【七】 肖像
館に残ったアマーリアは、ノラに治癒術をかけていた。
メシューゼラが瀕死の重傷を負った時に比べて、カラダに受けたダメージは微小だったが、心の中にどういう影響が残るのか、その点が不安だった。
だが施術者が早い段階で倒れたため、心の中の陰りはまだ定着しておらず、のきなみ潰していくことができた。
ほっと安心すると同時に、もっと深く心身両面への治癒を上達させたい、とも思ってしまう。
ともかく、異母妹から完治しそうだと聞かされて、メシューゼラも深いため息をついて、安堵するのだった。
外に出たディドリク、ブロム、ペトラの三人は、妖術師の群れをたやすく発見できた。
妖術師たちは、ディドリクに撃たれた女を置いて、後方へと逃走を始める。
叢林を経て森に入っていくため、ブロムの俊足でも追いつけない。
やがて彼女らは背後で指揮を取っていたノトラの元へと帰り着いた。
一番奥にいた老婆がすっくと立ちあがり、
「はよう、入りや」
と言って、彼女らを迎える。
月は正面。
したがってノトラの影は追いかけて来たブロム達の方へ一つだけ伸びているはずだったが、まるで光源が複数あるかのように、四方に伸びていた。
走ってきた女妖術師たちは、次々にその影に飛び込んでいく。
すると、どうだろう。
まるでその影の部分が池か沼であるかのごとく、女たちは影の中に沈み込んで、消えていく。
追いついたブロムがその奇怪な光景を見て一瞬たじろぐも、目の前に立つ老婆が妖術師の首魁と見て、切りかかろうとした。
「ブロム、ダメだ!」
背後からディドリクの声が聞こえて、ブロムが急停止。
見ると老婆から影が伸びてきて、今まさにブセロムの足元へ届こうかとしていた。
ブロムは咄嗟に、ディドリクが止めた原因がこの影の危険性だと判断して、影から身をかわす。
影はブロムをとらえられず、また老婆の元へと戻っていく。
ブロムに追いついたペトラ、そしてディドリクも、老婆の操る影を警戒して、その前で止まった。
ディドリクが風刃か火炎弾か、遠距離攻撃を考えていると、老婆はしっかりと彼を見つめて口を開いた。
「フネリック王国第二王子、ディドリク・フーネだね?」
驚いたことに、老婆はフネリック王国の国語、ガラク語で話しかけてきた。
「我が名はノトラ。ホルガーテ王国妖術師の元締めじゃ」
そう言って、忍び笑いをもらすのだった。
マリアの尋問で出てきた名前、妖術者達の親玉であるノトラ本人がいきなり出てきて、ディドリクも一瞬返答に窮した。
「おまえが...ノトラ?」
「おや、お聞きおよびかえ? 光栄だねえ」
顔は笑っているが、その濁った瞳の中には、深淵の闇が渦巻いている。
「おまえさんには、儂の弟子が倒された。その礼をせねばならぬ、と思っておったでのう、こうして名乗りを上げておく次第じゃ」
ようやくディドリクも言葉を継げられるようになり、
「それはこちらも同じこと。僕の弟達がおまえの配下に殺されたわけだからな」
ついに声を出して笑うノトラ。
「ひぇっ、ひぇっ、それではお互い様ということかえ」
そして間を置いて視線をとどめながら
「心置きなく殺し合いができると言うことじゃのう」
そう言いながら、周囲に何かの術をかけていく。
その時、天から大きな風刃が放たれた。
その風刃はノトラの立っている草地を切り裂くが、ノトラには何の効果も出せていない。
「新手が来たようじゃな」
そう言って、ノトラもまた、影の中へと吸い込まれるように消えていく。
四方に伸びていた影は収縮し、やがて一点に集まり、消えた。
「あれが、妖術?」
声がした上の方を見ると、木の上にヘドヴィヒの姿があった。
深夜ゆえ、呼び出しに気づくのに時間がかかったのだろう。
しかし物理干渉を多彩に展開する魔術と違い、真と偽、実と幻が境目をなくすかのような、あいまいな秘術の片鱗を見て、驚きを隠せない。
「ペトラ、君も見るのは初めてかい?」
ディドリクがペトラに向き直ると、
「はい、名はときどきプロイドンから聞いてましたが、実際には初めて見ます」
そう言って、彼女もまた、ノトラが消えたあたりを見つめている。
さすがにもう襲ってはこないだろう、と思い大使館に戻った一行は、陽が上るまである者は休息し、ある者は時を過ごしていた。
ヘドヴィヒも連絡のためと称して、ノルトハイム大使館へと戻っていく。
数日の時が過ぎた。
大使館が夜襲を受けたことに対して、ディドリクはボーメン卿の許可を得て、館邸全体に結界を張り、それを自動継続できるように設定する。
退出路や連絡体制など、あらためてシステム面を強化していき、それが一段落ついた頃、ヴァルターが来訪した。
「やあ、いろいろたいへんだったみたいだね」
開口一番、ヴァルターはこう言った。
「それで、気晴らしになるかどうかわからないけど、一緒に肖像画を描いてもらいに行かないか?」
