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ばかしや  作者: 和島純平
1/1

化かし屋

昔々のお話……。


人間たちは狐狸に騙され、在る者は土地を、在る者は作物を、在る者は絆を奪われたと語り継がれて来た。


果たして本当にそうなのであろうか?


本当に騙され、愛し続けた大切なモノを奪われ続けているのは人間の方なので在ろうか……?



01


緑豊かな森の中。


キラキラと輝く太陽の光とさわさわとそよぐ心地の良い風が頬を撫でる。

ゆっくりと進む時間が運ぶ、穏やかな昼下がり。

一匹の小さな子狐が踊る草々とじゃれ合っていた。


太陽に照らされるその体はまるで黄金のように輝き、その子自身が宝石のように神秘的な存在であるようだった。


そんな子狐の鼻先に小さな天道虫が止まり、ちょこちょこと動き回った。


そのくすぐったさに子狐は笑い声を上げながら楽しそうに転げ回る。

はしゃぐその姿は人間の子供にどことなく似ていた。


そんな姿を遠くから見守る影があった。


子狐とは違い、白銀のなめらかな毛をした狐だ。

狐は高い声でひと鳴きすると子狐は顔を上げ、狐の元へ駆けだした。


「かーさま!」


あどけない声で狐を母と呼んだ。

そして、その小さな体をすりすりと擦りつける。


母狐は優しい眼でその小さく愛おしい存在を見つめる。

その姿はまさしく家族のようだった。


「坊や、そろそろ家に帰りましょう

今日はもうたっぷり遊んだでしょう?」


「えぇ~……

僕、もう少し遊びたいよぉ

まだこぉんなにお天道様がニコニコなのに」


子狐のふくれた顔を少し困ったような表情で母狐は見つめた。


「そうねぇ……

それじゃあ、あと少しだけ

私は先に帰ってますから

遅くならない内に帰って来るんですよ?」


「わぁい!」


子狐は嬉しそうな声を上げて、また森の中へ駆けて行った。


その姿を母狐は幸せそうに見つめていた。



暫く子狐が歩いていると、どこからか男の野太い悲鳴が聞こえてきた。

子狐は気になりその声に近づく。


「だぁれ……?」


そこには猪用の足かけ罠に掛かった恰幅の良い男が一人逆さまに吊されていた。


「おぉい!!

誰でも良い、、、助けてくれぇ!!」


男の悲痛な叫びに、子狐はいても立ってもいられず、その縄から助けてあげることにした。


縄を口で噛み切ると、男の巨体が地面に落ちる。


その音はまるで米俵を落としたように地面を揺らしそうな重々しいものだった。


「いったた………」


男は首を撫でながら苦しそうな声をあげる。


「くぅ~ん……」


子狐は心配そうに男の側による。


「狐……それも子供のか

いやはや、キミのお陰で助かったよ」


男は恰幅の良いたぷたぷとした腹を振るわせて笑った。

子狐にとっては初めて見る人間だったが、その笑顔は子供を信頼させるのに十分なものだった。


子狐は嬉しそうにその尻尾を振る。


男も子狐も笑い合っている。

木漏れ日落ちるその風景の中では、その光景はただ微笑ましく映った。


「なぁ、助けて貰ったついでに、水なんかはこの森にあったりしないかい?

喉が渇いてしまったんだ」


男は困ったような笑顔を子狐に見せた。

子狐は満面の笑みで頷くと、湖へと向かって歩き始めた。


この森に唯一存在する湖に。


子狐と大好きな母親が暮らす家の側にある青く青く澄み切った湖に。



男と一緒に子狐は家の近くに差し掛かった時だった。

子狐の足音と一緒に見ず知らずの存在の足音が重なって聞こえたことに驚いた母狐が、家から飛び出してきた。


「かーさま!」


子狐は嬉しそうに自分の行いを褒められたい子供のように,母の元へとその歩みを向けようとする。


そんな最中のことだった……。


子狐の横から固い何かが重なり微かにぶつかるカリャリと言う無機物で冷たい音が子狐の耳に届く。


「え………?」


子狐は目を疑った。

その瞳映ったのは折りたたみ式の猟銃を構える男の姿だったのだ。


「この時を待っていた」


男は銃の引き金を躊躇わずに引く。

空気を振るわせるように重々しい発砲音が静かな森に響き渡り、

森全体を揺らして恐怖を広げる。


それと同時に音もなく宙を舞い、静かに地面へと落ちていく母狐の美しい体。

だらりと投げ出される四肢や舌。

ピクリとも動かない息づかい。

虚しく風に靡く白銀の毛。

淡く閉じられた長い睫毛の縁取る瞳。


この世で最も愛おしい母の亡骸がそこには転げ落ちていた。


「かーさまぁあぁあぁぁああぁ!!!」


子狐はその身を銃弾のように走らせ、母狐の亡骸へと縋り付く。


「かーさま!

返事をしてよ、かーさま!

かぁさまぁぁ!!!」


溢れる涙が目の前をゆがませる。


「おーい!

ついにやったぞ!」


男が声を森中に響かせるように張り上げる。

その声に釣られるようにどんどんと人間がその場に集まり始めた。


「いやはや、お前のお陰でやっと捕まえる事が出来た

やっぱり噂通りだ

この毛並み……高く売れるぞ」


男は母狐の亡骸に近づこうとすると、子狐はその小さな身で威嚇をする。

その精一杯の抵抗はまるで我が儘を言う子供のように弱々しいものだった。


「邪魔だ、退け!!」


「キャンッ!!」


男の腕によって強く吹き飛ばされた子狐は、そのまま木に全身を打ち付けられてしまった。

壮絶な痛みがその小さな体に襲い来る。


「おぉ、中々上物だな」


「あそこに落ちてるちっこいのは?」


「ほっといて良い

ただの狐なんざいつでも捕れるからな」


男たちの笑い声が森の中にこだましながら遠のいて行く。


「待って………かー…さまを……連れて行かないで…………!」


ぼやけゆく意識の中、子狐は連れて行かれる母の亡骸をただただ見つめることしか出来なかった。



02


「ひぃいぃぃいいぃ!!

