってきてるの? そんなところで突っ立っていないで、こちらにいらっしゃい」
自分の娘の存在に気づいたルシルの母が、アルの正面のソファに腰かけたまま、視線だけルシルのいる廊下に向け、声をかける。
「で、でも……」
母に訝しげな視線を向けられ、ソフィアはどうかしたのかと問いかけるように首を傾げている。
そして、少女にしか見えない笑みでルシルに微笑みかけ続けるアル。
逃げ場はなかった。
「は、はい……。お邪魔します……」
自分の家だというのに、ルシルはそろそろと遠慮がちに応接間に足を踏み入れた。
その様子を見た彼女の母は不思議そうに首を傾げた。
「今日ね、こちらの方にお世話になってね。お礼にうちにお招きしたの。そうしたら、貴女のお友達だって言うじゃない? もう、びっくりしちゃって! こんな偶然ってあるのね」
「ふふっ。ルシル様には、いつも良くしていただいております」
聞けば、馬車に轢かれそうになっていた母を、アルが手を引いて助けたらしい。
付き添っていたソフィアは咄嗟には動けなかったようで、アルに深く感謝しているようだった。
美談のように語られるそれに、ルシルは何かがおかしいと感じていた。
平日に母が出かける場所は、近くにある母の姉の屋敷くらいで、そこに行くまでの道は狭く、馬車は滅多に通らない。
「……あの、お母様。今日もおばさまのところに行っていたの?」
「えぇ、そうだけど……。それがどうかしたの?」
「いえ……」
『今日はちょっとおかしいわよ、貴女』と母に言われ、ルシルは曖昧に笑うことしかできなかった。
「ごめんなさいね、アルさん。良かったら、この子と仲良くしていただけると嬉しいわ」
「えぇ、是非。末永くよろしくお願いいたしますね」
可愛らしくニコッと笑うアルに、ルシルは気が遠くなりそうだった。
「ゆっくりしていってくださいね。ほら、ルシル。せっかくお友達が来てくれているのだから、貴女の部屋にご案内しなさい」
「え!」
(嫌すぎる!)
さすがに、現在よく分からない関係真っ最中の相手を自室に入れることに抵抗があるルシルは、なんとか回避できないかと思考を巡らせる。
けれど、上手な断り文句を思いつかないうちに、母に『こんなに素敵なお友達がいるなら紹介しなさいよ』とバシッと強く背中を叩かれる。
ソフィアには『お屋敷にご学友がいらっしゃるのって初めてですよね! ソフィア、とびきり美味しいお茶をご用意いたします!』と、張り切られてしまった。
そんな中で、『この人、元婚約者の浮気相手で、実は男なんです』と言う勇気はルシルにはなく、本当は嫌だと叫びたい気持ちを必死で抑えながら、死んだ目でアルを自室に案内することしかできなかった。