【三】 法術師ケルティーニ
教皇領主庁たる教皇庁は、世俗国家の首府に相当する。
その教皇庁は五つの教会に守られており、東回りに、サン・マルコ、サン・ヨハネ、サン・ヤコブ、サン・マタイ、サン・ルカとなる。
そのうちの一つ、教皇庁の真東にあるサン・マルコ教会が新たに聖堂を作り、その天井一面に天井画が描かれた。
描いたのはジュードニア王国最高の画家と言われたミゲル・ラボージェと、その工房である。
一般公開はもう少し後だが、教皇庁教父、高名な学者、司教らには開陳されていた。
そんな高貴なる人々の対応をするラボージェ師を見ながら、工房画家アントーニオは旧聖堂側の入り口を出て、ぼんやりと時を過ごしていた。
すると教皇庁の人々とは違った装束の一団が教会入り口付近、礼拝堂に近づいてくるのが見えた。
男二人に女二人、性別がよくわからないローブ姿の小柄な人物の、五人。
彼らも教皇庁とは別の関係者なのか? と思いつつ、礼拝堂の受付処を見ていると、旧聖堂の中から高僧と思しき人物がやってきて、対応している。
どうやらリーダーと思しき若い男が、いろいろと話をしている。
アントーニオは、それらを風景の一つのようにして眺めていた。
ところが、その中の一人が帽子を取り、顔をこちらに向けた。
アントーニオを見ていたわけではないのだが、アントーニオはその顔を見て、全身に衝撃に似た何かが走った。
「あれは...異教の女神か?」
赤く燃え立つ炎のような髪。
汗ばんで上気した肌は白く、光り輝くようだ。
そして深淵の湖を思わせる大きな瞳、整った鼻梁。
小さく、しかし意思の強さと乙女の艶を示すような口唇。
顎から頬を経て耳朶へと至る、柔らかな、つややかな輪郭線。
それらがまるで聖女画像のように美しく配置されている。
年の頃は15~16?
真紅の花が今まさに咲き零れんとする、青春の煌めき。
それらが一斉にアントーニオの瞳へと流れ込んできた。
ディドリク一行はノルドハイム王国大使館を出たあと、北から教皇庁の前まで来て、そこから東に折れる。
直線距離ではもっと近い道もあったそうだが、初めてということもあり、大通りがつながっている教皇庁を経由して向かった。
都市の骨格となっていることもあり、教皇庁同様簡単にたどり着いた。
サン・マルコ教会。
教皇庁の東陣を守る一翼でもある教会で、礼拝堂内陣につながる入り口は大きく、巨大な教会である。
北方のような、尖塔を軸にした天を衝く建築スタイルではなく、ドームを周囲に配した南方様式。
その出入り口の大きな門の側にある受付で、名前を告げて待たされる。
すると一人の僧侶がやって来て、来訪に感謝し、内部へと案内する。
その僧侶は昨日来た人物とは別人のようだったが、ジュードニアの公用語の一つヘルティア語でしゃべる。
直感だが、こちらは人間であるように思われた。
「ケルティーニ師は高齢で、足を悪くされているため、出迎えに出られない無礼を許しいほしい、とのことでした」
そう言って「古い方の聖堂」と言われる場所へと案内してくれる。
なんでも聖堂と礼拝堂が手狭になったので、新しいものを建築中だとか。
この礼拝堂も相当大きく感じたのだが、ミサの時などに来る人数が増えてきたためらしい。
中にはちらほらと人の姿はあるが、特別に何か行事があるのではなく、工事関係者だと言う。
そう言えば皆、信徒と言うより、仕事着の労働者風だ。
聖堂へとつながる出入り口に来るとそこにも一人、背の高い男が立っていて、こちらをじろじろと見ている。
やはり衣装が風変わりなのだろうか、土地になれる暇もなく、いつもの簡単な正装で出て来たからな、と思いつつ、進んでいく。
ジュードニアが多民族国家ということもあり、ブロムの漆黒の風体はさほど注目は集めていない。
しかしメシューゼラとペトラは女性ということもあり、男が多い工事関係者の目をひいてしまうようだ。
一応用心のため、アマーリアは以前まとわせたような全身と顔を隠すローブとフードを着せているのだが、この暑気のなかではかなり辛いことだろう。
礼拝堂裏手のようなところに出て短い回廊を渡り、聖堂へ出る。
その傍らにある一室へと通された。
ここに招待主、ケルティーニ師なる人物がいるらしい。
ここまで誘導してくれた僧侶がドアをノックすると、中から弱々しい老人の声が聞こえた。
その僧侶は中に入らず、ディドリク達5人を通した。
