台風の目
「おい美人の皮を被った悪魔」
彼女より肌も髪も綺麗な化け物が、雨の中ベランダの塀に座って遠くを眺めている。
「なんだよ」
「うちにある酒とエナドリとジュース、飲んだのは君だな」
彼は体も拭かずにのっそりと家に入ってくるが、床はちっとも濡れていない。
「ああ、僕だ。喉を突く刺激が快感でね。君も、めんそぉる? なんてクソみたいな棒っきれやめてこっちにしておけよ」
「戯けるのも大概にしろ。飲めたら今飲んでるから君に文句を言っているんだろう」
「はあ」と被害者ずらのため息に苛立ちつつも次の言動を待った。
「じゃあさ」彼は得意げに話し始める。
「デートに行ってあげ・・」
飄々とした身振りはピタリと止まって、唐突に渋い顔を見せる。そして飲んだ酒をとてつもない勢いで吐き出した。
「・・ったく、君ってやつはどこがそんなにいい男なんだか」
「おい大丈夫かよ・・・・」
彼はよろよろと力なさげに立ち上がる。
「すまん、デートじゃなくて息抜きをしよう。君のためのな。最近タガが外れて狂人のようになってる君に人の心を取り戻してもらおうの会だ」
後半についても正直なところ反論の余地がなかった。
息抜きもしたかったし、彼に反対する理由があるとすれば彼に賛成するのが納得いかないということだけだ。
「僕のためってところが気に入らないからどうにか理由を変えてくれ」
「無理だ」
「即答するなよ」
「無理なんだ本当に」
「なぜ?」
「とにかくだ」
「そうかよ」大真面目に抵抗するものだからさすがの僕もこの辺で引き下がる。ただ気に入らなかっただけだし、自分はそれほど頑固な人間でもない。
「じゃあ僕のためにエスコートしてくれよ。君は大悪魔なんだろ? なんだって知ってるはずだ」
床にあおむけになって拗ねた子供みたいに、わざとらしく大きな声で言う。
「ボクがいつそんなことを」
「この間酒に酔って『ボクはぜんちぜんのうのだいあくまだ!』って言ってたじゃないか」
「言ってない」
「酒ってのはそういうものなんだよ」
~~~~~~
東京スカイツリーというだけあって、本当に東京の空の上に立っているようだった。
三か月前の生活が今も続いていたなら絶対に来ていなかった場所だ。
久々に来てみれば、都会も案外悪いものじゃなかった。
学生の頃はよく来ていたが、大人になってから都心部に来るとすぐにマックやドン・キホーテに逃げ込んでしまっていたので立ち並ぶ高い建物の内側について僕はよく知らなかった。
今日は田舎者御用達のチェーン店に逃げ込もうとすると、なぜだか金縛りにあう不思議な日だったから気後れしつつも東京観光に徹することとなった。
渋谷駅で奇抜な建造物をちらちらと横目に見ながら歩き回り、日本橋で僕一人分で三千円もする昼食をとり、最終的には浅草で必死に頭を下げて何とかマクドナルドに入る許可をもらうことでここに来る力を何とかためたところだ。
子供のころはこういった繁華街に来ても、周りの人はただの群衆としか思っていなくて一人一人が何を思って何を見て生きているのかなんて全く考えていなかった。
それが大人になってからは、人が多いと何だか自分が見られているような、絶対にそんなことはあり得ないとわかっていても人の目が気になってしまって正面を向いて歩くのが少し難しかった。精神面に問題があるわけでもないし、これは全く深刻な問題でもなかった。ただ人ごみに慣れていないからだ。
今日は少しだけましだった。人に見られていると思っても、人が自分をどう思っているのか、それが最悪の想像になったところで別段僕の心理に影響は及ぼさなかった。
自分もほかの人間も、ただよくわからない特別な意思のついた動物だ。狂気的でもなんでもない。今までの僕が人並み以上に人間を恐怖しすぎていたのだ。
見られているからどうなるのか、思われているからどうなるのか。それについては一秒も考えたことが無かった癖に、自分は勝手に被害者になってたのだ。
