湖の彼女
相模湖公園を歩くが、誰も人はいない。
なんとなく買ったブラックのコーヒーを無理して一気飲みして湖畔の階段に座った。
彼女はこの場所が好きだった。そして僕と彼女にとってはなじみのある場所だ。
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小さいころから涼太からほとんど離れることなく生活してきた僕は中学三年になったとき、彼の不在と同時に授業にあまりでなくなった。
コミュニケーションも億劫な僕にはあまり友達と呼べる仲の人がいなかったし、涼太にあまりにもなついていたこともあって学校には行きたくなかったのだ。
朝から学校に行くことはあまりなかったし、一時間目から来た日もその授業が終わると空き教室に逃げ込み一日中読書をしていた。
当然教師の間では問題となり、母親に連絡も行った。
空き教室が対策されると、とうとう学校から出るようになった。
郊外育ちのくせして都会の空気が好きだった僕は、学校から脱出するとまず新宿駅に向かった。
涼太との絡みに金は使わなかったので、交通費の問題はなかった。
毎日新宿駅に行き、山手線を回れるだけ回りその間に睡眠をとって夜は本を読んだ。
彼女と出会ったのはそんなときだった。
調子に乗っているもののまだ慣れていない新宿駅。
切符を買った僕は改札前の人ごみに圧倒された。いつものことだ。
だいたいいつも改札を通るまで五分くらいかかる。
皆いそいそと何かに向かって一生懸命に歩き、ほかの人間になんて目も向けていない。
自分の進路以外を見ているのは僕くらいのものだ。
十五歳の少年は「今日もか」といわんばかりに改札の後ろのほうに立ち尽くしていた。
「おいて行かれちゃったのかい?」声が聞こえたが、僕に話しかけているなんて微塵も思わなかった。
「君だよ。学ランの少年」
そういわれてようやく僕のことだと気が付く。
「おいて行かれちゃった・・? かは分からないですけど、僕はそれなりに慣れてますから」
少しだけ、本当に少しだけ見栄を張り話しかけてきた女性に返答した。
実際はあまり慣れていないし、それ以前に若い女性の目を見て話をすること自体慣れていない。都会なんてもってのほかだ。
「じゃあ私は行くから」
女性は行ってしまう。
・・・・・・
「ぷっ、そんな捨てられた子犬みたいな目しないでよ、私悪いことしてるみたいじゃん」
戻ってきながらそんなことを言うので安心顔をかくして『子犬みたいな目』を直すのに必死になった。
「君のいるべき場所はこんなところじゃないんだよ。ほら、行こう」
女は僕の手を引いて改札を通った。僕も引かれる手と逆の手をいっぱいに伸ばして切符を通した。
京王線と違って中央線は少々混みあっていた。
彼女は優先席にどかりと座り、僕はその前に立つ。
「いつもよりちょっと高いけど、足りなかったらお姉さんが出してあげるね」
「結構です」
財布には三千円ほど入っていたので、おそらく足りるだろう。
ただ、ここまで言っておいて足りなかったら決まりが悪い。
「あの、どこまで・・」
言いかけてやめる。
彼女はこの一瞬で眠ってしまっていた。
口をぽっかりと開けた間抜けな顔だったが、とても、とても綺麗だった。
少なくとも僕が今まで見た中で一番『いい』女性だった。的確な言葉が出てこなかった。
三鷹を過ぎたあたりで僕はだんだん心配になってくる。
彼女は一向に起きる様子がない。
いったいどこで降りる予定なのか、それもわからない。
肩を叩こうとするが、何だかドキリとして手を引いてしまう。
何度か深呼吸をする。もう一度、今度は両手を彼女の肩にすっと置く。僕より少しだけ小さい体、僕より二回りほど小さい肩だ。
途中で耐えられなくなり、目をつむりながら彼女を軽くゆする。
女性らしい香水の香りが前後に広がり、ゆすりながら思わず手をはなす。
ごつんと、窓に頭をぶつけた彼女は「いてて・・」と頭をさすりながら目を覚ました。
「あの、ごめんなさい」
