【七】 教本作成
レレケの話を受けて数日間、ディドリクは妹たちとの購読の合間を縫って、教本の作成、再編集を行っていた。
まずミュルカに渡すものとして、文字を習い始めた頃のアマーリアのために使っていた、文字と事物の対応図。
これを清書して、少しだけ見やすくする。
続いて文法教本。
これはレレケにサンプルとして渡そうと思っていたもので、状況によってはこれですまそう、とも考えていた。
ただし内容は文法便覧に留め、法術への橋渡しとなるような霊言文字の解説と発展方法、神代韻文の用例等は省略した。
そのかわり、各文典や古典古代の演劇作品、『歴史』『戦記』『福音』と言った有名文集から数多くの例文を採り、それだけで文典にも使えるように配慮した。
この作業に約一週間かかってしまったが、既にアマーリアやメシューゼラに教えていた時に使っていた下地があったので、この期間で仕上げられた、ともいえる。
古典文法の発展、霊言文字の詳細と応用など、法術について教えて良いのかどうかは、相手を見てから、ということになる。
第十四世の言葉「隠匿せよ、秘匿せよ」の言葉も大きくのしかかってくるし、調子に乗って開陳してしまうことはさけよう、と決意する。
講読会では、メシューゼラの魔術教育にも手を貸してきた。
そしてどうやらそれが初級水準には来たことを確信して、一緒にパオラの元に報告に行こう、と切り出してみた。
法術と違い、魔術は公認された歴史こそ浅いものの、今ではすっかり「奇跡の技術」として定着しており、その習得をもって迫害されることはないだろう、という判断もあった。
「ほんと? ディー兄さまが一緒にきてくださるのでしたら心強いし、もう隠し事をしているみたいな後ろめたい気持ちもなくなるわ!」
と、赤毛をぴょんぴょん弾ませて喜ぶメシューゼラ。
ただそうは言ったものの
(パオラ様はどう思われるだろうか)と言うのは少し気がかりでもあった。
以前メシューゼラから、パオラは魔術が使えない、というのを聞いていたことが少し気になっていた。
ともかくその足で、お隣の離宮である第三離宮へ、アマーリアも伴ってパオラへの面会を求めた。
「面会申請なんて、そんな堅苦しいことをしなくても」と言って客間に通してくれたパオラ。
パオラは十代の時にエルメネリヒ王に嫁ぎ、十代でメシューゼラを生んでいるため、まだギリギリ二十代。
その若さは親近感にもつながっていた。
「今日は大切なお話をしたくて」と切り出したディドリクが人払いを求めて、室内には4人だけになる。
メシューゼラに魔術適性があったので、魔術を自分ができる範囲で教え、初級レベルには到達していることなどを告げた。
話を聞き終わるとパオラが自分の娘に抱き着いて
「すごいわ、すごいわ、メシューゼラ、魔法が使えるなんて」と喜んでくれたのを見て、ディドリクは少し考えていた懸念が杞憂であったことを知り、ホッとした。
「お母さん、メシューゼラの魔法が見たいわ、少し見せてくれない? あ、でも炎を出して引火しちゃうのとかはだめよ」
と、いささか興奮気味にまくしたてている。
メシューゼラがチラと異母兄の方を見たので、ディドリクが頷いて、
「水の玉とかならいいんじゃないかな」と言ってみた。
メシューゼラが目を閉じて掌を前に出し、詠唱する。
するとその掌に何かキラキラと光るものが現われ、水が現われて中空に浮く。
それが集まって、子供の頭程度の大きさの水の塊になり、やがて球形に形を整える。
メシューゼラはその水の玉を宙に浮かせたまま卓上に移動させ、その形を変えていく。
楕円状になり、細長く棒状にして、まるで人がスキップするように弾ませながら、卓上をトン、トン、と飛び跳ねさせた。
水と接触した部分が少し濡れて、卓に水が触れていたことを見せたのち、その水を壁際にある花瓶に注いだ。
「フーッ」と大きく息を吐いて、メシューゼラが脱力する。
パオラは花瓶の中を見つめて
「ほんとに水だわ」と感心している。
「メシューゼラ、他にもできる? もっと見たい」
まるで子供のように目を輝かせるパオラだったが、ディドリクはそれを制して
「パオラ様、魔術は体力も使いますので、少し休ませてあげて」と鎮めた。
パオラは少しトロンとしていた娘を見てハッとする。
「あら、ごめんなさい、気づかなくて」
そして再び娘を抱きしめた。
ディドリクは、秘密にしていたのは自分の指示で、打ち明ける時は一緒に、と約束していたことを伝える。
