【九】 肩車
ネロモン商会のミュルカ・フネリック支店長とグリス州訪問の期日まで、ディトリクはメシューゼラとアマーリアと講読会を続けていた。
もっとも講読会と言っても、未知の文典から文意を探る段階は既に過ぎていて、メシューゼラは魔術実技、アマーリアは法術基礎に移行していた。
パオラの公認も得たメシューゼラは派手な術を覚えたがったが、二人とも、解析、解毒、毒見、と言った地味な術に終始していた。
グリス州訪問で、また一か月以上家を空けることになる。
その時のための用心である。
この三年間、呪いの事件や不穏な事故が起こらなかったとはいえ、呪いをしかけた人物や背後組織は依然として謎のまま。
(内通者がいたのではないか)という疑念も、まだディドリクの胸の内にくすぶっていた。
(何もないに越したことはないけど、何かあってからでは遅い)という想いからである。
そしてもう一つ気になっていたこと。石客研究会での、法術の噂。
自身が幼かったこともあり、人に法術を見せる、語る、ということに、頓着がなかった。警戒がうすかった。
第十四世の「隠匿せよ」という言葉は法術のメカニズムについてだけだと思っていたのだけど、自身の法術使用の痕跡などから、かなりの水準にまで迫られる、ということがわかった。
本音を言えばアマーリアに雷撃術とその応用である成分遊離を叩き込んで、今度の旅に同行させたかった。
しかしさすがにまだ幼い。
加えて、外に出すには先の妖術使のような存在が現われたら、在宅時での危険と変わらなくなる。
そこでアマーリアには法術としての雷撃術基礎を徹底させるにとどめ、並行して索敵結界や探知術を、メシューゼラには魔術結界と魔術としての索敵術を仕込んでいく。
続いて通信術。
アマーリアは首飾りを使う通信には慣れてきたのでもう少し上の段階へ。
メシューゼラにも首飾りに魔術刻印を施して、魔術応用としての通信具に改良して渡す。
仕組みは違うが、表だった事象はほぼ同じ。
試してみるとうまくいったので、メシューゼラが大喜び。
「すごい! これがあれば遠く離れていても、ディー兄様と会話できるのね」
ここだけの秘密、という点を重ねて言ったのだけど、
(ゼラは無理かなぁ)と内心思ってしまっていた。
ただ魔道具を介した魔術による通信はそれほどレアな技術でもないので、知られてもそれほどの大事にはならないだろう、という読みもあったのだが。
アマーリアの法術通信の方は、もう一段階上がると、魔道具を介さずとも通信が、ほぼ念話のような状態で可能になる。
そちらの方を隠しておきたいのだけど、アマーリアなら秘匿できるだろう。
メシューゼラ・アマーリア間の通信も可能にするため、アマーリアにも魔術師用の首飾りを別に渡しておく。
ただしアマーリアはメシューゼラやディドリクほど強い魔力は持っていないので、この魔道具はメシューゼラとの通信には必須になるのだが。
出発前日、ディドリクが父王エルメネリヒにその挨拶に出かけた時、アマーリアに家庭教師をつける時期ではないかと告げられた。
こと教養に関しては、自分がほぼ全てをカバーできるので不要、と言ったのだが、父王に
「教養ではなく、マナーの方だよ」と言われた。
確かにこれから、園遊会や公式晩餐会等、王族参加がほぼ義務付けられる儀式にアマーリアも出席しなければならなくなるだろう。
義務付けられていると言っても、一応成人後(男子十四歳、女子十三歳)からではあるのだが。
そのためには学んでおかなくてはならないため、ディドリクは父王に人選を一任する。
しかしその背景にある点についても、少しひっかかるところがあったのだが、それは今の段階では、胸の内にしまっておく。
つまり、妹たちの婚姻問題にもつながってくるので、少し嫌な気分にもなってしまったのだ。
一般論として、学校に行かない以上、マナーは身に着けておいた方がいいだろう、というのもあるので、家庭教師がつくこと自体は問題がないはずだ。
ディドリクも学院である程度は学んだが、それが基礎に過ぎないので、ついでに、という下心も少しあったのだが。
さて、出発当日の朝である。
今度は商会の関係者も来るので護衛が増えることもあり、けっこうな大所帯になった。
ミュルカ・ネロモン以下の馬車隊が、マレーネ一家の住む第二離宮に集合していた。
ディドリクは母マレーネに出発の挨拶を告げた後、自室に戻り、アマーリアにも言葉をかける。
ところがやはりと言うべきか、アマーリアが浮かない顔をしている。
「そんな心配そうな顔をしないで」と兄に言われたアマーリアは、ハッとして前を向き、ぎこちなく笑顔を作ろうとする。
アマーリアが寂しい気持ちを抑えて、精いっぱい笑顔を作ろうとしているのを見て、ディドリクは妹の腋に手を入れて、持ち上げた。
「ほら、高い、高ーい」
アマーリアは一瞬驚いて
「きゃっ、兄様、なに? なんですか?」と声をもらすばかり。
今度は向きを変えて、両足の間に頭を通して、肩車。
両足をしっかりかかえて、
「さあ、このままみんなの前に出ていっちゃおうかな」と言うのを聞いて
「兄様、兄様、恥ずかしい」と言いつつ、頭にしがみついている。