助けてくれぇえぇぇえぇ!!」


一人の男が暗い路地を一心不乱に悲鳴を上げて駆け抜けていく。

その後ろを黒い何かが追いかけている。


怪しく揺らめく真っ赤な一つ目。

三日月のように裂ける口。

こぼれ落ちそうな鋭い歯。

鎌のように尖った爪を持つ手。


もう何度も使い古された言葉だが、”化け物”……そう呼ぶ他にその黒いモノを表す方法は無かった。


「おいおいおいおい、どぉこに逃げようってんだよクズ野郎くん?」


化け物は楽しげにケタケタと笑い声を上げながら男に声をかけた。

若々しい青年のような少し高い声をしている。


だが、そんな声にも反応できない程に男の心は追い詰められていた。

小さな箱に躓き、豪快に転がりながら壁にぶつかり頭から血が流れ出る。


「ひぃ……ひぃ……!!」


絶え絶えになりかけている声が男の体力の限界を示していた。


あがった息が時折、男の声を詰まらせて噎せ返らせる。

それでも男は逃げる足を止めなかった。

止まれば化け物に何をされるか分からないからだ。

良くて怪我、悪くてその身を骨ごと食い尽くされるだろうと……。


恐怖は男を追い詰める。


それと同時に化け物に快楽を与えていった。


「行き止まり……?!

クソッ……」


いつの間にか迷い込んでしまった行き止まりに男は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。


そして、すぐに違う道へ向かおうとその道を引き返そうとした時だった。

その背後を化け物に塞がれてしまう。


「もう鬼ごっこはオシマイかぃ?」


「く……来るなぁ!!」


追い詰められた男は尻餅を付きながら、その場にあった木の枝で威嚇をした。

しかし、虚しいかな、化け物には全く効かない。

それどころか、その鋭い爪は男の喉元を掻き切ろうと天に振り上げられた。


「自分の行いを悔いながら果てな!」


そう言葉を残すと化け物は爪を振り下ろす。


「ぎゃあぁあぁぁああぁあぁ!!!」


男は断末魔のような声を上げながらそのまま泡を吹いて動かなくなった。


気絶しているようだ。


そんな姿を見届けると、化け物はその身を著しく変化させる。


太陽のように黄金色に輝く金髪。

そんな美しい髪を長いこと手入れを放置していたように、

ボサボサに伸ばしまくった蓬髪を簡易的に纏めただけの髪型。

少し丸みもあるつり目の中に存在する小さめで翡翠色をした瞳。

両耳と舌に開けられたシルバーピアス。

ジーンズにタンクトップと派手派手しいパーカーを着た、まるで漫画とかに出てきそうな三下チンピラのような見てくれの青年に様変わりした。


「ふぅ、いっちょ上がり

今日も俺、ちょー頑張ったんじゃね?♪」


「何がちょー頑張ったですか……やり過ぎです

もう少し考えて行動して下さい、李一さん」


機嫌良くしている青年を”李一”と呼び、その行動を窘める別の青年の影があった。


きっちりと毛先が揃えられたサラサラの短い髪。

健康的で黒々と艶めいている黒髪。

機嫌が悪そうに細められる目に存在する紫色の瞳。

目の下にくっきりと見える隈とそれを隠すように掛けられた銀縁の眼鏡。

白い服に涼やかな色のギンガムチェック柄をしたシャツを合わせ、黒いズボンを着用するといったまるで学生のようなきっちりとした服装の青年であった。


「ぁんだよ源三郎?

俺のやり方に文句があんのかよ?」


李一は青年を”源三郎”と呼び、少し拗ねたような顔を見せた。

その姿はまるで自分のしたことは悪くないと言わんばかりのいじめっ子のような顔をしている。


「文句はありまくりです

貴方はいつだってそうだ!

勝手に駆けだして、周りの事などお構いナシ

今回だって僕が周囲に違和感がないレベルの幻覚で視線を誘導させなかったら、化け物が出たと町中大騒ぎで大変なことになっていたのですよ?

それに、毎回毎回言っていますが、貴方はやり過ぎなんです

あのやり方では貴方も怪我をしてしまっていたかもしれないんですよ?!」


源治郎はまるで悪い事をした子供を叱る母親のような表情で李一を一瞥する。


しかし、李一はものともしない。

飽き飽きしたように大欠伸を見せる。


「別に怪我してねぇんだから良いじゃねぇかよ

まぁ、アイツは多少怪我した上で気絶してっけどな」


「良くありません

だいたいそれは理念に反することなのですよ?」


源三郎は怒りで少しズレた眼鏡を元の位置に戻すように、

真ん中を中指の腹でクイッと押すと、自分の怒りを落ち着かせるように深呼吸をして話を始めた。


「そもそも僕たち”化かし屋”は、嘘や悪事を働いた人間を懲らしめる為に作られた存在

化かし、脅し、懲らしめる……それが重要なのです

相手に怪我をさせて恐怖を与えるのは人間のすること

それを自分の憂さを晴らすようなやり方はもっての外!論外!