「肖像画?」
唐突な申し出に、ディドリクが首をかしげていると、
「北方にはこういう習慣があまりないからね」
そう言ってヴァルターは肩をすくめるが
「しかし、王族たるもの、その似姿は残しておくべきだと思うんだ」
そう言って、玄関口に下りて来たメシューゼラを見つめる。
「特に君の場合、花の盛りのような二人の美姫を妹にしている以上、その姿をとどめておくのはむしろ義務だと思うんだがね」
「兄様、ヴァルター、なんの相談ですか?」
この会話の中にメシューゼラが混ざってくる。
「いや、ヴァルターから肖像画を描いてもらおう、という提案をもらったんだけど」
「肖像画?」
と、異母兄と同じ反応を示す赤髪の少女。
「とにかく来たまえ、アマーリアも呼んで!」
ヴァルターの勢いに押されて、三人はノルドハイム大使館所属の馬車に乗りこまされた。
「おっと、化粧の必要があるかもしれないから、ノラにも来てもらって」
ヴァルターの注文に応えて、ノラも加えて馬車で出発となった。
馬車の中でヴァルターが行先について語る。
「昨日君がサン・マルコ教会に行くと聞いた時に、以前肖像画を描いてもらった画家がいたことを思い出したんだ」
そう言ってヴァルターは、ジュードニア王国が美術と音楽の盛んな土地柄てあったことなどを解説する。
「現代的な文化、ファッションとか流行とかはガラクライヒの方が上かもしれないけど、歴史的にはジュードニアこそ芸術の都と言えるんだ」
ジュードニアの画家、音楽家の水準がどれだけ優れているか、そういった知見も広めておくべきだ、と力説される。
北方諸国にも王族や高位の者たちの肖像を残す風習がないわけではないのだが、それはどちらかと言えば事務的にやっている感覚で、絵そのものを楽しむ文化ではない。
「絵を楽しむ、というのは、描くだけじゃなく、自らを描かせるこによっても、深く入っていけるのさ」
しかしまだその経験がないフネリックの三兄妹には、この時点ではあまり現実感がわかなかった。
馬車はサン・マルコ教会近くの、通称「画工房通り」と言われる小路へと入っていく。
ここには画家、画商、それに付随する職人たちがまとまって生活しているという。
その中の一つ、背の高い木造の、工場のような家の前に馬車を止める。
「ギャリコ、いるか」
そう言って案内の男の取次も待たずに、ヴァルターが中へ入っていった。
独特のムッとした匂いに一瞬たじろぎながら、ディドリク達もそれに続く。
入ってすぐの工房のような広間、そこを通り過ぎて、奥にある小間へ向かう。
そのうちの一室、と言っても扉はなく、入り口に麻布を垂らせただけの小間に入っていった。
「ギャリコ、私だ、以前言ってた客人を連れてきたぞ」
入り口に背中を向けていた男が、その声を聞いて、振り向く。
体格はやや小柄、歳の頃は青年を過ぎて中年にさしかかろうかといったところ。
頭髪は濃い灰色、髭は切っているものの、ところどころに無精髭が残り、瞳の色は黒。
その顔貌を特徴づけるのはその黒い瞳で、突き刺すような鋭い視線を放っている。
「なんだ、人殺しの国の王子か」
と、ぶっきらぼうに答えた。
軍事国家であるノルドハイム王国は、ここ百年の戦争では連戦連勝。
他の三つの選帝王国でも、こと戦においては勝ったことがなく、占領されなかったのはガラクライヒを始めとする政治力によるところが大きい。
しかしそれゆえ何度も国土に攻め込まれ、いいところなく蹴散らされてきた国々にとっては、反感はものすごく強い。
それはこのジュードニアや教皇領領民にとっても同様である。
「まぁ、こんな風に口は悪いけど、腕は確かだし、約束をちゃんと守ってくれる男だ」
ヴァルターがそのギャリコと呼ばれた男を紹介すれば、そのギャリコは、ふん、と鼻で答えて
「で、そいつらがお前の言ってた客か? お前と同族の人殺しの国のモンか?」
「いや、彼らはノルド人じゃないから、そんなに敵意を向けるのはやめてくれ」
普段はこの悪口にも動ぜず交渉しているのだろうけど、さすがに初対面となる相手なので、少し注意を促しておく。
もっともそれで収まるような男ではなかったが。
「で、肖像画ってことだったな」
そう言って座っていた椅子から立ち上がって、ギャリコはディドリク達をじろじろと眺める。
「いいぜ、大きさと数、仕上げ方をうかがおう」
そこでようやくディドリク達の自己紹介となった。
三人がそれぞれ名前を言うと、
「綴りは?」
と聞いてくる。
それをボロボロになった手帳に書き留めた後、背後の机の引き出しから、黄色くなった紙片をもってくる。
どうやら料金表らしく、そこで改めて大きさ、枚数、仕上げ方などを詰めていく。
「一人づつ油彩で三枚ってことか?」
そうギャリコが尋ねると、ヴァルターが口をはさむ
「いや、四枚だ。その三枚に三人の集合絵を加えて欲しい」
