【九】 制作開始
早朝、サン・マルコ教会近くにあるラボージェ親方の工房に、エンリケッタが朝食の仕込みに行くと、既に一人の徒弟が工房に来ていた。
「アントーニオ」
エンリケッタが呼びかけてもその徒弟は気づかず、一心にキャンバスを眺めている。
そのキャンバスにはラフスケッチが挟まれていて、アントーニアはそのラフ画の中に心まで浸っているかのよう。
「アントーニオ」
今度は少し声を強くして呼びかけたので、ようやくその徒弟は気づいた。
「あ、エンリケッタか」
しかしアントーニアは少し目線をそちらに移しただけで、再びそのラフ画に目を移す。
「父さんから聞いたわ。ギャリコ親方から仕事をもらったんだって?」
「うん、そうなんだ」
相槌はうつものの、視線はそのラフ画の方のまま。
エンリケッタもその絵に視線を移す。
木炭で簡単に描かれたように見えて、実にうまく人物の特徴がとらえられていた。
濃い髪の色、整った目鼻立ち、流麗な輪郭。
アントーニオが見た時と同様、そこに映しこまれた美しさに、エンリケッタもハッとなる。
歳は...自分と同じくらいだろうか。
もとより肖像画家として、今この教皇領で一二を争う腕前のギャリコが描いたラフスケッチだ。
既に完成度も高く、美質を吸い上げているのは間違いない。
だがそれにしてもこのあふれんばかりの魅力はどうだ。
人の心を吸い込んでいくかのような、美少女である。
「この人を描くの?」
だがそれには答えず、アントーニオは立ち上がり、
「僕に女神を描く資格があるのかどうかわからないけど」
呟くようにそう言って、朝食も取らずに、出かけて行く。
「女神?」
エンリケッタはそう呟いて、出ていくアントーニオの後ろ姿を見つめていた。
オブジェにあんな熱い視線を向けているアントーニオは、彼女が記憶する限り、過去に例がなかった。
そのギャリコ親方の工房。
午前中にディドリク、メシューゼラ、アマーリアの三人に護衛とメイクを兼ねたペトラの四人が到着していた。
もっともメイクについて言えばノラの方が適任なのだが、外の危険性を考えて、ペトラにした。
メイクそのものは画家たちの指示ですることになるので、ということだったのだ。
護衛もかねてブロムも同行していたが、こちらは馬車の中で待機中。
ギャリコ親方からディドリク達に、担当のチーム・メンバーを紹介される。
まずはディドリクを担当するフランコ。
ギャリコが呼んだ三人の中では一番年上に見えたのだが、実年齢はかなり若いらしい。つまり老け顔であった。
ついでメシューゼラを担当するアントーニオ。
そして最後にアマーリアを担当するセフィロス。
ギャリコはそれぞれに参加して、ディドリクにはフランコとギャリコ、メシューゼラにはアントーニアとギャリコ、と言う風になるらしい。
もっともメインでやるのは、ということなんで、たとえばフランコにも姫様二人の制作に入ってもらったりもするがな、とギャリコの弁。
さっそくデッサンの確認と、キャンバスへの写しになるが、それほどの時間も取らず、実制作に入っていく。
「ちゃんと統一感は出るようにまとめるので、仕上げは心配しないでくれ」
とも言ってくれる。
「それにこいつらはまだ徒弟だが、俺が常日頃から将来確実に親方になれるとふんでる連中なんだ」
そう言って、四人を接待していた。
三人の仕事を横目で見ながら、ディドリクが
「僕は嫡子ではないので、肖像画を描いてもらった経験があまりありません」
と言うと、親方は笑いながら
「するってーと、俺が最初に描かせてもらうってことなのかな、光栄なこった」
そう言いつつ、ニヤニヤ笑っている。
「このジュードニアや教皇領では接触が少ないこともあって、北方や東方の貴人を苦手にしている工房もあるけど、うちはヴァルター殿下に仕事をもらってるから大丈夫でさ」
「この前の会話を聞いていたら、北方にはあまり好感を持っていないと思ってたわ」
とメシューゼラが言う。
「そりゃ失敬した。あれは冗談みたいなもんで、仕事を持ってきてくれるし、殿下とは仲が悪いってことはないですぜ」
そしてギャリコは、ヴァルターと出会った時のことや、これまでの仕事などをかいつまんで教えてくれる。
「ノルド人とは思えないほど、気さくだし、俺たちみたいな職人にもちゃんと接してくれる。王族ってのはああいうものなのかね」
とも言って、手についていた汚れを布で拭った。
「ただ、国としての単位で考えると、北方というか、ノルドハイム王国には良い感情がないけどな」
少し間を置いて、
「なにせ攻め込まれて、身内を殺されたものも多いからな、この国では」
とも言う。
ガラクハイムや帝都では、王族や高位貴族、大商人としか会っていなかったため、こういう民間心理については接することができなかった。
やはり帝国一の軍隊を持ち、純血主義の王国は、他国からは嫌われているのだ、と実感させられた。
では、彼らの母国、フネリック王国はどうなのだろう。