僕たちは人間じゃ無い

僕たちは狐狸

人間が言う所の妖怪なのです


人間を懲らしめ、更生させる……

いつの時代だって僕たち妖怪はそうして来た


それに、もし僕たちの正体がバレれば僕たちだけで無く、他の妖怪まで危険に晒してしまうかもしれないことを理解して下さい!」


話の終盤になるにつれ、感情が高ぶって来ているのか、源三郎の口調はどんどんと早く、どんどんと強くなっていった。


「へいへぇ~い

次は気をつけまぁ~~~す」


しかし、源三郎の思いは全く李一に響いている様子は見られなかった。

また小姑の小言が始まったと言わんばかりの口調をしながら、シッシッと手を動かす。


その行動は更に源三郎の怒りを買った。


自分より大きな李一の膝の裏に自分の膝をぶつけ、その体制を崩す。

そして、低くなった李一の両こめかみに拳の尖った所を強くあてがった。


「は・な・し・を・ちゃ・ん・と・き・け!!」


「いだだだだ!!!

こめかみは止めろ!

こめかみはよぉ!」


グリグリグリとこめかみを押さえる手に力を加えて、痛みを与える。

あまりの痛さに先程まで飄々とした態度を取っていた李一が、今にも泣きそうな顔で源三郎に強く抗議した。


「全く……

貴方がそんなんじゃ、いつまで経っても御師匠様に顔向け出来ないじゃ無いですか」


ため息と同時に源三郎は呟いた。

そんな呟きに李一は眉間に皺を寄せて、嫌そうな顔を見せる。


「るせぇよ

オッサンのことはもう良いだろ……!」


今でも耳に残る声が、あの日の記憶と一緒に李一の中でフラッシュバックした。


『いいか?

俺たちは家族だ

これからはずっと一緒だからな』


『うん……!』


大切な存在に語りかけるような優しい声色で話し掛ける男。

ギュッと強く抱きしめられる心地の良い暖かさ。

満面の笑みで返事をして、強く抱擁を返す幼い頃の李一と源三郎。

とても暖かくて幸せな記憶。


だが同時に心を縛り付けては痛みを与える、茨のような記憶。


「あんな……

人に自分の希望を持たせるだけ持たせて居なくなっちまうようなやつ……」


李一は消え入りそうなくらいの小さく弱々しい声で、自分を愛してくれた存在に恨み言を呟いた。


「なんか言いましたか?」


「なんでもねぇよ!」


源三郎の質問に苛立ったような声で返事をすると、路地の出口へと歩き出した。

立ちこめる嫌な空気から早く逃げ出したい一心で……。


そんな李一の後ろを源三郎は「全く……」と呟きながらも付いて来てくれた。


いつも通りの光景。


これからも変わることのないであろう位置関係が二人の心の関係を表していた。


「そんで、次の依頼は?」


ふと先を歩いていた李一が振り返り声をかける。


源三郎は鞄からパソコンを出すと、慣れた手つきで依頼の書き込まれる掲示板サイトを開いた。

そんな様子を後から李一は覗き見る。


「……子供からの依頼ですね

十六時に事務所で内容確認です」


「りょーかい」


大きく欠伸をしながら李一は事務所へ向かって歩き始めた。



03


某県某所――……。


李一、源三郎が仮住まいとして構えている事務所。

二人は黒い机を挟み、依頼主と向き合うように応接室兼李一の仮眠室のソファーに座る。


依頼主は三島和人。


だいたい十歳になるかならないかくらいの年端もいかない少年であった。


不揃いで、少し長い髪。

子供特有の丸く大きな瞳。

まだ少年と少女の境界が曖昧な体つき。

着古して所々解れかけている、この時期にはあまり合わない洋服。


その年には似つかわしくない影のある暗い顔を少年はしていた。


「で、依頼ってのはなんだ?

ネットじゃ書けねぇようなモンのかよ」


事務所に来てから、処刑を待つ受刑者のように静かな少年に痺れを切らした李一が苛立たしげに髪を掻きながら話を促す。


「李一さん、言い方」


声にまで苛立ちが滲み出ているのを感じ取った源三郎が、李一を窘めて睨む。


李一は小さく舌打ちをすると、プイッとそっぽを向いた。


「いえ、大丈夫です

僕がなかなか話そうとしなかったのがいけなかったので……」


年相応の声変わりの来ていない高い声から紡がれる言葉に少年らしさは無く、まるで大人と話しているのではと錯覚しそうなまでにしっかりしていた。


「依頼の内容を書き込まなかったのは、実は迷っていたからなのです

人に裁いて貰うべきか、自分自身でどうにかするべきなのかを」


少年は影のある顔を更に暗くする。


「と、言いますと?」


源三郎の言葉に一瞬疲れた様な瞳を見せると、少年はその重い口を開いた。


「僕を……三島和人を化かして欲しいのです」


少年の発言に今まで我関せずと言った風にそっぽを向いていた李一が驚いて振り返った。


その顔は真剣そのもので全く嘘偽りのない言葉であった事を物語っていた。

源三郎もまた鳩が豆鉄砲を食らったような顔で少年を見つめていた。


それもそのはずだった。


今まで依頼をしてきた人間は、自分に害をなしたのにのうのうと生きている他人を恨み、それを懲らしめて欲しいという内容ばかりで、少年の様に自分を懲らしめて欲しいとやって来たのは始めてだったからだ。


初めての依頼に二人が戸惑っていると、少年が悲しそうな、全ての物事を諦めたような笑みを見せる。


「やっぱり、御迷惑でしたよね……

無理なら無理で大丈夫です

誰かに罰して貰いたいなんて烏滸がましいこと、本当は甘えでしかないって分かっていましたので……」


「そ……そんなことはありませんよ!