部屋は左右の両面が書棚になっており、正面奥に小さな礼拝台、そしてその前に、寝台が設置され、そこに半身を起こした老人がいた。
下半身を寝台に突っ込んでいたものの、上半身には法衣を着ていたので、恐らく寝台は就寝用のものではないのだろう。
部屋には小さな窓が高い位置に二つあるのみで、薄暗い。
部屋そのものは長方形で細長く、ドア→書台と椅子→寝台と、縦に並べられている。
ディドリク達は書台横に用意されていた椅子に座るよう勧められて、座る。
「足が悪くなってしまって、このかっこうで失礼する」
案内してくれた僧侶が出ていくと、その老人はかすれた声で言った。
「このサンマルコ教会の司祭、ケルティーニだ。貴君がフネリック王国の法術師、ディドリク君かね」
その質問が発せられた瞬間、部屋の光りが消えて、薄闇となった。
上方の窓は、闇の幕のようなものに覆われて、室内への採光がなされなくなっている。
しかしすぐにその薄闇に光の点が明滅し、やがて星空になる。
すると部屋全体が天球儀のようになり、夜空に星が、星座が、天の川が描かれていく。
メシューゼラがこの変化に驚きつつも、夜空の美しさに目を奪われていた。
だがディドリクにはこの幻術の底に、悪意の影を見てしまった。
ディドリクがケルティーニ師の問いに答えられずにいると、老人は微笑んで、次のステップに至る。
「そうよのう、儂も簡単に法術師の身分を明かすのは軽率だったわい」
そういって、フラフラと掌を揺さぶると、メシューゼラ、ブロム、ペトラの三人が椅子の中に沈み込み、眠ってしまった。
「何を?」
立ち上がりかけたディドリクをもう片方の手で制して、骨に皮がはりついただけの老人が、再びニヤリと笑う。
「心配ない、眠っただけだ。汝との会談のあと、すぐに目覚める」
微笑みが消え、ディドリクをじっと見つめる。
「それで、君は法術師なのだろ?」
「あなたが私たちに好意的でないのなら、質問にはお答えできません」
そう言ってディドリクが立ち上がりかけると、ケルティーニの口調が変わった。
「図に乗るなよ、小僧」
老人の周囲に強い気が立ち込め、何かの力がそこに集まっていく。
同時にディドリクの周囲に小さな煙の塊が現われ、その中で火花がバチッ、バチッと音を立てて煌めいている。
「法術の力は、魔術師や妖術師のそれとは比較にならぬ。さような雑魚と戦い勝利したことで、自分の力を過信しておるのか?」
口調のみならず、周囲の空気、圧が変化したことをディドリクは感じた。
「少し身の程をわきまえさせてやらねばのう」
老人がそう言い放つと、周囲の煙が一斉にディドリクに襲い掛かった。
だがディドリクの腕は大気の圧で押さえつけられ、力を発現できない。
今まさに、彼の身体に火花散る煙の塊がぶつかろうとしたとき、その寸前で弾かれたように霧散してしまう。
「ん?」
老人は煙となった砲撃の先を見ようと目を凝らす。
するとそこには、兄の傍らで結界を発現させたローブ姿の少女がいた。
アマーリアは何も言わず、煙をまとめ上げ、一つの大きな塊として、発言者の元へ返した。
いや、返したというよりはぶつけたのか。
猛スピードで老人目掛けて進んでいった。
だがそれは老人には届かず、老人の周囲に現出していた力の影がヒトガタを取り、防ぐ。
焦げた硫黄のようなにおいがあたりに立ち込め、三人の法術師が、室内と言う狭い空間の中で対峙していた。
「師よ、わたくしにおまかせいただけぬか」
ケルティーニの背後から現れた力の影がヒトガタを取り、そうしゃべった。
だがそれを制してディドリクが口を開く。
「待ってください。私達は腕比べをしに来たわけではありません。私の発言があなたを不快にさせたのなら、謝罪します」
これを聞いてケルティーニも、すこしだけ怒りの鉾を収める。
だが殺気が消えたわけではなく、隙あらば襲い掛からんとする気配は濃厚に漂ったままだ。
発言に注意しなければならない。
ディドリクは目の前の相手が決して好意的ではないことと同時に、異様な強さを秘めていることを実感した。
(強い。少なくとも今の僕では勝てない)
そう思って、少し引くことにした。
この時ディドリクは目の前の老人の強力な術式に心奪われて、自分の妹がそれに対して何をしたのか、ということに注意が回らなかった。
「まぁよい、わしとしても無益な戦いならば避けたいしのう」
「しかし師よ、この小僧はあの帝都の白い娘の手先ではないのですか?」
うん? 白い娘? シシュリーのことなのか?
