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菊花之宴

作者: 如月一月

鎌倉武士が兄から義姉と話して遺産相続する話

坂東に、涼風が吹いている。

秋。酉刻。矢田家屋敷、そう呼ばれる屋敷の庭にひとりの男が立っていた。歳は二十七。名を矢田平次郎清親という。弓の得意なことで知られた、武州の北部に所領を持つ御家人のひとりであり、この屋敷の主の弟である。

そして、此度の葬儀で送られた人物の弟であった。


矢田、という一族は確かに鎌倉殿の御家人である。しかし、その家といえば北条や足利、三浦のような幕府の枢機に携わるような人物のいる一族ではなく、あるいは小山や千葉のような一国全体に庶流を持つような大族ではない。

なれど、その惣領となれば、全国に散らばる六カ所の所領を差配することを許され、各地にいる一族郎党を統率する身である。

少し前まであれば、その地位にあったのは彼の兄である矢田三郎行国であった。が、その存在は、今はない。


「面倒な」


思わず、というような口で声がこぼれた。これからのことを考えれば、陰鬱な気分も起きるという者である。

鎌倉の情勢は、荒れていた。

より正確には、日の本全土が、というべきかもしれない。京と鎌倉の間で、不穏な雰囲気を醸し出す事件が起きていた。清親は、矢田氏の鎌倉屋敷の管理を手伝っていたから、よく知っている。


「まあ、悩まんでもよい」

そう他人事のように返す兄を見て、矢田一族の将来はこの人物がどうにかするのだと思っていた。そして、心配性な自分ではなく、楽観的な兄が羨ましいとも思った。厳格だった父よりも兄のほうが一族の揉め事が減った。その一事だけでも、いくら人として掴みどころのない者であろうが、兄の惣領としての優秀さを感じずにはいられなかった。


が、その兄はもういない。飄々としたあの兄は、そのまますい、となにかに命を吸われたかのように病で死んだ。それどころか、その後継となるべき甥はまだ幼児だった。

「……面倒な」

再度、声がもれた。


背後から近づく気配を感じたのは、その直後であった。

「義弟殿!」

大声である。まるで山野の中で獲物でも見つけたかのような喜色を感じさせる声の主に、清親は振り返った。

「なんですか、山口殿」

姉の夫である山口太郎範義に声を返す。

清親は、十は離れた歳の、この人の好い義兄が好きだった。武芸に優れ、馬をよく乗りこなし、よく笑い、そして怒る。まさに坂東武者であった。同い年である実の兄よりも、懐いていた自覚がある。


「探したぞ。そんなところ居ったのか」

「ええ、少し風に当たりたくて」

ふむ、ふむと納得したように何度も頷く範義。小物が行えばわざとらしいそんな仕草ですら、いかにも武士としての風格に満ち溢れていた。

これでいて、あの酔狂な兄と幼馴染であり竹馬の友であったのだから、人というものは分からない。


「それで、なにか御用でしたか?」

「おお、そうであった。お主を呼びに来たのよ」

「それはまた、なぜ」


葬儀は終わり、弔問客もそのほとんどが帰途についている。残っているのは、親族に連なるものぐらいだ。なにか問題が起きたとも思えない。


「うむ。御台殿がお主を呼んでおるのよ」

「義姉が?」

範義は行国の妻を「御台殿」と敬って呼ぶ。矢田と山口では家格にそう大差はないのだが、行国への揶揄いと、義姉――行国の妻――の出身ゆえにそのように呼ぶのだ。義姉は藤原南家に連なる一族の出身。つまりは、その末端とはいえ、公家の生まれなのである。



「お待ちしておりました、清親殿」

案内してきた範義は既にいない。痩せた身体がそこにあった。女子にしては低い声。気の細そうな顔。それでいて、余裕というものを一切感じることのできない目元。元々そのようであったのだが、兄の死後はそれが際立っている。

が、清親を驚愕させたのは、幽鬼のような気配の義姉ではなかった。


「義姉上、これは……」

「ああ、よいものでしょう? 行国様も喜んでくださると思います」


そこには、部屋一面に散らされた、菊の花々があった。




妙な雰囲気である、と彼は思った。

用意されていた酒を飲めば、その味が口に広がる。部屋の様子を見た時から感じた口の中の苦さを消すために、続けざまにもう一度盃を呷った。そして、正面に座る義姉を見た。


どういう訳か、兄は長いこと正妻を持たなかった。だから、京で番役を果たした兄が戻ってきてすぐに婚姻という話を聞いたとき、彼は言いようもしれぬ困惑に襲われた。その話が出たのが、清親自身が妻を持った直後であったということも関係した。