その……私たちもそういった依頼が来たのは始めてで、少し驚いただけですので」


源三郎はまだ驚きが隠せないのか、少し上擦った声をあげてしまう。

そんな源三郎を尻目に、李一はいつになく真剣な眼差しで少年に向き合った。


「おい

どうして化かされたいのか理由を聞かせろよ

やるかどうかはそれで判断する」


「ちょ……李一さん……!」


「いいですよ

僕のなんの面白みもない過去の話で良ければいくらでも御話させて頂きます」


止めようとする源三郎に一瞬微笑みかけると、少年は李一に真剣な表情で向き合った。

彼が深く息をするように小さく深呼吸すると静かに話を始める。


「今から数週間ほど前の話です

僕は嘘で人を殺しました……


殺してしまったのは僕の母親です


母は元から身体が弱く、病気になってはすぐ入院を繰り返していました

それは強いストレスが掛かっただけでも倒れてしまう程であったと、父が昔言っていたのを僕は覚えています


父と結婚してからはそうでもなかったそうなんですが、

風邪で倒れることは良くありました


ある時、母が病気で何週間も戻ってこられない事がありました

父は仕事が忙しかったので、基本的に母への見舞いや身の回りのお世話は僕がしていました


そんなある日の事でした


母の着替えを取りに自宅へ戻ろうとした時、父が知らない女性と、家の中から出て来たのを偶然見てしまったのです


僕が見ていた事に気が付いた父は、あの人は只の仕事の同僚だと言っていましたが、僕はうまく状況を飲み込めずに困惑していました


しかし、母に心配をかけたくない一心で僕は”お父さんは仕事が忙しく、当分の間は顔を出すことも出来ないが心配は無い。お父さんは早くお母さんと僕と三人で暮らす事を待ち望んでいる”と嘘をつく事にしました


それから二日後の事でした


母がこの世を去ったのは……


僕が学校で授業を受けている時でした


母の訃報を聞き駆けつけると父が泣きながら”お前のせいだ”と言いました


後でお医者様に聞いたのですが、母の死因はストレスによる精神および抗体の弱体化によって亡くなったそうです

つまり僕が嘘をついたせいで母は亡くなったんです……


母を守ろうと思った人間が結局追い詰めていただなんて……滑稽ですよね」


少年は自嘲気味に諦めたような笑みを浮かべる。

その顔にはあの日の自分を責め、今の自分を消し去りたいと願う悲しい色が窺えた。


「だから俺たちに化かして欲しいと?」


「はい、そういうことになります」


少年の言葉を聞き、李一は疲れたように深い溜め息を吐く。


「あのな、今の話でオメェのどこに悪い点が在るんだよ?

どっからどう見ても、オメェの親父さんが悪いじゃねぇか

奥さん病気で、息子はその看病

その間暇だから自分は浮気して、で、奥さん死んだら全部面倒見てた息子が悪いって、虫が良すぎるだろ

オメェもオメェだ!

なに全部自分のせいだって洗脳されてやがる!

俺だったら病院で自分のせいにした瞬間、即行で横っ面ぶん殴る」


少年の経緯に尋常ではない怒りを感じた李一は捲し立てるように一気に、その心にたまった怒りを言葉に換えて吐き出した。


あまりの大きな怒鳴り声に、少年は少し身体を縮こませる。


「でも……

僕は、平気で嘘をつく必要のない子だから……」


自分の為に怒ってくれている李一に申し訳なさそうな顔をしながら、小さく反論をする。


平気で嘘をつく必要の無い子……。


父親が葬式の時に誰にも聞こえないようにひっそりと少年に言った言葉だった。


誰にも必要とされず、それどころか誰かを傷つける事しか出来ない存在である自分なんかの為に、李一が怒ってくれているのはなんだか申し訳なく少年は感じた。


しかし、そんな思いはお構いなしに李一の怒りは更に高まっていく。


「デモもへったくれもねぇ!

いいか?オメェは一ミリたって悪かねぇ

嘘をついたことを悔いてるっつーんだったら、

こんくらいのちっせぇ嘘気にしてんじゃねぇよ」


ダンッと少年との間にある黒い机に強く片足を置くと、その足に片手を乗せ、腰に手を当てた。


そして、前のめりに背を曲げると、李一の顔が少年の顔に近づく。

じっと怯える少年の顔を見つめると、すぐに背を伸ばし、片足を机に乗せたまま両腕を組んだ。


「おし、決めた

俺は今からコイツの親父をぶん殴りに行く!

源三郎!止めるんじゃねぇぞ!」


止められる事が予想されそうな李一は不機嫌そうに源三郎を睨んだ。


しかし、返ってきた返事は意外なモノだった。


「誰が止めますか……

こんな親のクズのような塵は今すぐにでも排除するべきです

僕も全力で援護させて頂きます」


源三郎もかなり怒りが溜まっていたのだろう。

眼鏡の奥に輝る鋭い目は、今にも敵を食い殺さんとする獣のようであった。


「ぼ……暴力はいけないですよ……!

もし通報されてしまったら、捕まってしまいます!

僕の家のいざこざなんかの為に、捕まる様なことしなくても……」


少年は今にも人殺しの一つや二つやってのけそうな二人の様子に、怖ず怖ずと止めに入る。


「大丈夫です

僕たちは警察なんかには捕まりません

それに、何も暴力で解決しようとしている訳ではありませんので」


少年の言葉に、源三郎は何事もないような感じで答えた。


「え?!そうなのか?

俺、完全に殴り込みスタンスで居るんだが」


李一は今の今まで一緒にぶん殴ろうとなっていたはずの源三郎からの発言に目を丸くした。

そんな李一の状態に源三郎は疲れたような溜め息をつく。


「馬鹿ですか李一さんは……

僕らは化かし屋ですよ?