「申し訳ありません、パオラ様が魔術に対してどういうお気持ちを持っているのかわからなかったので」
するとその言葉を頭の中で少し咀嚼し直してから、パオラ。
「そうね、私の地元でもまだ一部には偏見を持っている人もいるけど、今では魔法が使えるのは素晴らしいことだ、という認識になっていますわ」
と言う。魔術と魔法は微妙に違うのだけど、まぁそこいらへんは置いておいて。
「聞いているかもしれませんが、私は魔法とかがまったく使えなくて、見聞きしたこともほとんどなかったのですよ」
「そうですね、魔術は遺伝ではありませんから」とディドリク。
少し元気になったメシューゼラが会話に入ってくる。
「ディー兄様が言うには、私って、魔術の才能があるらしいんだって」と、すごく嬉しそうに母親に報告する。
「でも才能があるっていうのは、練習ができる最低条件なんだから、これからも練習しないとね」と軽く釘を刺しておいた。
「はあい」と言いながらも、メシューゼラは満面の笑みだった。
初級教本を書き終えたディドリクが王宮に行くと、ミュルカはまだ王都に滞在していることを聞かされた。
なんでも商会のフネリック支店が作られて、そこの代表に就任していると言う。
そこでイングマールを伴って、城下町に作られたというその支店に足を向けて見た。
まだ作られたばかりということもあり、支店とはいっても宿屋の一室に事務所のようなものを置いただけ。
そこへ来訪を告げると、社員の女性が取り次いでくれた。
「殿下、それに侍従の御子息様でしたっけ、ようこそいらっしゃいました」とミュルカは明るい笑顔で出迎えてくれた。
「まだ開設したばかりて散らかっていますけど、どうぞその椅子におかけください」
ディドリクが腰を下ろして座ると、イングマールが背後に立ち、その正面にミュルカが座る。
「ここを開設するのに、父や兄に少し無理を言ってしまいました」
「うちは小国なので、支店開設を聞かされて、少し驚きました」とディドリク。
するとミュルカが目を輝かせて
「これは殿下との交渉用、という意味合いもございます」と笑顔でディドリクの目を見つめる。
「それで今日はどういう御用件で」とミュルカが本題に入ってきたので、ディドリクは書き終えたばかりの初級教本を渡す。
「以前お約束していた、教則本、と言えるかどうかわかりませんが、私が妹に教えていた時に使っていたものです」
パラパラとその紙束を閉じたものをめくりながら、ミュルカは言う。
「すごくわかりやすいですわ」
「帝都や教皇庁でどういう教育がされているのかわからなかったので、まったくの自分用、自己流なんですけどね」
「帝都の教則本は最初からガチガチの文法教本で、初級用でもものすごく難しいのです。ま、教師がついて進める、という形式ということもありますが」
ディドリクの教本は絵入り事典のような体裁で、どの文字がどの単語に、そしてどの単語が文の中でどう変化するか、に主眼を置いており、ことさら文法用語は使っていない。
「ある程度成長された方でしたら、しっかりと定義がなされている用語で説明されていた方が間違いがないのでしょう」
「いいえ、私が求めていたのは、家庭教師がしっかりついている貴族のための教本ではなく、誰もが学べるものを期待していたのです」
と言ってミュルカは、これを預からせてもらってもいいだろうか、と聞いてきた。
「かまいませんが、印刷したり、販売したりするのでしたら、商談の機会を設けてください」とも言っておく。
ミュルカは「当然です」と言って、微笑む。
「やはりここに支店を開設して正解でした、それで一つお聞きしたいのですけど」
「はい」
「殿下ご自身は、どうやって文法を学ばれたのですか、この国にはまだ教えられる家庭教師はいなかったと思うのですが」
ディドリクは少し考えたのち、
「いえ、すみませんが、それの回答はひかえさせてください」と答える。
「プライバシーの範囲ですものね、こちらこそ不躾で失礼いたしました」
続いて、ミュルカはグリス州の視察について切り出してきた。
「あの塩を本社に持ち帰り、精査させていただきました。高純度で、塩田から取られるものとは違いニガリがなく、岩塩杭からのものとも違い他のミネラルがほとんど存在していませんでした」
食用と同時に、産業用にも使える、ということで、ネロモン商会では恒常的に買い付けることを決めたという。
「ですので、ぜひその産地を見ておきたくございます」
ディドリクは視察の日時を決め、ネロモン商会フネリック支店を後にした。