「ここにいる人間を一気に殺しちまえばすぐに五十人だぞ」
僕に息抜きをさせたいんだか根詰めをさせたいんだか分からないロストが平然と狂ったことを言い出す。
「さすがにそれじゃあ今までやってきたことが無意味になるだろ。一人か二人くらいにしておくよ」
先ほどいた場所ほどではないが、スカイツリーの下にも多くの人が往来している。
床がガラス張りのポイントで地上を眺める。
僕がどれだけ見つめても下にいる人間は僕に見向きもしない。上を向いた人間がいたかと思えば、それはこの建物や空を眺めているだけだ。
「なんだか死人になったみたいだな」ぼうっとしていたものだから、思ったことが口をついて出る。
「君は三十人もの人をこの状況に追い込んでいるってわけだ」
「・・今日は珍しく意地が悪いんだな。この前までは僕にデレデレだったのに」
僕も珍しく本気で彼をからかってみる。
「それは君が振り向いてくれないからさ。君が『僕には好きな人がいるんだ』なんて言ってボクを突き放すんだ」
予想通りひょいとかわされてしまう。
「でも君がいて助かったよ」
~~~~~~
地元に帰って食べるコンビニ飯が一番おいしく感じるのは、地元の安心感というよりは都会の居心地の悪さあってのことだろう。
「はあ、やっぱり僕に都会は向いてなかったんだ」
昼食よりも先ほどコンビニで買った春巻きとラーメンをおいしそうに食べる僕を見て、「下品な生き物だ」とロストが非難する。
「それで、一人くらい殺してから帰るものだと思ったんだけど?」
「疲れたんだから仕方ない。それで失敗したら元も子もないだろう」
家で再度レンジアップした春巻きをほくほくと頬張りながら反論した。
大きなあくびをする。
「・・もう少ししたら出かける」
春巻きを三口で食べて、ラーメンを半分残して冷蔵庫にしまい、缶コーヒーを一気に飲み干して、帰宅してから十五分くらいで家をもう一度出た。
~~~~~~
マンションのすぐ横に、彼は座っていた。
「どうしたんだ?」
「お前こそどこにいくんだ、晴也」
「別にコンビニに行くだけだよ」
不自然にならないように、ちょうどよい具合にそっけなく、少しだけ目配せして彼の前を通り過ぎる。
今日はおそらくもう無理だ。
「・・?」
涼太は植込みの縁に座ったまま動かない。
「来ないのか?」
「お前さ」
彼はらしくもない、というよりは彼にしては珍しい尖った声で僕の背中を突く。
「人を殺したこと、あるか?」
ふつふつと煮えてあふれるような焦りを一息の大きな、静かな呼吸で沈めて目を閉じる。
ぼんやりとしたまつ毛を含んだ視界が徐々に開けて、また僕は戻ってくる。
「・・・・何言ってるんだ? あの・・この間言ってた近くで起きてる殺人ってやつのこと? それなら僕は大丈夫・・」
「殺人現場からの靴の痕跡を全部調べたんだ。気が遠くなる作業だったよ」
腹の内が締め付けられて、重力が逆さになってしまったように、全部口から飛び出さんとして喉を刺激する。
「これはだめだ。バレてる。殺したほうが・・」
「・・ロスト・・?」
左耳から入ってきていた声のほうを向くが、そこに彼はもういなかった。代わりに僕を迎えたのは本物の独りと、どうしようもない状況だった。
彼女と涼太を簡単に天秤にかけられるほど僕は無情な人間でもない。
けれど僕の頭は不本意にも火事場ではよく働くようだった。
「足跡の先がお前の家だった時には、まずお前の心配をしたさ。でも幸か不幸か留守だった。それで電話をしたんだ、お前なわけないって思った。だけど同時に今のお前なら・・彼女を失ったお前なら・・とも思っちゃったんだよ」
手足がこれまでになく震えて止まらない。恐怖ではない。彼女を失ったときと同じ、絶望に震えていた。
力なさげにちかちかと揺れる街灯が僕を煽る。僕の震えを煽る。
「お前・・なんだな・・・・」
街路樹の葉から覗く闇のひとかけひとかけが僕を煽る。僕の決断を煽る。