暴力なんかよりも心に残るキツイものをお見舞いしてやりましょう

………まぁ、化かし中に何かあったとしても、今回だけ僕は知りませんけどね」


今までに見たことの無い程の悪意の滲み出る笑みを源三郎は見せた。


「おうよ、”死なない程度”にはしてやんよ

死なない程度にはな?」


李一もニヤリと口を歪ませ、源三郎と見合った。

二人の中で心が繋がり合って一致団結してるように見える。


「おい、和人!」


李一は再び少年に向き合う。


「は、はい!」


バチリと目が合い、少年は少しその身を固く身構えた。


「オメェも協力しろ

三人でこの依頼、成功させてやろうぜ!」


李一は楽しそうな邪悪な笑顔を浮かべて豪快に笑った。



04


その日の夜――……。


真っ赤な月が血に染まったような色を滲ませて、不気味な空気を辺りに撒き散らしていた。

そんな不気味な夜を二人の男女が共に歩いている。


「明日には迎えが来るように話しは付けて置いたから、そうしたらもうあの家は俺たちだけの家だ

こうやって夜にこっそりと来なくても、いつでも一緒に居られるよ」


男は柔らかな笑みで女を見つめ、その肩を抱き寄せた。


女は嬉しそうにはにかむ。


「嬉しいわ

これでもう人目を気にせず何でも出来るのね」


絡みつく純度の高い蜂蜜のようにねっとりとした猫撫で声で話すと、女は男の身にその身体を委ねた。


男を見上げる瞳は邪を含み、全ての男を虜にしそうな程に獲物を逃がさんと妖艶に輝いていた。


「でも、いいのぉ~?

まだ初七日終わったばっかりでしょ?

奥さんに悪いわ~」


形だけの心配を口にしながら女は笑う。

男がどんな事を言っても自分を裏切らないと確信している笑みだった。


「平気だよ

元々、俺が愛してるのは君だけだ

あんな金の為だけの女はさっさと死んでくれて寧ろ在りがたい

そのお陰で、保険金で君と幸せに暮らせるのだから」


「まぁ!私もよ

やっと二人で暮らせるのね」


男と女は幸せそうに口づけを交わす。

その接吻はねっとりと濃厚で、口の中で互いの愛を確かめ合う。

男の手が女のスカートの中にソッと入ろうとしたときだった。


「だぁめ♪

続きは家の中で……」


焦らすように女はするりと男の腕から抜けるとイタズラっぽくウィンクを飛ばした。

男は誘惑されるがままに、女の後をアンデットのようにだらしなく付いて行く。


女が家の鍵を開けると、テレビのカラフルなライトが不気味にリビングルーム照らす先に、揺れる小さな影があるのを見付けた。


機嫌良く帰って来ていた先程とは打って変わって、女は不機嫌そうな顔で腕を組み、男に和人が起きているのを何とかしろと目で合図する。

男は言われるがまま和人の居るであろうリビングの扉を開く。


「和人、帰ったぞ

お前いつまで……………ひぃっ?!」


情けない声を上げながら男はその場に尻餅をついた。

わなわなと生まれたての子鹿の様に小刻みにその身体を震わせる。


「どうしたってのよ?」


男の情けない姿に女は溜め息をつきながら近づいて、男の震える指が示す先を見つめた。

その瞬間、女は背筋を何か恐ろしいモノが張って行くような気持ち悪い感覚に襲われ、息を飲む。


その視線の先には………。


首を吊っている和人の変わり果てた姿があった。


「は……早く下ろしなさいよ!」


「は……はい!」


女に急かされるまま、男は和人のその小さな身体を縄から外して床に寝かせた。

静かに伏せられた目には悲しみの涙が乾きかけていた。


「ちょっ……コレどうすんのよ?!」


女は眉間に皺を寄せて、まるで害虫でも出たかのようなあからさまに嫌そうな顔を見せて和人を見下した。


「どうするって……

そうだ!救急車を……!!」


男は和人の遺体に背を向け、震える手でIPhonを起動させようとした。

しかし、即座に女が奪い取った。


「何言ってんの!

もう動いてないのよ?

ダメよ、絶対ダメ!」


「じゃあ、どうすれば……!!」


男が反論をしようとしたその時だった。

ミシリ……と何か重いモノが背後にゆっくりと置かれるような音が静かな部屋に響く。

おそるおそる二人が振り返るとそこには、白い目をした先程まで動かなかった和人が立っていた。


「父さん……僕………死ねてる?」


白い瞳から赤い涙を零しながら、一歩、また一歩と距離を詰めていく。


「きゃあぁあぁぁああぁあぁ!!」


「わぁああぁぁあぁああぁあぁ!!」


恐怖に襲われた男と女は一目散に玄関へと駆けだして行った。

懸命に扉を開こうとするが、全くビクともせず、開く事は無かった。


「きゃあぁ!!

何よ……どうなってるのよコレ!!」


なんど強くドアノブを引いても、開くことは無かった。


「うわ!

く……来るな!!」


男はどんどんと近づいて来る和人の身体を強く押しのけ、女を置いてリビングへ逃げ出す。

和人は何の抵抗もない人形のように地面へとぶつかりそうになった。


しかし、黒い影が彼を包み、その身を救った。


黒い影は和人を抱きかかえる様にしながら、その身を変化させる。


髑髏の仮面で覆い隠した顔。

ミイラのようにひび割れる肌。

襤褸切れのような布を巻いただけの服装。

だらりと地面に垂らされた三本の手から伸びる爪の形をした鎌。

地獄の果てからやってきた悪魔に似た風貌の化け物が姿を現した。


「きゃあぁ!!

こ……殺される!!」


女も悲鳴を上げながら二階へと駆け上がって逃げて行った。



05


女は一目散に踊り場の影にその身を隠した。


「もぉ、何なのよぉ………」


膝を抱えながら目にいっぱい涙を浮かべて小さく嘆いた。


自分は何も悪くない。

自分は何もしていない。


そんな事を心の中で何度も呟きながら、女は自分を落ち着かせようとした。


ふと顔を上げると、子供部屋に淡く光が付いているのを見かけた。


女は恐る恐る中を覗くと、一人の女性が歌を歌っているのが見える。


子守歌だ。

その声は聞き覚えがあった。


その声は……


「あ……アンタ、なんで此処に居るのよ?!