寝起きで状況がつかめないようだったが、僕の顔を見るといろいろと思い出したようで本格的に眠りから覚めたように見えた。
「別にいいんだよ、どこで降りるか言ってなかったからね」
「ところで少年」彼女は僕をまっすぐ見上げる。
「寝てる間におっぱーー」
「触ってませんよ。電車で堂々と痴漢する中学生がいるわけないでしょ」
彼女の性格が、本質が少しわかった気がした。簡単な性格をしていることが簡単に。
~~~~~~
結局僕たち、というか僕は彼女に手を引かれて高尾駅で中央線を下車。
今度は降りたこともなくほとんど人もいない隣のホームに連れてこられた。
「電車、あと二十分くらい来ませんよ?」
電光掲示板に表示された時刻は二十二分後だ。
寝るのにはもう飽きたのか、彼女はホームでは起きていた。
「君、本は持ってるだろ?」
僕は問われる。
読書は好きだが、初対面の人と二人で電車を待っているときに自分だけ娯楽に浸るのは申し訳なく感じる。
「・・持ってますけど・・その間、ええと、お、お姉さんは何をするんですか?」
慣れない年上の女性とのコミュニケーションなだけあってどうしても覚束ない。
そんなぎこちなさにきっと彼女は笑うと思ったが、『これはどうしたものか』
と言いたげに苦笑していた。少しだけショックを受けた。
「その本、一緒に読もうよ。最初からでよければ」
ちょっとしたショックなんてすぐに吹き飛ぶ。
『本を複数人で読む』という経験は僕にはなかったし、発想すらなかった。
「いいですけど・・・・」
僕は本を開いて右に寄せた。丁度間の所に持つと壁の隙間から漏れ出た光の筋が文字に当たって読みにくかったので、少しだけ彼女のほうに近づける。
彼女は僕に身を寄せて、読み始めた。ぶつかる腕の感覚と、いわゆる『大人の女性』ではない若い女性らしいシャンプーのにおい、薄く香る香水の匂いに体が委縮する。
心の中ででも変態的で言いたくないが、とてつもなくいい匂いだ。
彼女の二の腕は思ったよりもずっと細くて・・・・
「読んだよ」
「あ、はいっ」
全く読んでいなかったが、読んだことはあったのですぐに次のページに進む。
思っていたよりもすぐに、僕は読書に集中し始めることができた。
読み始めたらほとんど気になることはなかった。
彼女が「読んだよ」とか「ん」とか言うときに時々我に返るくらいのものだった。
電車が来る頃には二十八ページまで読み進んでいた。
アナウンスとともに顔を上げる。
「・・っ」
顔が思った以上に近くて、僕は軽く跳ね上がる。
「それ、なかなか面白いね」
「はい」と僕は答える。
「また今度読もうよ」
「・・・・は、はい・・」
『読もうよ』というのはそういうことなのだろう。こういうことなのだろう。
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僕はまず、お見合いみたいな、なんというかいわゆる進行方向と平行に座るあの形式の座席に感動した。
都会ではないけれど特別田舎に住んでいるわけでもなかったから、これほど近い場所でこのタイプの電車を見ることができることに驚いた。
体をひねらずとも自然に景色が目に入ってくる。
ほとんどが壁というか斜面だったが景色の見えない世界から、一気に視界が開けたときの高揚感はかえって強まった。
高台から見下ろす川沿いの古い住宅の横には小さな畑が広がり、その上を鷺が飛んでいる。
もしかしたら僕が読んでいる本や、映画やドラマの名作はこんなところから生まれているのかもしれない。
何気ない景色、それ自体に重みはないし、良さを見出すのは難しいけれどそいつらにはきっと相性というものがあるのだ。
そいつらが色の付いたガラスみたいに重なり合って隣り合って、一枚の、それこそ有名な教会にはまったステンドグラスのように美しいものになるのだ。
景色はめくられて次々進む。
斜面に生えたシダにもいつしか惹かれて目を凝らす。
しかし景色はぷつりと途絶えてしまう。
真っ暗なトンネルだ。
ガラスには彼女が写っていた。
