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滅亡小説

日傘とナポリタン

 魂を灼く暑さだった。絵美は今日のために買っておいた、真新しい日傘を広げた。

 家から徒歩十分のところに、昔ながらのレトロな洋食喫茶がある。絵美が少女のころから通っていた喫茶店で、すでに店主も世代交代し、メニューもそれぞれの味も変わっているが、ひとつだけ変わっていないものがある。

 これまた、昔ながらのナポリタンだ。お子様ランチにも同じレシピで作られているものが入っていて、絵美にとっての御褒美ランチといえるものは、今も昔もこれなのだ。

 今日は一生に一度しかない、記念すべき日だから、絶対にこの喫茶店のナポリタンを食べると決めていた。

 装飾ガラスの嵌まったドアには、「営業中」の文字。事前に開いていることは確認していたけれど、絵美は内心ほっとした。

 そっとドアを開けると、客は誰一人いなかった。

 カウンターで暇そうにしていた店主が絵美に気づき、微笑みかける。

「いらっしゃい。こんな暑い日に、よく来てくださいましたね」

「今日はここって決めてたんです」

 うながされて、絵美は迷いなくカウンター席を選んだ。

 二代目店主もすっかり、キッチンの景色になじんでいる。最初は味付けが変わっただのなんだの言われていたようだが、今ではちょっとした町のグルメスポットだ。なんなら、世代交代してから、町の外からの客が増えた。

 近所の、知る人ぞ知る、という感じではなくなったことも少し寂しいような気がしたものだが、今となっては絵美は、二代目店主に感謝している。子どもの頃から慣れ親しんだ店を、ナポリタンの味を、この日まで残してくれたのだから。

 迷いなく、心に決めていたナポリタンを注文して、少し離れた位置にある窓のほうを眺めた。

 この暑さのため、小さな窓に切り取られた景色の中に、出歩いている人の姿は見られない。それはそうだ、今日のような日は、絵美のほうが奇特なのだ。

 やがて、待ちに待ったナポリタンが運ばれてきた。

 食欲をそそる赤い色。野菜とソーセージは少し大きめに切られている。胡椒が多めにかかっているのは先代のときからで、ときおり口の中に走るピリッと感がたまらない。

 魂を灼く暑さから切り離された喫茶店で、できたて熱々、ちょっとスパイシーなナポリタンを頬張る幸せは、これ以上ないものに感じられた。

 絵美が食べ終わる頃、静かに調理台を拭いていた店主が、「暑いですねえ」と呟く。

 ねえ、と絵美はうなずいた。

「外を歩くなら、何もしないで五分間。日傘を差して十五分間。屋内でも今日の夕方まで、地下街だったら日没まで。それで、暑さが原因で生きとし生けるものみんな、今日で消滅するなんて、信じられないですね」

 うんうん、と店主もうなずき返す。

「今年の夏の暑さは、まず生き物の輪郭を溶かしてしまうそうですよ。それから、生き物の核である魂を。それで地上には今夏以降、なんにも残らなくなる」

「日傘さえ買っておいたら、十五分の猶予があるのは良かったです。だって、家からここまでなら来られるんですから。今日は、朝は家でふつうに起きて、ふつうに過ごして、最後に食べたいものは何だろうって考えたときに思い浮かんだのが、ここのナポリタンだったんです」

「光栄です。いかがでしたか」

 店主が確認してきて、絵美は微笑んだ。

「いつも通り、とっても美味しかったです。世界の終わりなんてもう二度とないから、そんな日にここのナポリタンを食べられて、良かった」

「そうですか、それはよかった」

 店主が嬉しそうに笑う。

 必要ないのではないかと、二人とも思ったけれど、互いに口には出さずに、いつも通りの会計をした。

 このままここで過ごしていきませんか、と店主は声をかけたけれど、絵美は首を横に振った。

 いつもの生活と同じように、帰ります、と言った。

 絵美はちょっとドアを開けて、店の外に踏みだす前に、顔だけ出して外を見た。

 異様な熱を降らせる太陽がまぶしい。ナポリタンみたいな色だなと思った。


 世界最後の客が去って、ドアがかちゃりと閉まる。

 キッチンから立ち上がった店主が、装飾窓から外を見ると、もう彼女の姿はどこにもなかった。

 店から少し歩いたところに、彼女が差していた日傘だけ、転がっていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 淡々と、あるいはいつものように一日が過ぎていく、索漠としているはずなのに二人の間に流れているのは穏やかな時間であるところに惹かれました。そしてナポリタンが食べたくなりました。
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