子供だけじゃなくてアンタまで生き返って復讐しようって言うの?!

アンタは死んだ、私の目の前で!」


女はヒステリックに叫び出す。


そう、その目の前に居たのは、亡くなったはずの少年の母親だった。


「私は死んだ?」


女性は歌を止めて何を言ってるか分からないように小首傾げる。


「そう、死んだの!」


女の目は血走り、冷や汗が滝のように流れる。


「貴方が殺した?」


女性はまたも不思議そうに聞き返した。


「そ……そうよ!

アンタは私が殺した

アンタの夫と不倫して、夫はアンタよりも私を愛している事を伝えた

そしたらアンタは死んだ

呼吸が速くなって、目が虚ろになって、苦しそうに藻掻いて死んだの!」


女は狂った野犬のように吠え立てる。


まるでその行為で自分の意識を守っているようだった。


「そんなことより、見て頂戴」


女性は彼女の言葉を聞き流すように優しく微笑むと、ベッドをそっと指差す。

女は恐る恐る覗き込んでみた。


するとそこには、、、


醜いガマガエルのような顔をした赤ん坊が小さなカプセルの中で眠っていた。


「きゃあぁあぁああぁあぁ!!」


劈くような悲鳴が部屋中をこだまする。


「可愛いでしょ?

でもねぇ、私が死んじゃったらこの子を産んでくうれる人が居なくなっちゃうの……

そうだわ!

貴方が産んで頂戴!

ねぇ!良いでしょう?!

ねぇ!!」


「きゃぁ!」


女性は女を無理矢理押し倒すと、手に持っ果物ナイフを振り上げる。


「逃げないで!

お腹が捌けないじゃない!」


「いやぁあぁあぁぁああぁ!!」


ドスンと女の耳のすぐ真横を大きな音をたてて果物ナイフが突き立てられた。


数本程、女の髪がバラバラと散らばる。


女は悲鳴が切れるのと同時に辛うじて繋がっていた最後の意識も消えてしまった。

ぐったりと女の身体から力が無くなる。

女性はそんな姿を見届けると、身体を変化させた。

そこには源三郎の姿があった。


「やれやれ……

こっちはコレで終了ですね

あとはそちらにお任せしますよ」


月の明かりか興奮のせいか真っ赤に染まる瞳を、

胸元に入れていた眼鏡で源三郎はそっと覆い隠した。



06


男は化け物から逃れようと、リビングへと逃げ込んでいく。


近場にあるモノをひっくり返して壁を作っていた。

しかし、化け物は全くモノともせず前進してくる。

その姿は死神そのものだった。


「ひぃ!

お……俺が何をしたって言うんだ?!」


男は涙を浮かべながら怯える。


「幸美が死んだもの、和人が死んだのも俺のせいだと言いたいのか?!

俺は悪くない!

そりゃ……他の女と浮気したのは悪いかもしれないが、アイツらが死んだのは俺のせいじゃない!

アイツらは勝手に死んだんだ!

畜生!俺だって……俺だって大変だったんだよぉ!!」


子供のような言い訳を叫びながら、男は窓際で怯える。


その姿はお化けを怯える小さな子供と変わらなかった。


化け物はくぐもった声で男に問いかける。


「俺は悪くない……か

お前は自分がしたことの重大さが分かっていないようだな

二人の死はお前のせいだ

お前の嘘が二人を殺した

その真実を受け入れられないっと言うなら………」


和人を抱えていない手を振りげると鎌のような爪が月明かりを受けて、鈍い光を放つ。

その瞬間男は化け物が何をしようとしているのか本能的に理解出来た。


「お前が死ね……!!」


電光石火の如く放たれた鋭い爪は男が身を固める前にその胸を捕らえた。

切られた傷口から血が吹き出る。

男は口から泡を吹きながら、白目を剥いて気を失った。

ピクピクと身体を小さく痙攣させながら地面にだらしなくその四肢を投げ出している。


男が気を失うのを見届けたように赤い月の光は引いて行き、先程までの不気味さは夢か幻であったと言わんばかりに、街に溢れる光が周囲を明るく照らした。


「………っくく…あーはははは!!

こりゃ傑作だ

はぁー…なんつぅ間抜けな顔して伸びてやがんだ」


やがて化け物は李一と同じ声で幻惑によって気を失った男を大きく笑いはじめた。

ケタケタと愉快そうな声が部屋中に響き渡る。


「上手くいったのでしょうか……?」


化け物の腕の中から降りて床に立った和人がそっと口を開いた。


「あん?」


そんな和人の横顔を化け物の姿からいつもの姿に戻っていた李一が見つめる。

コンタクトの為か虚無に光るその瞳はどこか寂しそうな色を残していた。


「僕らは……上手く化かすことが出来たのでしょうか……?」


「あぁ!当たり前だろ!

俺史上最大に最高の化かしだったぜ!

オメェの化かし、すごく良かったぞ」


李一は和人の頭を髪がくしゃくしゃになるくらい強くなで回した。


「そんなことないですよ」


和人は控えめに謙遜をする。

その顔はどこか嬉しそうな色を映していた。


「オメェ、化かしの才能あるんじゃねぇか?」


「そんな……!

ありませんよ

僕は李一さんや源三郎さんみたいには……」


「俺やアイツは狐狸だから出来て当然なんだよ

でもお前は人間だろ?

人間でここまで上手く出来たんだ

それは才能で間違いねぇんだよ」


「そう……なんですかね?」


李一の真っ直ぐな瞳に見つめられ、和人の心も揺らぐ。


それは必要の無い存在であるはずの自分も、もしかしたら役に立つことが出来るかもしれないという淡い期待。

親の愛を失った少年には一番心に響く甘美なものだった。


「絶対そうだって!

