【一】 禁を破る
(ここは第十四世魔法博士の洞窟だ)
そう直感し、昔の記憶が沸き立つように渦巻く中、ディドリクは沈黙してしまう。
あの時とは違い、乱雑に、荒れ果ててしまったように見える。
今のここは、まるで廃墟の一室のようだ。
しかし岩肌の色、形、二つの卓と二つの椅子。
こういったものは紛れもなくあの講義を受けた場所だと思い起こさせてくれる。
まるで講義を受けてから、数十年の時が経ってしまったかのような、この一室。
あの夢が夢でなかった、しかも場所が実在していた。
いろんなことが頭の中をぐるぐる駆け巡っていく。
「やはり、何かご存じなのですね」
その様子を見て、メルトンが言う。
しかしディドリクは否定する。
「僕は、ここには、教会領に来たのは、今回が初めてです」
薄明りの中、顔色までは読みとれないが、この時ディドリクは真っ青になっていた。
(どういうことだ、僕はここに来たことがある、というのか?)
(夢の中で運ばれた時、こんな遠いところまで来ていたのか?)
だが、それ以上のことはわからない。
メルトンはこの様子を見て
「少し外の空気に当たりましょう。ここは気がこもっていますから」
そう言って、兄妹を入口へと誘導した。
放心状態になってしまったディドリクだったが、このとき、妹の目が何かを見つめるように爛々と輝いているのに、気が付かなかった。
洞窟の外に出ると、午後の光が世界を映し出し、冥界から戻ってきたような感覚になる。
我を取り戻し、ディドリクはメルトンに言う。
「メルトンさん、どうか僕に魔法博士の系譜、その後について教えてください」
ふむ、としばらく間を置いて、メルトンが答えた。
「師が私に、あなたを連れ出させたのはそれを語る役目を与えたからかもしれません」
そう言って、馬車に乗り込んだ。
「しかし、法術師でありながら、魔法博士のことをほんとにご存じないようで、驚きました」
え? と顔を上げるディドリク。
だがメルトンはそれには答えず、馬車の中で概要を語るだけだった。
魔法博士がいつから歴史の中に記録されたのかは、はっきりとはわかりません。
加えてその本名も、どういう継承がされていたのかも、ごく一部を除きわかってはいません。
歴史家の中には、そのうち何人かは実在しなかった、後世の創造である、と言う者もいます。
なにせその伝承を信じるなら、この帝国の神々の系譜と変わらぬ古さですからね。
ここまで言って、メルトンは話を切った。
「今の時点でわかっている系譜について語ると長くなります。それでも聞きたいですか?」
ディドリクが頷くと、
「それでは明日、文典学院までお越し下さい。今度はもう一人の妹さんを同行させることなく、貴方たち二人だけで」
そう言って、メルトンはある印章を渡した。
「これがあれば手続きなしに学院に入れます。そこの受付で師匠と私の名を出していただければ案内してもらえるでしょう」
と言って、会話は打ち切られた。
自分たちの馬車に戻ると、メシューゼラが待っていた。
既に陽は傾きかけていたが、夕暮れというほどではない。
ディドリクにとってもメシューゼラが近くにいてくれることは、沈んだ心が浮かび上がってくるので、ありがたいことだった。
「兄さま、アマーリア、絵を見てきたわ。ものすごいデキよ」
と明るく向日葵のような笑顔で話しかける。
それを見てディドリクも、深い物思いから解放され、自分の生活の中に戻っていく。
メシューゼラは偉大だ。
その笑顔だけで、人の心を覆う闇を照らし出し、拭い去ってくれる。
しかし、明日は行かねばならない。メシューゼラ抜きで。
そう思い返すとまた少し、心が塞いでしまう。
メルトンと別れて、大使館に戻る途中。
メシューゼラが工房での様子を生き生きと伝えてくれる。
「また今度、兄様やアマーリアと一緒に行きたいわ」
そう言って笑顔をキラキラ輝かせる。
「そうだね、ヴァルターに感謝しないとね」
「とりあえず、明日とかどう? しばらくは晴天が続くみたいだし」
「いや、明日は予定を入れられてしまったんだ」
と、ディドリくはメルトンとの約束を伝える。
メシューゼラの太陽が少し曇ったが、納得する。
「そうね、私は法術師じゃないものね」
少し自嘲気味に、落ち込んだ様子が浮かびかける。
「そのうち、できるだけ早く、ゼラと一緒に行くつもりだよ」
そう言って、妹の赤髪に少し触れる。
「この美しい赤髪がどんな風に描かれているのか、ゼラの存在感がどれくらい映し出されているのか、楽しみなのはほんとだよ」
それを聞いて、メシューゼラの表情がまた戻ってきたのだった。
大使館での夕食が終わり、大使ボーメン卿への報告もすませ、それぞれの私室に戻っていく。
ディドリクが今日のことを思い直していると、ノックの音がした。
「兄様、...、あの...」
消え入りそうなアマーリアの声がかすかに聞こえた。
「いいよ、お入り」
ゆっくりとドアがあいて、白い寝着に着替えた11歳の妹が入ってくる。
ディドリクが腰かけていた寝台の傍らにちょこんと座り、頭を預けてくる。
いつものように、心臓のある左側にからだをよせて、ディドリクの左腕に、両の手を添えている。
ディドリクがその左腕を回して妹を抱きとめると、アマーリアは頭を左胸にぴとっ、とつける。
寂しくなった時、不安になった時、いつもする体勢だったが、何か今日は違うような気がして、ディドリクは妹の言葉を待っていた。