僕と同じように楽しそうに外を眺めたまま、トンネルからも目をそらさずに次の景色を待っている。薄い表情だけど内で心が楽し気に跳ねている。
美しいと思った。
彫刻として彼女が永遠にここに残っても誰も文句は言わない。
ただ田舎の列車のアクセントとして、赤茶色の車両に華やかさを加える大切なものになる。
トンネルを出た後の景色は全て彼女越しのものになった。
友達も少なくて、授業もさぼってばかりいる中学生にはあまりに贅沢な風景だった。
『間もなく相模湖』と聞いて、僕は窓の外に広がる新しい景色を探すけれど、そこには今までと同じとてもきれいな風景が流れるだけだ。
『電車から湖は見えないのか』と彼女に聞きたかったが、好奇心は今の贅沢を壊すのに値しなかった。
結果、駅についても湖が見えることはなかった。
「はい降りて!」
ドアが開いてから彼女は跳ぶように立ち上がる。
「え? ちょっと今ですか?」
席から抜け出すのにてこずって時間をかけていると「はやくはやく!」と足踏みしてせかしてくる。
「立つの遅くないですか?」
「景色が綺麗だったから仕方ないでしょっ」
間一髪電車から脱出してホームに降り立った。
相模湖駅で僕たちは下車した。
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一言で表すとするならば、パッとしない駅だ。
高尾山口駅にも劣らぬほどに綺麗な外観だが駅前には小さなロータリーとド田舎にありがちな意味をなさない案内所。人は一人や二人しかいないしどんよりとした雰囲気だ。
先ほどまでの景色じゃないがパッとしない駅とパッとしない空気はよくあっていて、僕もその場に溶けて消えてしまってもいいと感じる。
今すぐにでもベンチに座り込んでしまってもよかったのだが、手を引かれて仕方なく黒紫色の空気を切って歩いた。
うまく切れなくて僕の体は重いけれど彼女はずんずん知らない場所を歩く。
開ける。開ける。景色は変わらないけれど確かに泥みたいな空気が消えて新しい道が開ける。小さな交差点を渡ったら別世界だ。僕はあそこから抜け出していた。
「駅前は誘惑なんだよ。あそこで座ったら・・・・」
抜け出した僕たちは振り返る。
「あとは地獄が待つだけだ」
「地獄って・・どんな?」
僕は恐れつつ尋ねる。
「夕暮れまであそこで黄昏ることになる」
それは・・・・
視界が変わる。劇的に。さっきまでの体験を後にしても、大きな視界の変化。
見える物の半分が、濃い青色だった。
髪の毛がすべて風にめくりあげられる。
彼女も同じようになびく。
綺麗だ。贅沢だ。
「それは地獄でしたね」
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鮎の塩焼き、射的、数十年は言っていそうなゲームセンター。
いっそこちらを駅前に持ってきてしまってはどうだろうか。
可能なのであれば、湖ごと駅前に持って行ってしまっても誰も文句は言わないだろう。
郊外特有のレンガ風な地面の広場には青く茂った桜の木が植えられていて、それだけで春にまた来たいと思う。
歩き、前に進むたびに足から一本ずつこの場に根を張る感覚を確かに覚える。
湖はゴミが浮かんでいてドブみたいに汚いが、味が出ていてそこがまた良い。
進入禁止の札が下げられた階段の下のほうは湖に飲まれていてよく見えない。
彼女は札を平然とまたいで階段に座り込んだ。
湖特有の強い風が吹くたびに、青々とした新緑が覆いかぶさるように対岸でもみ合ってこちらまで葉が流れてくる。
今、目の前に流れている葉はいつ木から落ちたものなのだろう。親元を離れて長い漂流を終えた葉は誰がおとしたのか、ハイカットのシューズに絡まって僕らの三つ下の段に乗り上げて止まった。
「この近くにはね、相模湖のほかに『城山湖』『津久井湖』『宮ケ瀬湖』『島田湖』とか結構湖が多いんだけど、ここが景色としては一番微妙なんだよ」
『壮大』を絵に描いたような世界の中で僕は目を輝かせた。
「でも私はここが一番好き。だってここが一番人間がくつろげるように工夫して、丁度いいラインで自然破壊が行われてるから、一番居心地がいいの」
