【十六】 指令
早朝、まだ陽が上り始める前。
暗闇の中から、ほんの少し光が見えてきた頃。
メシューゼラが眠りから覚める。
黒衣の男に舗石をぶつけられ、胸と肩に激痛が走ったこと。
鋭い氷刃に身を斬られたこと。
全身から血があふれ出たこと。
泥と血の中で、兄が助けにきてくれたこと。
そういった記憶が前後脈絡なく渦巻き、痛みが永遠に続くかと思われたこと。
そして頭の中で「死」の予感が立ち現れたこと。
ぐちゃぐちゃになった思い、思考、記憶。
それらをひとつずつ整理しながら、今の自分に意識を戻す。
目の前にあるのは、ディドリクの胸。
右腕が自分の頭を巡り、抱きかかえている。
そして背中に感じるもう一人の暖かさ。
(そうだ、アマーリアにも助けてもらったんだ)
そのアマーリアは背中から抱き着くように密着して、胸を押し付けていた。
ディドリクとアマーリアの身体から流れ込んでくる暖かい生気、エネルギー。
それが自分の心臓に入り、血管に流れ込み、全身に力を送ってくれている。
まだ少し痛みは残っているが、肩や肋骨に感じた骨折の痛みは、内臓をえぐられたような痛みは、もうない。
四肢に力を入れてみると、腕も、足も、そして五感も無事に機能しているようだ。
からだをもぞもぞと動かしていると、ディドリクの声が耳に届く。
「起きたのかい、ゼラ」
顔を上げると、そこには一晩中自分にエネルギーを送ってくれていた兄の顔。
するとまた涙があふれてくる。
「だいじょうぶ、大丈夫だよ」
ゆっくりとそう言って、布団の中で、頭を両腕でだきしめてくれる。
寝着の胸の部分に、顔をおしあてて、気を鎮める。
そして、ディドリクの心音が響いてくる。
(アマーリアが言ってたのは、これね)
そう思いながら、その心音が、自分に力を送ってくれているような感覚になっていった
「姉さま、傷は痛みますか」
後ろから小さな声で、幼い妹の声が聞こえる。
普段ならまだ寝ている時間だろうに、起こしてしまったようだ。
「アマーリアも、ありがとう」
からだの向きを変えて、今度はメシューゼラがアマーリアを抱きしめる。
抱き合っている二人の姉妹を見て、ディドリクは寝台から出る。
「もうしばらく、ゆっくり休んでおいで」と言って、着替えをし、寝室から出ていく。
廊下の向かいにあるメシューゼラの部屋。
そこではソファに腰かけたまま、ノラがうつらうつらしている。
万一メシューゼラの容態に変化があった時に備えて、寝台に入らず、ソファで待機してくれていたのだろう。
もう少し寝かせてやりたかったけれど、昨晩は何の説明もしてなかったので、その説明もしておこうと、ノラの名前を呼ぶ。
ハッと目を覚ましたノラは、ディドリクの顔を見て、
「お嬢さまは?」
と尋ねて来た。
ディドリクがほぼ完治しつつあることを伝えると、ホッと安心して、ソファの中に沈みこんでしまった。
落ち着くのを待って、昨晩のことをかいつまんでノラに伝えた。
かつてガイゼルを死の淵に追い込んだ呪術師の仲間たちがいたこと。
彼らが突然襲ってきたこと。
とんでもなく強い相手がいて、それに苦戦していたらメシューゼラが加勢してくれたこと。
その戦闘のさ中、重傷を負ってしまったこと。
ノラが何かを言いたそうにしてやめたのを見て、ディドリクは言う。
「ゼラは、メシューゼラは、僕の命に代えても守るつもりです」
するとノラは
「嬉しいお言葉です、どうかお嬢さまをお守りください」
と言ったあと、苦渋を絞り出すような声で、こうも続ける。
「お嬢様がいなくなれば、わたくしも人生の幕をひくつもりです」
少し時間を巻き戻して、ここは下町、マルコ街の人殺し通り。
フラニールが王都で拠点とする住宅。
そこに、戦を終えたフラニール以下、生き残りの暗殺者達が戻っていた。
広間の上座には、妖術師ノトラ。
そしてその傍らにはジャスペールの高弟三人が座していた。