「・・ああ、僕だよ・・」
・・・・・・
・・・・・・
沈黙が、僕の心とは裏腹に滑らかに広がって落ちていく。
今はこの時間がいつまでも、彼女を早く迎えなければなんて願いを放置してしまうくらいに、続いてくれればいいと感じる。
「今やめて自首すれば、死刑にはならないかもしれない。お前は今、一種の精神疾患的状態なんだ。姉さんが死んだことで心にダメージを負って、そのせいで精神異常をきたしてる。俺だって正義の味方をやりたいさ。だけどお前までいなくなったらそれどころじゃないんだよ・・勘弁してくれよ。だからさ、頼む、俺ときてくれよ」
もう遅い。五人や六人ならまだしも、僕はやりすぎてしまった。それ以前にここでやめる気が一切とは言わずともほとんどない。
三十人も殺してしまった僕は、もう殺すのをやめて生きていくことはできない。
「たくさん殺した」
「何人だ。三人か? 十人も殺していなければ可能性はある。だから・・」
「三十人だ」
「・・三十・・・・?」
唖然とする涼太の顔に、もうわけもわからなくなって、笑いと一緒に涙があふれてくる。
「ははっ、もうだめだよ。あいつがいないとだめなんだ。ゼロにすらなれない。常に周りを殺して、マイナスなんだ。今ここから立ち去って黙っていろって言ったって、君は聞かないんだろうね」
「それはできない」
「僕は涼太を殺すしかない。だから君は逃げるか、僕を殺すかどちらかだ・・選んでくれ。最も僕はここで死ぬ気はないんだけど」
アスファルトを強く蹴る。地面が削れてしまうよりも、自分の足が削れて折れて、腐ってちぎれてしまうような錯覚を強く覚える。
金槌を彼の避けるであろう先の位置にめがけて勢いよくおろす。
「・・な、おい・・・・」
強い覚悟のこもった一発は音を立てて風を切る。
彼は避けずに、僕の打撃も当たることはなかった。
「次はやるからな」
もう一度、歯が折れるほど強く食いしばって横に振る。
彼は動く。けれど僕の持つ棒の先は彼の頭をとらえて外れることはない。
バキッっと音が響くのを確かにこの耳でとらえて同時に吐き気に襲われる。
「う゛っごふっ・・」
腹に重い強い苦しさを感じて、僕の体からも似たような音を、腹の中に響く高い音を聞く。
鉄のおもりが彼の頭を叩いても、こぶしは僕の腹に溶けるようにめり込む。
僕は歩道に倒れこみ、腹のうちのものをすべて吐き出す。時間をかけて、端か中央かなんて到底考える暇はなく、僕が立っていた位置のちょうど五十センチくらい右に。
すぐに走り去ろうと立ち上がるが、あばらが強く痛み、嘔吐したのも相まってうまく歩けずにまた倒れこむ。周りを見渡す。
近くに人はいないようだ。いつもは一人くらい通ってもおかしくない道だ。
先ほど見た場所をもう一度見返すと、一人だけ人が立っているのを確認できた。
「人には見つからないように細工しておいたよ」
ロストは僕の左に、歩道の真ん中に立っていた。
「肩、貸してやろうか?」
「頼む」
僕はロストに体重をかけながら家に帰ってすぐに眠り込んでしまう。
眠りにつくまどろみの中で、太鼓みたいなタンという鋭い音を聞いた気がした。
~~~~~~
警察官の男性が歩道で拳銃を使い『自殺』した模様。
発砲は自ら行ったとみられますが、頭に衝撃を受けた跡が残ることから、何らかの事件性があるとみて警察は捜査を進めています。
朝のニュースを見てしまったのは、たまたまではない。僕の意思だ。ここで見ないのは無責任だと、ここで見なければ僕はとうとう心までおかしな殺人鬼になってしまうと、そう思ったからだ。
「ロスト・・」
頭の傷は間違いなく僕のつけたものであったが、『拳銃自殺』については心当たりがなかった。あるとすれば・・・・。
僕はロストを見るが、彼は目をつむり首を横に振る。
頭の中をたくさんの想像が駆け巡り、当然のごとく僕は吐き気に襲われて便所に向かう途中の廊下に残り少ない吐瀉物と胃液をまき散らした。