兄妹がヴァルターの顔を見ると
「その最後の集合絵は私がほしいので、その分は私に払わせてくれ」
と言ってディドリクに微笑み返す。
「期間は、そうだな、一月はほしいが、今大きな仕事が終わったところなので、二月もかからないはずだ」
なんでもサン・マルコ教会の天井壁画に駆り出されていたのが、つい先日終了したらしく、当分の間はゆっくり休暇の予定だったらしい。
「俺は肖像専門だったんだが、教会新聖堂の天井壁画ってことで、教皇領中からラボージェ親方に協力させられてたってわけさ」
サン・マルコ教会に行ったとき、やたら工員のような風体が多かったのはそのせいか、とディドリクは思い返す。
「俺だけじゃなく、何人かにも手伝ってもらうつもりだが、窓口は俺一人ということでいいか?」
「おいおい、私の時と待遇が違うな、料金は一緒なのに」
ヴァルターがつぶやくと、
「そりゃ人殺しの国じゃねーからな、こんな別嬪のお嬢さんが二人もいるし」
と返すギャリコ。
なんでも女性に関しては抜群にうまい男もいるので、そいつにも手伝わせるとのこと。
「ま、うまいったって俺ほどじゃねーがな」
と付け足すのを忘れない。
他の工房の者らしいが、親方衆の一人でもあるギャリコなので、そこは簡単に動員できるらしい。
契約を終えると、さっそくスケッチということになった。
「もう始めるのか?」
ディドリクがヴァルターに聞くと、それを遮ってギャリコが
「当たり前だ、そのために来たんだろ?」
と、ギロリとにらみつけた。
一瞬たじろいでしまったが、気を取り直して、まずはディドリクから。
視線の位置、表情などを少し要求されて、簡単にラフが終わる。
続いてメシューゼラ。
初めての体験ということもあり、どうも視線がキョロキョロと動いてしまう。
それを注意されながらだったのだが、うまく画家の注文通りにならない。
そこでディドリクが傍らに立って、頭部を抱きかかえ、
「落ち着いて、落ち着いて、あの男をしっかりと見てやればいいんだ」
と、ガラク語で言って、頭を軽くなでた後、その場を離れる。
すると今度はしっかりとギャリコの方を見る。
ギャリコ同様鋭い視線で、それでいて口元にはうっすらと、わかるかわからないか程度の微笑を浮かべて、ギャリコをとらえる。
ギャリコの方は口元に笑みが広がり
「良いねぇ、良い顔だ、美貌がいっそう引き立つぜ」
そう呟きながら、手に持った木炭を動かす。
何度も何度も親指で伸ばしたり、木炭を流したり描いたりしつつ、仕上がっていく。
「見せてもらうよ」
そう言ってヴァルターが覗き込むので、ディドリクとアマーリアもそれに続いてギャリコの後ろに回る。
思わず息をのんだ。
そこにはまるでメシューゼラが映しこまれたかのように、描かれている。
これでまだラフ画、スケッチの段階だと言うのか。
白黒なのに、髪や唇の色が浮き上がってくるかのようだ。
一方アマーリアはディドリクのスケッチの方を見て、目を丸くしている。
「すごい...」とつぶやくように声をもらして。
ただ自分の絵なので、ディドリクにはちょっと反応しづらかったのだが。
メシューゼラも戻ってきて、
「うまいじゃない」
と、こちらは謎の上から目線で感想をこぼしているが、その目は嬉しげに微笑んでいる。
そしてアマーリア。
メシューゼラ以上に落ち着かなく、不安げに兄の方ばかりを見ている。
ギャリコに注意されるも、返ってそれが不安となり、いっそう落ち着きがなくなってくる。
ディドリクがそれを見て、ノラに平櫛を出してもらい、妹の元に近寄る。
平櫛で軽く髪を梳いたのち、
「怖がらなくても良いんだよ、いつだって側には僕がいるし」
そう言って頭を抱きしめ、肩を、背中を軽くなでる。
肩に両手を置いて、しっかり向こうを見るように言って、自分はギャリコの背後に移る。
アマーリアの視線がディドリクに向かうと、それは同時にギャリコの方へも向けられるようになる。
これでようやく視線が安定してきた。
メシューゼラほどの時間はかからず、仕上がっていく。
ふう、と息を漏らして終わったのを見ると、アマーリアへ駆け寄るディドリク。
緊張がとけて、満面の笑みになるアマーリアだったが、ギャリコがその表情を見逃さない。
キャンバスに残したスケッチとは別に、手元にある紙にその表情をササッと流し込んでいく。
続いて、三人の集合絵。
ディドリクが前面の椅子に座り、その右手にメシューゼラが立ち、左手やや後方にアマーリアが立つ構図。
これはヴァルターがリクエストした構図でもあった。
ピンのときではなく三人一緒ということもあり、アマーリアも安心している。
「アングル、ポーズはこれでいいか?」
とギャリコに確認されて、その日が終わった。
あと何回かは来る必要はあるらしいが、今日ほどには時間はとらせない、とも伝えられた。