ははは、と笑いながら、ディドリクが窓を開ける。
「ほら、外を見てごらん」とディドリクが、開け放った窓の方を向く。
「いつもと高さが違うだろ?」
「え? は、はい」
「ずっと向こうが見えるだろ? でもいつも見ているところよりは広く見えるだろ」と言って、遠くの景色を見せる。
「西の方へ行くんだ、でも帰ってこられない場所じゃないし、上に行けば行くほど、見える場所だよ」
アマーリアはじっとその方角を見ている。
ゆっくりと妹を下ろすと、
「驚かせてごめんよ、でも気分が変わっただろ」と言って、瞳を見つめる。
「兄様」と言って、腰のあたりに抱き着いてくるが、もう暗い表情は消えていた。
「帰ってきたら、また、して」とつぶやくような声。
「いつか、もっと大きくなったら、アマーリアも連れて行ってあげるよ」と言うと、顔を起こして、
「はい、兄様、行ってらっしゃい」と満面の笑みで応えるのだった。
出発場所には父王やガイゼル、メシューゼラ、デーガー宰相なども来ていて、見送ってくれる。
ガイゼルが皆を代表する形で言う。
「本来なら僕が行くべきかもしれないんだけど、二度もすまないね」
「いえ、実はちょっびり遠出が楽しかったりもしているのですよ」と笑顔で応える異母弟。
「そんなことを言うと、また別の場所の視察、頼んじゃうよ」と王太子が笑顔で応酬する。
ガラガラと音を立てて、馬車の一団が西方目指して出発する。
人員の他に、鉄杭を運ぶ荷馬車、そしてミッテ・グリスには宿泊施設がほとんどなかったことから宿泊も可能な寝台馬車なども用意している。
片道だけでも5~6日かかることから、いくつかの客車はメンバーを乗り換えていく。
前回と違い、護衛の騎馬隊を含めて、総勢二十人を超える大部隊だ。
同行するのは、王国側としてはディドリクの他、イングマール、レムリックなど。
出発してすぐに、ディドリクの乗る客車にミュルカが乗り込んできた。
白地に赤のラインが入る、軽快な女性用乗馬服に着替えている。
黒髪をひっつめて乗馬帽の中に隠して、ボーイッシュな魅力をかもしだしている。
(この人はいったい何歳くらいなんだろ)と思ってしまうディドリク。
さすがにストレートに年齢を聞くのははばかられたのだが、どうも自分より年下に見える、いや、ひょっとするとメシューゼラと同じくらいかも。
「殿下、私も初めての土地ですので、少々楽しみです」とにこやかに語り掛ける。
「荒地ですから、ほとんど見るものはありませんよ」
「でも、塩が採れるのですよね、いくつか空の馬車もありますけど、あれに積んで帰るのですか?」
「ええ、そのつもりです」
「それが楽しみなのですわ、雷撃術で塩を採るなんて、聞いたこともありませんもの」
「はは、そんな面白いものでもないですよ」と、土地についての話題を連ねていった。
旅程が六日目に入り、グリス州はもう間近。
ここまで大した事件も起こらず順調に来たのだが、さすがに退屈を持て余してしまったか、ミュルカ嬢が何度もやってくる。
見かねたディドリクが、自分用に持ってきた、石客研究会に渡した文典集の写し、正確には清書前のものを出してきて
「退屈でしたら、こんなものでよければ、いかがですか?」と渡してみる。
「これは?」
「僕が作った古典古代の文法学ガイダンスと、その文例集です」
ミュルカはその言葉を聞くや、退屈もどこかへふっとんでしまい、一心不乱に読みふける。
「殿下、こんなものを隠していたなんて」
「いや、まったくの自分用のつもりでしたから、隠していたわけでは」と弁明する。
「多くの文例が載っています」
「けっこう時間がかかってますからね」
「統辞法との接合が見事ですし、解説も簡にして要領を得ていますし、読みやすいです」
「ありがとうございます」
「この前の初級教則本と違い上級文法学の教科書になりますわね、このテキストをできれば」
と言いかけたところで、ディドリク。
「いえ、今回はお見せするだけです、まだまだ未完成ですし、文例はもっと追加していきたいので」と遮った。
「そうですか」とかなりしょんぼりしたようす。
少し気の毒になってしまったこともあり、ディドリクが
「この前の初級教則本はどうします?」と話題を変えてみる。
ミュルカ嬢が顔を上げて言う。
「はい、できれば印刷させていただきたいので、この視察のあと、その商談をしたかったのですが・・・」
「ですが?」とディドリクが次を促す。
「こんなすごいものを見せられてしまいますと、こちらの方も印刷して売り込みたい欲求がでてきました」と、ミュルカ嬢。
「でも、文法学院のある帝都には、もっと良い教則本があるでしょう?」と尋ねてみると、ミュルカは首を横に振りながら、
「文法学院の教科書は、晦渋にして難解なのです、初級レベルから上級レベルまで」
大きく息を吐いて、
「教師がつくことが前提の教科書、というのもありますが、それ以上に貴族たちが自身の知的財産として容易に学べないようにしているとしか思えません」
ここでまた第十四世の言葉が脳裏に重くのしかかってきた。
(隠匿せよ、秘匿せよ)
法術を隠匿するため、とすれば、文法学院の手法は必ずしも知的財産の独占ではないかもしれない、と思うディドリクだった。