そうして清親がその降ってわいたような話に困惑しているうちに、その本人が家の中に入ってきた。


――幼子ではないか。

聞けば、自分よりも年下だという。見た目よりは歳をいっていたようだが、それでも若すぎる。それどころか、二歳上の妻にとっては、妹のような義姉であった。

それが十二年前のことである。


正面に座る義姉は、勿論その時よりも成長していた。しかし、その枯れ枝のような印象は変わらない。

――これでは子が遅かったのも仕方あるまい。

器量は悪くない。が、それだけと言えば、それだけである。

陰鬱で、自己主張というものを全くせず、ただただ、兄の影にいる女。

清親は、この義姉が苦手であった。


「そういえば、今日は重陽だったな、と思いまして」

それで、菊を散らしてみたのです、と続いた言葉を受けながら、清親は湧き上がる疑問を押さえつけようと努力していた。


「行国様は、菊がお好きでしたから」

「……そうですな」

どうにか意味のある返事を返す。果たしてそうだっただろうか、という思考は既に横にやる。義姉の望みで二人きりではあったが、呑み始めたばかりというのに、既に酩酊しているかのような口振りの義姉から、少しでも早く離れたかった。


「……それで」

はい、と呆けたような返事を返す義姉が、ひどく鬱陶しかった。


「お呼びと聞きましたが、なんの御用ですか」

そういうと、義姉は「あぁ」と思い出したかのような素振りを見せた。


「たいしたことではありません。これを、清親殿に渡したかったのです」

そうして傍らから取り出したのは、一本の太刀。


「それは――」

清親の顔に、さっと驚愕が浮かんだ。見間違えるようなものではない。


「ええ。矢田の頭首の刀。清親殿にお渡しします」



部屋が闇夜の暗さに侵されていく。

その中で散らされた菊の花の色合いだけが、視界のあちこちで、ちらちらと光になっているかのような感覚だった。


「なぜ」

やっとの思いでそれだけを口にする。童女のように菊花を手で弄んでいた義姉が、当然のように答えた。

「行国様の遺言です」

「駒王は、どうするつもりです」

「それは、御頭首がお決めください」

幼い甥の行く末のことをあげれば、夕飯でも決めるかのように返された。


何故、という語が発せなかった。兄の遺言、と目の前の義姉は言う。確かに兄の最期を看取ったのは彼女である。末期の時、範義や清親等はみな、兄の傍に近寄ることを本人から禁じられた。

ただひとり、目の前の義姉を除いて。


「行国様は、あの人は」

義姉は再び菊花を弄ぶ。くるくると、黄色の円が回される。それを愉快そうに眺めながら、笑みとともに義姉は言葉を紡いでいく。

「弟がよい、と。元より嫡子はあれだと。自分は繋ぎに過ぎない、と」

愕然とする気分だった。兄を最もよく観察していたつもりだった。不思議な兄ではあったが、それ故に幼い頃より兄を見、兄に従ってきた。

が、そんなことを考えているとは、露ほども感じたことはなかった。


「あれには、俺がどんな気分で兄を務めたか知らんのだ、と。それはそれは嬉し気に話して、逝ってしまわれました」


「だから、お渡しします」とついでのように付け加えられる。身の内から湧き上がる衝動のまま、彼から義姉への問いが放たれた。


「あ、義姉上は……義姉上は、どうなさるおつもりか」

「さあ? どうしましょう。出家したほうがよいですか?」

絞り出すかのように問いかければ、義姉は心底どうでもよさげに答えた。そして盃の中に持っていた菊を浮かべ、ゆっくりと二度まわし、そのまますっと、中にあった酒を飲み干した。


「義弟殿? 私は」

そう言って顔を向ける義姉の瞳。それを見た瞬間、清親の脳裏に、かつての兄の姿が思い出された。


――なあ、清親よ。俺はな。


「あの方の、現が、欲しかったのです」


――あの女の、幻を愛したのよ。




部屋にひとり、男が残された。その視線は、盃の中。濡れて輝きの沈んだ花に向けられていた。

矢田一党の命運の決まる、一年前のことである。


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