「兄様、私...、伝えたいことが...あります」
かみしめるように、言葉を区切りつつ、アマーリアが口を開いた。
「法術師の基本は、秘匿、隠匿、と聞きました。私はその禁を今破ります」
アマーリアの身体は少し震えていた。
今は夏の真っ盛り、夜でもかなり暑い。したがって寒さからではない。
「どうか、どうか、私を嫌いにならないで。私を捨てないで」
何か異様な決意を語るように見えたので、ディドリクはその肩をぐっと抱きしめる。
「そんなことは絶対にしない。それに、もし苦しかったら無理に言わなくても良いんだよ。人が人として生きていくのには、家族や大事な人にだって言えない秘密の一つや二つは出てくるものだから」
はい、とつぶやくように言って、アマーリアは語り始める。
「今日の洞窟、私、見覚えがあるのです」
少し驚いたが、同時に心の中で「やはりな」という感覚もあった。
法術師がどういう風に形成されていくか。
ベクターから聞いた時から、少しその予感があった。
法術は独学で学んだことにしているが、決定的な要因としては六歳の時に体験した夢の講義。
時間にして数十年の時が経ったような感覚だったが。目が覚めてみると、それは一夜の夢だった。
そこで感じた数十年と言うのが、法術師が生まれる、後天的な修業に相当したのだろう。
ぼんやりと考えていたことだったが、同時にそれはアマーリアにも当てはまるのではないだろうか。
確かに幼い頃から、古典文法、古式術式などを教え込んできた。
ベクターからの英知の伝授もあった。
しかしそれがたとえ英才教育だったとしても、それだけですぐに法術師になれるはずがない。
そこに何か、自分が第十四世のもとで修業した何かが、アマーリアの上にもあったのではないか。
ぼんやりと、漠然とした感覚だったが、今の話を聞くと、一本の流れにつながってくる。
アマーリアも魔法博士に夢の中で出会い、伝授を受けていたのではないか。
そして「隠匿、秘匿」の言い渡しにより誰にも告げられなくなっていたのではないか、と。
だがここにいたり、ディドリクもまた、その隠匿、秘匿に例外があることも思い出していた。
同じ法術師なら、時に例外もある。
これを知ったのもベクターに逢ってからだったけど、あまり深くは考えてこなかった。
しかし、今、その時期なのではないか。
ディドリクは今一度、それをかみしめながら、アマーリアに小さな声で言う。
「隠匿、秘匿は法術の基本だけど、ごくわずか、例外がある。法術家同士には適応されない」
もちろん、相手が法術師なら、誰に言っても構わない、という意味ではない。
だが相手が自分の分身のような、同母妹ならばその例外には十分該当するのではないか。
そう思い、付け加える。
「僕もお前に秘めていたことがある。しかしそれは、僕達以外には絶対に言ってはならないことだ」
こう言って、ディドリクは、アマーリアが告白する前に、自身の経験を語り始める。
「まだアマーリアが生まれる前、下の弟が死んだ時、僕が六歳の時のことだ」
夜の闇が周囲を包む中。
ディドリクはもちろん、シシュリーのような存在も意識しつつ、自分と妹の周囲に思念結界を張り、なお、音声ではなく念話でアマーリアの心に話しかける。
頬をアマーリアの頭の上に乗せ、頭から頭へ、有線で伝えていくかのごとく、自分の過去を流し込んでいく。
アマーリアの方も、その一言一句を、自身の頭の中に、胸の内に、刻印するかのように受け止めていく。
兄の左手が肩を強く抱きしめ、右手が腰を支える。
妹は頭を左胸に押し付け、心音を聞きながら、兄の言葉を聞いている。
そして、夢の講義者が第十四世を名乗ったところで、伝言は終った。
次は私の番だ、と決心する。
ディドリクが腕の力を弱め、頭を離す。
「アマーリアも会ったのかい?」と、口頭で問うが、説明は念話でするようにも言う。
再び自身の頭を兄の左胸に置いて、念話で語り始める。
私は講義を受けたわけではありません。
でも兄様の言う「顔を隠した黒い影」には夢の中で出会っていましたた。
兄様と同じく六歳の頃。
ベクターの講義を受け始めた頃から、その影は次第に明確な姿を取りはじめ、ついに口を開きました。
「我を探せ」
「我に学べ」
「我を継げ」
だがそこで、兄様の言うような講義には入りませんでした。
それでも言葉としては伝わりませんでしたが、その意図するところは漏れ滴るように流れてきました。
兄に施した法術を、そこから汝もくみ取るように、と。
そして「最後の場所」という言葉とともに、あの洞窟の中の一室を示していた、と言うのだ。
講義の有無と、最後の場所。
これが兄妹の間で伝えられたものの差で、ディドリクにはこの「最後の場所」は伝えられていなかった。
「でもアマーリアには第十四世とは名乗らなかったのだね」
「はい」
「別人の可能性もあるけど、伝え方を指示していたというのは、同じ人物、第十四世なる人と同じに感じられる」
そして、そもそもその第十四世というのは、まだ生きている人なのだろうか。
ベクターの話してくれた第十三世が、既に百年以上昔の人であるのなら、第十四世がもう地上に存在しない人である可能性もかなり感じる。
ともかく、魔法博士についてわかっていること、系譜なんかは聞き知っておきたい、と改めて感じたのであった。