……あ、そうだ!

おい、これからも俺らと組んでさ、一緒に化かしをやらねぇか?

きっと楽しくなるぜ」


李一は屈託のない笑みで和人に笑いかける。


「李一さん……

そうですね

きっとすごく楽しくなりそうですね」


和人もまた、李一に微笑みを返した。

その姿は真の絆を繋いだ者たちのように美しく、見ている者の心に一筋の光を与えるように輝かしいものだった。


「じゃあ……!」


「でも、ごめんなさい……」


「な……なんでだよ?」


和人の返答に李一は愕然とした。


せっかく繋がった絆が脆く音をたてて崩れていくような感覚が李一を襲う。


「実は僕、朝にはこの家を離れることが決まってたんです」


「はぁ?

なんだよそれ……

意味……分かんねぇよ……」


困惑する李一に和人は儚げにぽつりぽつりと言葉を出した。


「僕は明日で児童養護施設に行く事になっていたんです

父にとって僕は必要の無い子供だったから……

これでこの家での暮らしは最後なんです

でも、最後に良い思い出が出来ました……

李一さんや源三郎さんに会えて本当によかった……!!」


和人はどこか諦めたような笑みを李一へ見せた。


その笑みは自分自身の為ではなく、この事実が信じられないといった表情を見せる李一を安心させる為だけに作られたものにしか見えなかった。



07


「どうしたんですか

珍しく落ち込んだ顔をして」


和人と別れてから、一人明けゆく夜の世界をベランダから見つめている李一の姿を見て、源三郎がそっと隣に立つ。


「和人さんの事ですか?」


未だ口を結んだままの彼に源三郎は声をかける。

和人の名前が出て、李一は小さく反応を見せた。


「図星ですか……

貴方は少々彼に肩入れしすぎですよ

確かに彼の運命は悲惨なものです

見ているこっちですら辛く感じてしまう程に残酷だ

でも、だからといって僕らにはどうすることも出来ません

それに彼自身がこの悲惨な運命を受け入れているのです

例えこちらが助ける手を伸ばしたとしても、取ることは無いに等しいでしょう」


「そんなことわかってる!」


李一は現実を突きつけようとする源三郎に恨みのような感情の籠もった瞳を向ける。


しかしその瞳はすぐに悲しみの色によって塗り替えられた。


「わかってっけど……くそっ!!」


李一は悔しそうに俯いた。


「李一さん、僕たちは狐狸です

世の中を生きる為だけで僕たちはいつだって精一杯なんですよ?

他人を助ける余裕なんてないんです……」


苦しそうに悩む李一を見ながら、源三郎は悲しそうに、そして突き放すように呟くと事務所の中へ戻っていった。


李一は源三郎の言葉を心で繰り返した。


確かに狐狸だけでなく、妖怪は昔よりも世界で生きづらくなってきており、その数は年々減ってきていた。

昨日知り合ったモノが次の日にはいなくなっているなんてことがザラにあった。

次に自分たちがそうならない確証もない。

そんな中、誰かを救おうだなんて奇特な考えを持っている存在は少ない。


血の繋がりも、種族も違えば尚更……。


「なら、アイツはなんで俺らを助けたんだよ………」


星を見つめ李一はそっと目を閉じた。


とある声がふと蘇る。


『どうして……どうしておじさんは僕を助けてくれたの……』


幼い日の李一があどけない声で男に問いかける。


『それは君が困っていたからさ

困っている時はお互い様だ

もし、君の前に今の君と同じように困っている人がいたら、迷わず助けてあげなさい』


遠い昔の記憶。


今も心に残るとある人の断片。


「俺が助ける……か………」


李一はゆっくりと目を開く。

どんどんと白さを取り戻そうとする夜の空がそこには広がっていた。


「やってやるよ……やってやろうじゃねぇか……!!

おい、源三郎!!

手伝いやがれ!」


「はぁ?

急にどうしたんですか?」


源三郎は急に何かを思いついた李一に引きずられるようにして出て行く事となった。



08


深い霧が立ちこめる早朝。


それはまるで和人のこれからの人生を現しているかのように、行く先を隠し、進むべき道を隠し、不安と恐怖を助長させる。


それでも和人は進むしか無い。


新しい世界ではもしかしたら……。


もしかしたら、もう必要のない子ではなくなるかもしれないからだ。


「来たか……」


男が遅いと言わんばかりに舌打ちをした。


遠くから響いてくる車のエンジン音。

児童養護施設の人の車だろう緑のコンパクトカーが霧の中から現れて、和人たちの前で止まった。


その中から、職員らしき壮年の男性と少し若めの女性が降り、二人に向き合うように立った。


「遅いじゃ無いか」


「すみません……

なにぶんこの霧でして、スピードを出すわけにはいかなかったんですよ

それに、本来のお約束の時間よりかは早いはずですが……」


男の怒りに車から降りた職員の男性は丁寧な口調で反論を唱えた。

しかし、気が立っている男が聞く耳を持つわけは無く、捲し立てるように話しを始める。


「そんなことはどうでもいい

早くコイツを連れて行ってくれ!

昨日なんてコイツのせいでとてつもない悪夢を見ちまったんだ……

もう二度と顔も見たくない!」


どうやら男は昨晩起こった出来事を悪い夢と認識しているようだった。


それもそのはずだ。


和人たちは男たちが気絶をしたその後、二人を寝室へ連れて行ったのだ。

すべて夢であったように見せかけるために……。


「お父さん、そんな言い方……」


和人に対して、悪魔か何かを見るような目を向けて怯えている男に、職員の男性は困惑した表情を見せる。


「五月蠅い!

