【十】 アマーリアの誕生日会
「ムシゴの民ですと?」
パルシャス博士は禿げ上がった頭をなでながら、記憶の糸をたどるかのように、目を閉じた。
第三離宮、パオラの住居で、ディドリクは紹介された人文博士にある疑問を投げかけていた。
コロニェ教会領からパオラの書簡を受け取り、用を済ませたのちやってきたこの高齢の博士は、弱々しく話し始める。
「ずいぶんと久しぶりにその名を聞きましたわい」と。
ディドリクのたっての要望で、パオラに紹介してもらったタゲフル州の生き字引との会見。
ディドリク、パオラの他にメシューゼラも強引に割り込んできたのだが、まるで別人のように黙り込んでいる。
小柄な体躯、禿げあがった頭、わずかに残る顎鬚も真っ白で、幾分猫背気味、上半身の厚みがほとんどなく、今にも折れてしまいそうな細いからだ。
だが唯一その知性を示す瞳は強い眼光を放ち、それによってのみ命を支えているような、そんな印象を与えている。
「パオラ嬢様がご存じなかったのは仕方ありません、ムシゴの民がタゲフル州から退去して、もう半世紀以上経つはずですから」
「もうこの国には、いない、ということですか?」と尋ねるディドリク。
「退去、と申しましても、誰かの意図によるものでもなく、自主的なものだったかと思いますので、すっかりいなくなっているのかどうかまではわかりませんが」
博士は記憶を確かめつつしゃべる。
「ただ彼らは流浪の民でしてな、あまりこの国の者とは折り合いが良くなかったので、おそらくは残っていないかと」
ことばを選んで語るパルシャス博士だったが、いろいろとトラブルがあったであろうことが暗示されていた。
「どこへ行けば彼らに会えますか?」
ディドリクのこのことばに、パオラはハッとしたように、視線を少年の上に落とす。
「ああいう手合いとは、あまり関わり合いにならん方が良いと思いますが」と博士は、やんわりとなだめるのだが、
「そうですな、連中が移動したのは南方のニルル王国という場所だったかと聞いております」とも付け加えてくれた。
(ニルル王国...確かベルベットの故郷だったっけ)と思い出すディドリク。
ニルル王国は多民族国家で、それゆえ政情の不安定な国だが異民族が隠れ住むには適した場所かもしれない。
「そうですか、国外に移住しているのでしたら、あきらめた方が良いですね」と、ディドリクはいったん引き下がる。
しかしできるだけの情報は仕入れておきたいこともあり、ムシゴの民についてのことを博士から聞いてみた。
ムシゴの民は調教民族で、種々の猛獣、魔獣、魔物などを飼育し、意のままに操る技能を持っている。
図書館にあった地勢・地理文献にたびたび登場するその調教技能。
ディドリクはその技能について興味を持っていたからだったのだが、当面は頭の中に留めておくだけにしよう、と考えなおす。
博士との会談を終えたディドリクは、わざわざ来てもらったことに感謝の意を表し、帰宅しようとしたのだが、メシューゼラがついてきた。
「なんか難しいお話!」と言いながら、
「でも今日はアマーリアの誕生日会よね!」と目を輝かせていた。
そうなのだ、今日はアマーリアの誕生日なのだ。
しかしまだ三歳と幼いこともあり、母マレーネは身内だけのこじんまりしたもので良い、として、父王や王太子兄ガイゼルの参加もやんわりと辞退していた。
それで自分と母、そしてふだん面倒を見てくれている少数のメイド達だけで簡単なお祝いの回にするつもりだったのだが、メシューゼラは強引に参加する腹づもりである。
お祝いをして、普段より少しだけ良い食べ物を皆で食べて、それでおしまい、の予定だったが、メシューゼラが参加することで幾分華やかなものになっていった。
メシューゼラは「お祝いよ!」と言って、自宅から運び込ませた料理を卓上に並ばせた。
出されて料理を見て、アマーリアの目が輝く。
「アマーリアってばこの前、芋煮をおいしそうに食べてくれていたから、そのあたりでまとめてみたの」と。
そこには芋煮だけでなく、鶏肉やら、ハーブ料理やらが並んでいる。
「この前の料理では出せなかったものもあるの。マレーネ様やディー兄様にもできれば食べていただきたくて」
このメシューゼラの料理付き参加で、アマーリアのお誕生日会も楽しいものになっていった。
北方の厳格な貴族の出自であるマレーネも、最初あまり良い顔をしてなかったものの、それなりに楽しんでいるようだった。
アマーリアはと言うと、お祝いのケーキ以上にメシューゼラが持ち込んでくれた料理に夢中になっている。
「ゼラ姉さま、おいしい」
「ふっふーん、その鶏料理は私が作ったのよ!」と鼻高々。
アマーリアは「すごーい」と、異母姉を尊敬の目で見つめている。
もちろん甘いケーキの方にも夢中のアマーリアは、そこに添えられた紙片を見て
「兄様、お誕生日おめでとう、だって」と満面の笑みで言うと、メシューゼラがびっくりして
「え? アマーリアって、もう字が読めるの?」
「兄様に教えてもらっているの」と、ディドリクの手にからみついていく。
隠していたわけではないが、リュカ以外には伝えていなかったこともあり、マレーネやリュカ以外のメイド達も驚いている。
「アマーリア、自分の名前って、書ける?」とメシューゼラが訪ねると、アマーリアは指で卓上に綴りをなぞる。
「いいなぁ、私も家庭教師じゃなく、ディー兄様に教えてほしかった」
「まだ字を覚えただけだから、ゼラの水準じゃないよ」とディドリクは言うが、メシューゼラが羨ましそうにしていたので、
「じゃ一緒に本を読んだりしようか」と言ってみると、猛烈に食いついてきた。
「する! する!」
ところがここでマレーネが鎮めようとする。
「アマーリア、お兄様の手を煩わせるようなことをするなんて」
これを聞いて、アマーリアがビクッと怯えたような反応を見せる。
しかしこれにはディドリク自身が抗弁した。
「母上、人に教えることで自身の理解が深まったりもします。僕にとっても有益なことなのです」と言うと
「そう、あなたがそういうのなら」と譲歩してくれた。
やはり母は妹には冷たい、と感じてしまうディドリク。
しかしそんな想いも一瞬で吹き飛ぶメシューゼラの発言の数々。
「ディー兄様について学んだら、私も文法家になれる?」と言い出した。
「イングマールから聞いたの、ディー兄様は学院では素晴らしい成績で、一気に魔法みたいな、えーと、なんだったけ、ほうじゅつ? なんかも使えるって」
どう説明したものか迷っていると、
「ぶんぽうか?」とアマーリアが聞いてきたので
「そうよ、昔の難しい本なんかがスラスラ読めちゃうの」と言って、話題はそちらへ移っていった。
かくして、誕生日会そっちのけで読書会の予定を立て始めるメシューゼラだった。
こうして当面の敵である、呪いの恐怖から解放された王家の面々は、しばらく安寧の中にあった。
そして、時は流れる。