【二】 希望
ディドリクはまだ悲しみに沈む館を出て、近くにある王室の文書課を訪れる。
フネリック王国は帝国の西辺にあり、規模としては小国。
しかし小国にしては文書課、つまり図書室は充実しており、かなりの文献、記録が残っていた。
とは言っても、帝都の文書課や中央図書館、各選帝王国といった大国の図書館とは比べるべくもないのだが。
フネリックの文書課がこの規模にしては比較的充実しているのは、ひとえに辺境開拓の歴史も関係している。
ディドリクがここに来たのは、昨日の記憶(夢と断じるにはあまりにも具体的だった)が、自分に何かを命じているように感じたから。
自分は基礎を学んだだけで、そこからは自身で積み上げていかねばならない、と。
ともかくディドリクは文書課へ入室する。
手続きをすませて、辺境王国自慢の地誌、政治交渉の文献の前を通り過ぎて、ひっそりとある人文書架へと向かう。
そこからいくつかの語学書を拾い読みしてみると、少年は驚愕に目を見張った。
まだ見たこともない文字、見たこともない文を見ながら、それがだいたいわかるのだ。
書架から取り出した言語、語史、逸文集などを抱えて卓に戻り、熟読していく。
現代語の正書法に始まり、中世語、現存する最古の古代語。
さらに異邦の諸語、その歴史、そして教会領黎明期の頃の、古典古代の文法書。
時を絶つのも忘れて読みふけっていると、いつしか陽も落ち、外には夕闇が迫りだす。
食を忘れて読みふけっていたことに驚きつつも、その日はそこまでと、文書課を後にする。
別邸に戻ると、ディドリクがいなくなってちょっとした騒ぎになっていた。
(メイドの一人に言ったんだがなぁ)
と思いつつも、釈明し、明日からしばらく毎日通うことを家人に伝えた。
数日が過ぎた。
寝室に戻り、あらためてこれまでの成果を反芻する。
あの十四世と名乗る怪しい影が語っていたことは、夢であって夢でない、という実感を得ていた。
古典古代の文法、精霊文字とを学び、さらにその背後にある真理に到達すると、奇跡をおこなう術を手に入れられる。
寝台に座り、その中のいくつかを格変化させ、曲用をいじってみる。
それ自体では何の意味もない、ただの音に過ぎないそれらが、ある意思でもって唱えられると、両の手にある変化が起こり始める。
パチッ、パチッと稲光が走り、手のひらから放射されるように、飛び出していこうとする。
慌てて詠唱を止めると、今度は気持ちを落ち着かせて、掌の上に稲光を出してみる。
強く、弱く、方向を変えて。
その翌日から、ディドリクの図書館通いが明確な目的をもって始められる。
あの十四世が伝えてくれたことは、すべての基礎であり、また学術の根幹であった。
未知の言語であれ、その上に個別の事象を組み立てていくだけで、簡単に習得できていく。
古典古代の精霊文字は、さながら絵文字のようであり、箱文字に囲まれた中に象徴のような、戯画化された人物や動物が描かれている。
そのそばにある修飾のようなひげ文字の方向で、格と曲用が決まってくるのだが、それを書物には載っていない、十四世が手ほどきしてくれた手順を使って頭の中で書き換えていくと、奇跡の術が発動する。
ディドリクは新しい書物を選びながらも、それら既読の書にあった文字・文法情報を自身のものとして習得していく。
また、雷光を体得した後、ある祈願書に載っていた霊言文字の配列と文法を応用してみた。
水を張った水盤に、映像を浮かび上がらせる。
だがその画面を見て、少年の眉が曇っていく。
やがて、文書課所蔵の古典古代知識をあらかた吸収し終えてしまったディドリクは、新たな高等文典の必要にかられる。
近隣では、王立学院・人文研究科の図書室に、この世界有数の古典古代の資料があることを司書から聞き、少年は、ある決断をする。
☆☆☆☆☆
ある日の夕刻、王室執務室で業務を終えたエルメネリヒ王のもとに、侍従がある知らせを持ってくる。
「陛下、ディドリク様が陛下にお願いしたきことがあると来ておられますが、いかがいたしましょうか」
「うん? まぁ子供のことだ、すぐすむことだろう、通せ」
侍従が少年を迎え入れるべく、扉へと向かうと、王は軽くのびをしてつぶやいた。
「誕生日のプレゼント・・・という時期ではないな」と。
「しかしそれにしてもこういうことはマレーネの方で処理できなかったのか」
マレーネとは、ディドリクの母であり、王の側妃である。
そんなことを思っていると、彼の六歳になる第二子が近づいてくる。
「父上、お久しぶりでございます。執務のおじゃまをしてしまい、申し訳ありません」
「なに、かまわんよ。だがお前が一人で私を訪ねてくるとは珍しいな」
六歳とは思えぬおとなびた言葉つかいに、王は少し首をかしげるが
(子供の成長は早いものだ)と強引に納得する。
「で、なにか頼みごとがあるとのことだそうだが」
するとその息子が、少し間をおいて切り出した。
「実は...、王立学院で学びたいと思っています」