いいから早くしてくれ!!」


「わ……わかりました……」


男のすごい剣幕に渋々職員の男性は和人に向き合った。


「君が和人くんだね?

これからオジさんたちと遠くに出かけようか

大丈夫、これから行くところは怖いところじゃないから

きっと君にとってステキな事が起こる場所だよ」


男性はニコリと優しく微笑むと和人に手を差し出した。

和人は何も言わず、ただどこか悲しそうな微笑みを浮かべてその手をとった。


この手をとったら、もう後戻りは出来ない……。


本当は最後に李一や源三郎に会いたかった……。


そんな思いがグルグル和人の心の中を駆け巡る。


和人を必要としてくれた……


和人の為に怒ってくれた……


心優しき一夜だけの友人……


和人は今にも溢れ出しそうな涙を唇は切れそうなほど噛みしめて留めた。



「それじゃあ行こうか」


和人を乗せた車はどんどん遠ざかって行く。


自分が生まれた家を背中にして……


和人を乗せた車はどんどん遠ざかって行く。


行き先の見えない霧の中を静かに進んで……


********


男はこれで終わったかのように安堵の溜め息を深くついた。


これで女と二人で暮らせる。


もう何も後ろめたい感情も苦しみも全部全部なくなった。


世間も何も気にしなくて良くなった。


今にも鼻歌でも歌い出しそうな勢いで男は家の中へ戻ろうとした……その時だった。


一台の車が家の前に止まる。

先程の車と同じモノだった。


「いやぁ、遅くなってしまって申し訳ありませんね

なにぶんこの霧のせいで中々動けなくって……

三島さんお子さんはまだ眠っておられるんですか?」


その中からは先程と全く同じ見た目の男と、どこかおっとりとした雰囲気の中年の女性が降りてきた。


「え……だってさっき……」


「さっき?

何のことですか?

私たちは今来たばっかりですよ?」


男は何が何だか分からなかった。

確かに先程、和人を引き取りに職員が来たのだから。


そうそれはまるで”狐につままれた”かのような感覚であった。



09


暫く車の中は静寂が支配していた。


言葉を交わそうにも言葉が無い。

声を上げればその隙に涙が溢れてしまいそうな……少し苦しい感覚が喉を締めつける。


ちらりとミラーを見つめ、男性と女性の顔を見つめた。


どちらも人形のように無表情で、本当に生きてるのかさえ危ういような何の感情も生んでいない顔をしていた。


どれくらい車は走っていたのだろう。

人の気配の無い道へ車はどんどんと進んで行く。


流石に何かがおかしいと思った和人は思いきって声をかけてみることにした。


「あ……あの………」


和人が声をかけようとしたのと同時に、車は急に止まった。


甲高いブレーキ音が響く。


何か良からぬ事が起きるのでは無いか……。


和人は不安そうな表情を浮かべながら、身を少し強張らせた。


すると、急に運転をしていた男性が大声で笑い始めた。

その声は聞き覚えのある愉快そうな笑い声だった。


「あーっははは!ひーゃはっはっはっ!

やったぜ中々の成功だ!」


「李一さん?!」


なんと和人を連れ出したのは李一だったのだ。

和人は思わぬサプライズに目を丸くする。


「なんでここに?!」


「なんでって……お前を迎えに来たに決まってんだろ?」


李一は和人の顔を見ながら満足そうな表情を浮かべて答えた。


「迎えに……?」


「どーせ捨てられる命だ

誰に引き取られようが関係ねぇだろ?

それだったら、俺らが貰ってやろうって

な、源三郎?」


そう呼びかけられた先程まで黙っていた女性は小さく溜め息をつくと、いつもの源三郎の声で話し始めた。


「だからなんで僕に振るんですか

僕は貴方に引っ張られて来ただけで何も……」


「またまた~

職員の奴らのこと調べて、こいつらに化けようって提案したのオメェだろ?」


「なっ……?!

それは、貴方がまた考えナシに無謀な事をしでかそうとしたから……」


「へいへい

そーゆうことにしといてやりますよぉ~だ」


「貴方ねぇ……!」


源三郎と李一の他愛も無い喧嘩が始まろうとしたその時だった。

後部座席から小さく鼻を啜る音が聞こえ、二人は和人の方を見る。


和人が泣いていた。


ポロポロと涙をその小さな手の甲に落としながら。


「お……おい、大丈夫か?

ブレーキ踏んだときに頭でも打ったか?

それとも、源三郎と一緒に暮らすの嫌か?」


「なに自分を棚に上げてるんですか……」


「だってよぉ……」


「ぐすっ……いいえ、すみません

心配はしないで下さい

これは、その……

安心したら涙が止まらなくなってしまっただけなので」


和人はポロポロと落ちる涙を服の袖で強く擦る。


彼の目はあの日の月のように赤く腫れ上がっていた。


しかし、その目には恐怖や諦めといった感情は無く、幸福と言うに相応しい幸せに満ちた色を写していた。


和人の嬉しそうな顔に、李一も源三郎もつられて微笑みを見せる。


狭い車内に広がる温かく柔らかい幸せな空気の中、ふと李一は真剣な表情をした。


「なぁ、和人

もう一度聞くが、、、俺たちと一緒に暮らさないか?

三人で暮らせばきっと今までのお前の人生以上に楽しくなるぜ?」


李一は真っ直ぐ和人だけを見つめる。

その瞳はまるで一斉一代の告白をするように愚直で、なんの企てもない純粋な光で彼を映す。


そんな李一に優しい微笑みを浮かべて和人は今度こそ迷わずに自分の心を真っ直ぐ伝えた。


「はい、喜んで……!」


三人の新しい出発を祝うように、今まで霧に隠されていた空は夜明けを告げる光を解き放った。


そのどこまでも青い青いこの日の空を三人は忘れることは決して無かった。

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