送別の辞
忘れないうちに、最初に書いておこう。卒業おめでとう。これからの人生に、最高の幸運があることを。
私は、この学校に七年いた。東京に来る前の山梨で二回、前々任高で一回、そしてここで二回、つまり、君たちは五回目の担任学年ということになる。君たちには言っていたが、何度も転職を繰り返した自分に向かない屈指の苦手な職が、よくもここまで続いている。その意味を、時々考えることがある。高校時代、学校はとにかく苦手だった。勉強には苦労した。人といるのは窮屈だった。よく、遠くに見える北九州工業地帯の煙突をぼんやり眺めていた。
誤解が無いよう念を押すが、全力はかけてきたはずだ。これでも、任務には忠実なつもりである。
「いつも空を見ているよね」
何のことかわからず、問い直す。
「海が好きな人はね、遠い昔、海から生命が上がってきたDNAの記憶を覚えている人だって。」
?
「そして、空を見続けている人はね、ずっとずっと遠い昔、、、ふふ」
ところで、小野田寛郎という人を知っているだろうか。終戦を知りながら戦後二十九年間、ジャングルで第二次大戦を続行した人だ。良し悪しは置くとして、恐るべき精神力だと思う。その二十九年間にどんな意味を見ていたのだろう。彼が、終戦を受け入れ日本に戻る時、ひとつ条件を出したという。曰く、「(祖国が降伏しても戦い続けよ、との)自分に出された任務の、解除命令を持って来い」、と。終戦から二十九年後の三月、彼に任務解除が伝えられた。長い戦争が遂に終わり、彼はやっと、帰ってきた。
二十九年と言えば、思い出すことがある。
ここで過ごす中、福岡の高校時代の、同じ演劇部だった知り合いに会うことがあった。ずっと音信不通で、こんな日が来るとは信じられなかった。結婚前に話がしたい、という提案を私は受けた。たぶん、私に命令解除を出せる数少ない人物だろう。(たとえクビになったとしても、私がこの職に関わろうとすることを投げ出させることはできない。その意味では唯一だ。)随分と長い時間、話をした。高校卒業後、ひどいことばかりだった。それなりの修羅場は見てきた。この人生、理不尽な理由も含めて、見事なほどに負け続けてきたように見えるかもしれない。なにしろ、もう終わりだと覚悟を決めかけたことも一度や二度ではない。どっこい、生きている。
厳寒の朝、震えながら朝日に染まる南アルプスを見たことを覚えている。南洋の島で、どこまでも青い海の上の雲を何時間も眺めていた時もある。春の夜、街灯に静かに照らされる桜の下に飽きもせず立ち続けていたこともある。電車が荒川を越える時、遠くに富士が見えると、その日はツイている気がしていた。どれくらいの時間が経ったのか、もう、あまり思い出せない。
それでも、ひとつ、たったひとつだけ覚えていたことがある。
俺は高校三年だった自分を、今も、裏切っていないはずだ。
二十九年後の三月、長い、長い戦いが終わった。彼は、やっと、帰ってきた。
そうか、遂に俺は負けたということか、とうとう終わったということなのか。
そう思っていた俺を、不思議そうに、憧れに似た目で見続ける瞳があった。
別れ際、その人に赤坂の駅で言った言葉を君たちに贈ろう。最後の大会の時、舞台袖でガチガチに緊張していた彼女へ、丸めた台本を肩に置いて言ったのと、同じ言葉だ。1ベル、上演のアナウンスが流れる。最善の手は尽くした。絶対の自信がある。2ベル、もうすぐ幕が上がる。負ける気がしない。最高の舞台を見せてやる。俺たちは、どこまでも行ってみせる。これが終わったら、俺は受験で東京に行く。教員免許を取ると、約束をした。向いていない、無理だと何度も笑い飛ばした。だけど、この人の言うとおり、もしも、もしも自分が教員になることがあったなら。
赤坂駅で、彼女はニヤリと、確かに笑った。
「大丈夫。きっと、上手くいく。」
お元気で。では、いつかまた、どこかで。