背後から現れた人物が放った言葉にひきつけられた。
「わしが『よい』と言っておるのじゃ」
ケルティーニはこの人物をひと睨みして黙らせた。
星空が消え、窓からの採光も復活する。
メシューゼラ達三人は眠りこけたままだが、空気は和らいできた。
「わしも質問が不正確だった。君達は、と聞くべきだったか」
ディドリクはそれを肯定する。
「そうです。しかし私たちの法術はほとんど独学ですので、法術師などと名乗ってよいかどうかには、いささか躊躇もしています」
「独学のう...法術は秘匿、隠匿をその柱とするゆえ、そう言っても責められるべきではないがな」
気が付くと、背後から現れた男は姿を消していた。
「腕比べがしたいわけではない、と言うなら、何用あってこの教皇領に来たのか」
ディドリクは自分の出自、暗殺隊のこと、これまでの戦いを述べ、その足掛かりを求めてきたことを語った。
だがその途中、老人の視線が時折傍らにいるアマーリアの上に落ちているのにも気づいていた。
「ふむ、世俗の要件か。それであの白い小娘とは手を組んでおるのか?」
「私の家族を殺した連中を探し出すのに、智恵を授けてくださっております。しかし先ほど言われた『手下』というのではないつもりですが」
「そうか、あの魔女の野望をまだ知らぬ、と言うことか」
「野望?」
その質問には答えず、ケルティーニはこうも言う。
「それではその暗殺隊を滅ぼしたあと、君はどうするつもりだ」
「国に帰り、王族としての生涯を全うできれば、と考えていますが」
老人はあきれたような顔をしてため息を吐き、しばらく沈黙する。
「世俗の中へ埋没するのか」
つぶやくように言ったあと、ある提案を出してきた。
「それではわしがあの帝都の小娘に変わり、そなたに暗殺隊とやらの情報を与えたら、わしの方につくか?」
ディドリクはハッとして頭を上げた。
「それは...どういうことでしょうか?」
「わからんか、まああの女の野望を見抜けておらぬくらいじゃ、仕方ないかの」
そう言って、再び掌を振ると、背後から二人の男が現われた。
一人はさきほどの人物。もう一人は深くフードをかぶった僧衣で、顔がわからない。
「わしの弟子じゃ」
だがその二人は微動だにせず背後に控えている。
「コロルとメルトンだ。あともう一人教皇庁にいるが、そやつらに君の手伝いをさせよう。わしにつくかどうかの返事は、暗殺隊とやらを殲滅させてからでよい」
そう言って、なにやら書付に署名している。
「これを持って教皇庁トマス・マーブリアンの元へ行け」
続いてケルティーニがアマーリアへと向き合う。
「そなたも法術師か。誰に習った? 独学か?」
アマーリアは兄の方を視線を送り、ディドリクが頷くのを見て、答える。
「兄ディドリクから学びました」
呼び出された二人の従者が、まさか、と言った様子を見せて、動揺する。
再びディドリクに向き合って、言う。
「教皇庁北、サンルカ教会の市街区ポロネツに、帝都瑠璃宮の意を受けたものがいる。そこが君の決戦地であろう」
ディドリクが驚いて老人を見つめると、
「だがそれはほんの一部。帝都にいる本隊を叩けるようにさらなる情報を見てやっても良いぞ」
ディドリクが礼を言おうとすると、
「まずは少しずつ君に情報を出してやろう。この天眼が見たものをな」
天眼...どこかで聞いたような気がするが思い出せない。
「それら情報を見て、後日君の考えをまた聞きたい」
とも言って、会談は終了する。
ケルティーニが二人の従者を下がらせ、掌をふらふら降ると、眠っていた三人が目をさました。
何か夢を見せさせられていたような顔をして、メシューゼラが兄を見る。
「会談は終了したらしい」
ディドリクがそう言うと、寝台の老人は、眠そうに頷いた。