壮大な世界の中で、口角が震えるほどに傲慢な人間を目の当たりにして、「え・・」と声を上げる。
「だってそうでしょ? 君は自宅のソファと渓流の岩場、どっちがくつろげる? ああ、まあ意地っ張りな中学生には答えさせないんだけど」
わがままな若い女の人にこういわれると、少し癪に障る。
「別にいいんじゃないですか? ソファにされるのがこの湖だけで済むんだったら、こいつも本望でしょう」
反論したかった。だけど僕は意地を張って同意した。
「ふうん・・分かってるじゃない。あなた子供の割には大人ね」
カチンとくる。この人はわざと僕を怒らせているのだろうか。
「そういうあなたは子供じゃないんですか? 見たところ二十前後でしょ?」
ちょっとしたジャブのつもりで言った言葉に彼女がぽっかりと口を開けて黙り込んでしまった。
「あの、何か?」
焦って鳥肌が一気に立ち広がる。
「私って、やっぱり大人に見えるのね」
表情を取り戻した彼女は、とてもご機嫌だった。
今日はとことんやられっぱなしな日だ。
ため息とも唸り声ともとれる一息をついたらもうどうでもよくなって、両手を頭の後ろで組むとそのまま仰向けになって倒れた。
「おいくつなんです?」
「ぶっ・・」と彼女が笑った理由はよくわからない。
「高校二年生だよ。君の二つ上だ」
高校生にしては大人っぽい。もちろん良い意味でだ。
「あの、なんで僕の年齢知ってるんですか?」
「私が、素行不良少年の更生のために送られた使徒だからだよ」
「雇い主は?」
問い詰める。
「それは契約違反だ」
「めんどくさい人ですね。で、更生できたんですか? 学年一位の優等生の更生はできたんですか?」
少し盛った。本当は十位前後で、一回だけ一位を取ったことがあるだけだ。周りが受験勉強をし始めてからはめっきり取れなくなってしまった。
「だから私が送られたんだよ・・・・私はな・・『バカ』なんだ」
・・・・・・知ってるよ・・・・
「更生ってのは一回でできるもんじゃない。一回でできたらそれは矯正だ、強制。正しちゃだめだ、制えちゃだめなんだよ。生かさなきゃ」
やっぱりバカじゃないのかもしれない。不思議な人だ。
「正しくは、君は曲がってるんじゃない。死んでる。そりゃしかたないさ、大好きなお兄ちゃんと離れ離れになって寂しいんだから」
体が燃えカスになりそうだった。
「でもな、頼りにしてた人がいなくなっても、君が死んじゃだめだよ」
「はあ・・」
「知ってるか?」
話は続いた。退屈な話ではなかったけれど、大真面目に聞くのは癪だったので肘をついたり、足をバタバタと振って見せた。
「ぎゃっ・・・・」
ふくらはぎの側部に強い刺激が走った。
「話を聞けガキ」
「・・はい・・・・」
「ヒグマってな、秋ごろに自分に出産する体力が残ってないことがわかると、腹の中で自分の子供を吸収するんだよ。正しくは受精卵なんだけど、すごく便利にできてると思うだろ? それがそうなんだよ。めちゃくちゃ便利だ。自分の実力と課題が釣り合うようにできてるんだ。ところがどっこい君の兄貴分はどうだ、あいつもガキだろう。頭は君よりも悪いし年は一つしか変わらない。明らかに君の面倒を見るのは手に余るんだよ。だけどお人好しだから捨てられないし、親熊じゃないから食ってやれない」
僕はいつしか彼女の話に聞き入っていた。
この人は絶対にバカじゃない。
「要するに、君は生き返って、その上で大人にならないといけないんだ。君にはまず無理だろうが、不良になってもいい。君の周りの人間が、思わずして君を置き去りにすることがあるかもしれない。その時に君はどうする? 追いかけられなかったらどうする?」
湖畔でよくわからない講義を開く僕たちを、通行人は必ず見てから通り過ぎて行った。
「わかりましたよ、僕は優等生に戻りますよ」
「さぼる理由が赤ちゃんみたいな理由じゃなくなったら、また話を聞いてあげるよ」
あんな話、どこから湧いて出てきたのだろうか。
「よし、全部台本通り、ミスはない」
・・・・・・