【一】 洞窟の賢者
広間いっぱいに、青い月が光を投げかける、ある夜。
王家の屋敷の一つ、側室マレーネの館は深い悲しみに覆われていた。
側妃の産んだ三人目の子が、第二子同様夭折してしまったからだ。
その二人目の弟が死んだ夜、幼い長子ディドリクは黒い夢の中にいた。
その夜以前からも、怪しげな黒いものを見ていたはずなのだが、このときははっきりとした姿をとって現れた。
黒い影は人の姿をとり、こう言った。
「我を探せ」
「我に学べ」
「我を継げ」
だがその黒い影は、輪郭こそ明確に立ち現れつつも、その顔はまったく見えなかった。
ディドリクは気が付くと、深い森の中を裸足で歩いていた。
しばらく森の中を歩いていると、山の中腹に洞窟が現れる。
彼を呼ぶ声はその洞窟から聞こえてくる。
からだが自分のものではないような感覚に包まれながら、ディドリクは洞窟の中を進む。
するとその奥に、ほのかな光がもれる部屋があり、その中へと進んでいく。
その部屋は二つの卓、二つの椅子、があり、その椅子の一つに、一人の影が座っていた。
部屋の明かりは陽光でも燭台でもなく、ぼんやりとした薄明り。
よく見ると、壁面を覆う書架の間に、光る石のようなものがはめ込まれて、それが光を放っている。
決して強くはない光だが、それでも室内を見渡せる程度の明るさはある。
だが、その椅子に座る人物は、光を受けていても詳細が見えず、そこの空間だけがすっぽりと抜け落ちているかのように、黒い影だった。
卓の前に腰かけたディドリクに、影が語る。
「これから古典古代の文法、霊言文字、ヘルメス学を授ける」と。
卓の上に、書物が浮かび上がり、講義が始まる。
影法師が語るごとく、古典古代の英知が語られていく。
だがそれは文法、文字に限らず、広く哲学、数学、天文、等、あらゆる叡智の基本が語られていった。
まだ六歳のディドリクには、理解できるはずもないのだが、不思議と脳に刻み込まれていく。
同時に、胸の奥に、何か熱いうずきも感じ始める。
長い、長い講義。
しかし不思議と疲れもなく、時はどんどん過ぎていく。
理解の確認と、思考の整理のため、時折休みは入るのだが、なぜか疲れを感じない、不思議な感覚。
永遠に続くかのように感じられたその講義は、一月、一年、十年と経っていくかのよう。
「これで文法家の、全ての基礎が終えた」
影法師は静かに語る。
「まだまだ語り足りないところはあるが、私にはもう時間がない」
「汝の胸の奥に宿る×××とともに、汝はそれを汝の見るものの中で育て、使うがよい」
少年はその影法師に問う。
「博士、博士の真名を教えてください」
何故、目の前にいる人物が「博士」だとわかったのだろう、と心の中で感じていると、
「まだ継承しておらぬ汝に、名を告げることはできない」と告げられた。
心なしか、その影が薄くなっていくように感じる。
「だが、呼び名に困るかもしれぬ、そのときは十四世と呼べばよい」
「再び世に戻り、降りるに際して、世俗の智恵を少しだけ語っておく」
いくつかのことを語り終えた後、最後に
「隠匿せよ、秘匿せよ、汝の法、格、態、曲用を、極力知られぬようにせよ」としめくくった。
影法師はどんどん色を失っていき、やがて姿が消えた。
ディドリクが、そこからどうして戻ったのか、記憶がおぼろげである。
だが、家を数十年も空けていた、という感覚が少し残っていたため、寝台の上で目覚めたとき、確認するのが少し怖かった。
だが、寝台はいつもと変わらない。
既に太陽が昇っており、見慣れたメイドのグランツァが入ってきた。
そのメイドがいつもと変わらぬ姿だったのに驚きながら、ディドリクは今日の日付を問う。
返ってきた答えに、少年は驚愕する。
それは、弟が死んだ翌日で、まだ一日も経っていなかったのだ。
全ては、長く重い夢だったのだろうか...しかし、あの影法師が教えてくれた無限の知識を具体的、かつ詳細に覚えている。
いつもと違うようすに、グランツァが
「あんなことがありましたし、何か悪い夢でもみなすったかね」と問う。
ディドレクが夢のことを語ろうとして、思いとどまる。
「秘匿せねばならない」という言葉を思い出して。