【二】 赤毛の母娘
研究科に進んで2年、ディドリクは何よりも、文典研究と文例の収集に注力していた。
たった一夜の夢、第十四世と名乗る洞窟の賢者から学んだのは、すべての文法の基本、知識、その深淵への思想であった。
しかし個々の具体例については、ディドリク自身が極めていかねばならないため、その収集が必要だったのだ。
少年には、それを発展すべきシンタクスは、その賢者、第十四世により、しっかりと植え付けられている。
一般に、他の言語を自国の言語に置き換えること、それを翻訳と言う。
通訳者や古典語翻訳者などがそれに相当する。
そこから一歩進んで、その文が意味する真意、宇宙などを読み取ることを解釈学と言う。
文献学者、言語学者などがこれに相当し、普通はこの域をもって、言語の専門家とする。
だが、優れた魔法使い、後世魔法博士と呼ばれた数少ない神才、鬼才は、そこからさらに奇跡のエリクサーを汲みだした。
その文、語をもって深淵を知るようにした。それをヘルメス学と言う。
第十四世が文法の基礎を教え授けたのち、その応用ではなく深淵を見る手段を与えたこと、それこそヘルメス学の一端であった。
ディドリクはその基本と究極の深淵をつなぐべく、文典の再編と創造につきすすんでいる途中だった。
だが魔術が発展していた現・帝国諸邦と教会領では、この技術が既に忘れられて久しい。
それゆえ、文典の収集まではできても、それを再創造するのは、ほとんど独力でやっていかねばならなかった。
また、奇跡は魔術で創造できる、それで十分であったとする認識もあった。
奇跡のエリクサーを汲みだすことは、表面上、魔術だけでも事足りたのである。
この文法家が深淵のヘルメス学を用いて発現させる魔術は、時に「法術」とも呼ばれたが、現象面で見る限りでは魔術と大差ない。
その法術、魔術とともに、もう一つ、奇跡を発現させる方法・体系がある。それが妖術である。
かつては「魔女術」とも呼ばれたが、それは初期の発現者達に老婆が多かったためで、決して女性に限定されるものではない。
それゆえ今日では、妖術、と呼ばれることになったのだが、こちらは使用者の体質によるところが大きいため、研究は進んでいない。
「呪い」とは、この妖術に属する分野なのである。
さて、第二回兄妹会議は案外早く開かれた。
それはメシューゼラの提唱によるものだったが、特別に何か議題があったわけでなく、単に「みんなに会いたいから」というだけの理由。
だが、そういう動機でも良い、とガイゼルは考えていた。
会議というと大げさだが、いつでも気軽に兄妹間で情報を共有、あるいは交換できること、というのも重要だったから。
それにガイゼル自身にとっても、二人と顔を合わせるのが楽しみなのだ。
この兄妹会議提唱以前は、なかなか二人と顔を合わせる機会がなかったからだ。
「それでね、イヴがお母様の寝室の花瓶を倒してしまって、ノラが大慌てで」とおしゃべりに夢中になっているメシューゼラ。
ガイゼル付きのメイド・リリが運んできたスイーツ・タルトをもしゃもしゃ食べながら、二人の兄に自分の日常を語っている。
「ガイ兄さま、これおいしいですね」と、話題もとびとびになる。
そうかと思うと、ディドリクの方へ向き直り、
「そういや今回はアマーリアは来ないの?」とも尋ねてくる。
「前回が特殊だっただけで、今日はおねむの時間」
「そうなのよねぇ、イヴリンもかまってあげようとしても寝てばっかり」とメシューゼラ。
「赤ん坊は寝るのが仕事みたいなものだからね」と微笑みながら返すディドリク。
兄ガイゼルは微笑みながらも口数は少なかったが、ディドリクは、このおしゃべりな異母妹との会話をそれなりに楽しんでいた。
あっちに飛びこっちに飛ぶ会話。
「ディー兄さまは学校に行ったのよねぇ、私も行ってみたいなぁ」
「なんか優秀な家庭教師が来ているそうじゃない」とガイゼル。
「そう、マルベス博士。でもねぇ、おじいちゃんだし、勉強のこと以外、全然話がかみあわない」
「でもマルベス博士って、教皇庁で講義をしていたこともあるくらい優秀な先生なんだろ?」とディドリク。
「そうなの、お母さまがフンパツしてきてもらったらしいんだけど、私はもっと騎士物語や魔法使いのお話なんかの方が、よっぽど聞きたーい」
「ははは、でもちゃんと文法を学んで、古典語や詩の勉強をしてると、そのうち教材として騎士王エルマの話や、鏡の間の魔女のお話なんかが出てくるんじゃないか?」
とディドリクが言うと、メシューゼラは目を輝かして
「ほんと!?」と大きな声を上げた。
「だからそれまでがんばって、しっかり読み書きを覚えないと」
「ふーんだ、そういうところ、母さまみたいで、ちょっとイヤ」とメシューゼラがすねてみせる。
「そういやパオラ様もゼラと同じ赤毛だよね、とってもきれいなのに、ゼラはのばさないの?」
ディドリクが話題を変えたので、メシューゼラはその話題に食いついていく。
「えへへ、母さまの髪、きれいだよね」とすぐに笑顔になる。
「ガイ兄さまもディー兄さまも、それにアマーリアもきれいな銀髪だけど、私は母さまからもらったこの赤毛、とっても好き」
と言って、その短く切りそろえた髪の先をくるくる回して見せる。
「でも動きにくいのよ」
と言って、頭をぶんぶん振ったり、椅子に座ったまま足をバタバタして見せた。
「私も兄さまたちみたいに、スラックスやズボンを履いて走り回りたいのに、スカート、きらい」
「髪は、そうねぇ...もう少ししたらのばすかも」と、ちょっと悩むような表情を見せつつ、髪をいじってみる。
「動きにくいのはイヤだけど、母さまみたいにカッコよく伸ばしたいし、炎が舞うような髪型にも憧れるし」
「ゼラも成人式を迎える頃には、長いスカートも、パオラ様譲りの赤毛も、もっと似合って魅力的になるよ」とディドリクが微笑みながら言うと
「そうね、そうよね、髪を伸ばしたら、そしてちゃんとおしゃれも覚えたら、お母さまみたいになれるよね」と、瞳をキラキラさせる。
フネリック王国では、男子は14歳、女子は13歳で成人式を迎える。
これはだいたい帝国に共通する風習だが、貴族以上しか行わなかったり、もう少し上の年齢で行うところもある。
ガイゼルが成人式を迎えると、その場で王太子になることが宣誓される。これも王家の風習だ。
「でもそれまでは、このままでいい。お母さまも許してくれているし」
「でも髪はすぐにはのびないよ」とガイゼル。
「うん、髪は式を考えてのばすつもりだけど」
……
第二回兄妹会議は一方的にメシューゼラが話すだけで終わってしまったけれど、ガイゼルもディドリクも心の平安を感じていた。
自分たちの生活に戻れば、あの「呪い」について、いやでも考えなくてはいけなくなる。
それだけに、この異母妹との会議(という名のおしゃべりタイム)がすごく重要だと感じていた。