三人はジャスペールと同じような黒衣に身をまとい、フードで顔が隠れている。
フラニールの報告を聞き、ノトラが深いため息をもらす。
「ジャスペール様が倒されたとは、にわかに信じがたい」
「恐れながら、今申し上げたことは、この目で見たことでございます」
ふうむ、と息を継いで、ノトラがフラニールに言う。
「いや、すまぬすまぬ、そなたの報告を疑っているわけではないのじゃ」
そして傍らに控えた三人に問う。
「どうかな、そなたたち、そなたたちならその法術師を討てますかな」
しばしの間、続く沈黙。
「どうか、忌憚のない意見を聞かせて下され」
「申し上げにくいのですが...わたくしども三人が束になってもジャスペール様には修練の場でかないませんでした」
「その戦いを見ていないので、どのようにしてジャスペール様が敗れたのかわからないので、なんとも申し上げにくいのですが」
「おそらく我々三人が協力しても、ジャスペール様を倒した術者にかないますかどうか」
しばしの間をおいて、ノトラが告げる。
「ともかくこの顛末を、瑠璃宮に報告せねばならぬ、コーニー、おぬしが行ってくれるか」
「は」
「そしてできれれば、ヌルルス様に指示を仰いできてほしい。今このジュードニアには全体を統括する頭がいなくなってしまったのだから」
それからノトラがもう一人の方を向いて、
「ルーニー、そなたは教皇領におられる第二席パトルロ様のところに行って、意見をうかがってきてほしい」
「パトルロ様のところですか?」
「うむ、法術というものを一番理解しておられるのは、おそらくパトルロ様だからじゃ」
そして残った一人、ブローニーに、
「ブローニー、そなたはしばらくの間、このフラニールの仕事を手伝ってやってほしい、ただしあまりここから離れずに」
それを聞いてフラニールが
「すると、暫定的にここの頭はブローニー様ということに?」
「いや、ここのトップはフラニール、おまえさんがやるべきだ」
とノトラが言うので
「しかしおばばさま、わしは足を負傷しましたし、皆の統率までは少し難しいかと」
「いや、暗殺の方ではなくて、本来のおぬしの仕事があったじゃろう、そちらに専念してほしいのじゃ」
このことばを聞いてフラニールの表情が普通に戻ってきた。
「それはありがたいことです、引き続き、攪乱を試みてみます」
「しばらくしたら瑠璃宮から新たな指令が届くやもしれず、またわしの部下も呼び寄せることになるかもしれぬ、あくまで暫定じゃがな」
そう言って、生き残った一同の労をねぎらった。
次の日の昼間、フネリック王国の宿舎でメイドとして働いていたペトラは、自分を呼ぶ声を聴いた。
きょろきょろ周囲を見渡してみても、それらしき人影はない。
だが声は確かに聞こえ、彼女を庭の影のところへと誘導する。
するとそこの影に、なにか白いものが立ち上がった。
「シシュリーさま」
ペトラはそう言って膝をつく。
「つつがなく、王子を守ってくれているようで、安心しました。これからもお願いします」
と、その白い影は語る。
「今回、久しぶりにあなたに呼びかけたのは、もう一つ、お願いがあるからです」
ペトラは膝をついた姿勢のまま聞いている。
「もう一人の法術師も守りなさい」
「もう一人、というのは、アマーリア様のことでございますか?」
「そうです、少し気になることができたのです」
少し間をおいて、白い影は続ける。
「私は勘違いをしていたかもしれません」
「勘違い、ですか?」
「ええ、まだはっきりとはしないので詳細を語れませんが、それを考えての命令です。優先順位はあくまで王子様の方」
ペトラがその命令を受けると、白い影は消えかかる。
「あと、教皇領の法術師とも連絡をとらせなさい」と言い残して。
シシュリーがかつてペトラに下した命令については、第四章【七】~【八】のところで出てきたものです。