その疑問が少し頭をよぎったが、タルキスでのお針子たちの言葉を思い出した。
そもそも小国なので、好悪の感情以前に、情報量がないのかもしれない。
そこへアントーニオがやってきて、
「姫さま、もう少し見せてほしいところがあります」
と言って、メシューゼラを連れて行き、横顔のスケッチをしたりしている。
それを見ながらギャリコが呟く。
「あいつは特に目をかけてるんでさ、女を描かせると抜群にうまい」
「この前言っていた、女性を描くのがうまいというのは、彼のことですか?」
ディドリクがそう尋ねるので
「まだ若いが、腕は確かでさ。アマーリア様の方にも少し入ってもらうつもりです」
そう言うと、少し残念そうな顔をして、ポツリともらす。
「うちの工房に来てほしかったんだがなあ」
顔合わせと、スケッチをして、少し話した後、ディドリク達は工房から退室する。
「できればちょくちょく足を運んでほしいのですが、なくてもたぶん仕上がります」
と親方の見習い弟子みたいな少年が伝えに来た。
まだ徒弟前の少年で、事務や会計なんかをまかされているらしい。
挨拶をして、ディドリク達は帰路についた。
帰りの馬車の中で、メシューゼラがポツリと漏らす。
「肖像画なんて初めてだったけど、ものすごい目で見てくるのね」
「はい、私も視線が鋭いので、吃驚しまいました」
とアマーリア。
ところがそれを聞いていたペトラは
「でも東方やこの南方では、変な迷信もありますのに、お二人とも堂々とされておりました」
と言うので、迷信について少し聞いてみる。
「肖像を描かせると、魂が封じ込められるとかなんとか」
「確かにあのスケッチ段階での正確な絵を見てると、そんな迷信が生まれるのもわからなくもないな」
とディドリクが言って、馬車の中では歓談が続いていた。
「殿下!」
馬車が教皇庁を過ぎて、サン・ルカ市街に近づいたあたりで、ペトラが警告を発する。
ものすごい殺気に包まれている。
「馬車を降りよう。連中の魔術の破壊力を思うと、馬車ごと吹き飛ばされかねない」
そう言って、笛を取り出し、とりあえずヘドヴィヒだけ呼ぶことにした。
時は正午過ぎ。場所はサン・ルカ市街から街道にそれた場所。
市街地からは少し距離のあるところ。
だが左手には森へと続く道があり、森林に入るとまたムシゴの民がいるかもしれない。
まずディドリクが降りて、馬車に待機を命じ、次に降りて来たアマーリアに索敵結界を張らせる。
その情報を兄妹三人で共有し、ペトラ、ブロムには適宜伝えていくことにする。
少し数が多いように感じられたので、暗殺隊の主力が来ていることが感じられた。
障壁結界を張るや、すぐに風刃が飛んでくる。
それ自体は難なく跳ね返すものの、その攻撃の間に、暗殺者達が姿を見せ始める。
また、ディドリクの前に、夏の太陽が照り付けているにも関わらず黒いしみのようなものが現われ、そこから二人の男が飛び出してきた。
「フネリック王国のディドリク殿下ですな?」
そのうちの一人が声をかける。
「だとしたら?」答えるディドリク。
「ジャスペール様の仇を討たせてもらいます」
そう言って前の男が円盤のようなものを取り出し、後ろの男がなにやら呪文を詠唱している。
「兄様」
後方からメシューゼラとブロムが走り寄ろうとするが、別の男達に遮られた。
「ブロム、決着を付けにきたぞ」
その中に、タルキスで痛み分けに終わった剣士ティル・ピスカーがいた。
「おまえか」
そう言ってブロムは構える。一刻も早くディドリクの元へ行きたかったが、この剣士相手に背中を見せることはできない。
ディドリクと対峙する二人組は前後に連なり、前の男が円盤を宙に浮かせて投げつけてきた。
円盤は周囲に刃がとりつけられており、そこそこの重量が見てとれた。
恐らくまともに受けると、首を切り落とすくらいの威力を秘めているのだろう。
ジャスペールが言っていた「魔念動」の使い手かもしれない、と思い、自身も力場を展開して、ディドリクはその二人組に突っ込んでいく。
よけられる自信はあったが、万一のためである。
力場を、飛んでくる円盤の上方に設置して円盤を躱し、その円盤を投げた男に剣で切りかかろうとした。
するとその前から来る男が中空にはねる。
その背後から後方にいた男が長い槍で突いてきた。
前の男が影になっていたため、その槍の間合いがわからず、咄嗟に右横へ飛びのいた。
なんとか躱せたものの、一瞬の差である。
気づくのがあと数舜遅れたら、串刺しにされていたことだろう。
「チッ」と槍を突き出した男が体勢を整えると、飛びあがった男が戻ってきた円盤をキャッチして、再び槍の前に立つ。
なるほど、前の男が刃つきの円盤で攻撃し、それが躱されたとき、後ろの槍が間合いの中で相手を刺す、というわけか。
メシューゼラとペトラも数人の暗殺者に囲まれて動きが制限されている。
暗殺隊の孤立戦法が功を奏し始めていた。