グレシャム男爵夫人
グレシャム男爵の爵位を伯爵と綾マット手ひょきしてしまいました。
構想段階では伯爵でしたが、高すぎると思い後で直したのですが直しきれていませんでした。
お詫びして訂正します。2018/2/25
「お久しぶりです。グレシャム夫人」
いきなり抱き寄せられ、カイルの顔はグレシャム夫人の胸の中に埋まってしまい、息が出来なくなる。
何より夫人の色香が凄くて噎せ返る程だ。カイルは直ぐに逃れようともがくが、それでも夫人は手を放さない。
「もう一年以上会っていないんだから。久しぶりに抱きしめさせて!」
「は、はあ」
夫人にそこまで言われてはカイルも断りづらかった。
「あー、神様に何をしているのですか!」
カイルに付いてきたオバリエアが声を上げる。
エウロパでは珍しい浅黒い南洋の女性であることから、最初は奇異な目で見ていた水兵達だが、オバリエアの純粋爛漫で人なつっこい性格が受け容れられて、今ではマスコットのような存在だ。艦長の付き人と言う事で手を出す水兵はいない。
そのオバリエアが唯一怒るのがカイルが脅かされる時だ。
彼女の基準ではグレシャム夫人の熱烈なハグが許せないらしい。
「あら」
オバリエアに反応してカイルから手を放したグレシャム夫人だったが、決して従った訳では無い。
「あなたが報告書に出ていたオバリエアね」
「は、はあ」
観測航海の報告書は本国のみならず新大陸ニューアルビオンにも届けらている。印刷されて一般の人々にも読まれていた。
「本当、肌が黒くて可愛い子ね」
そう言うなりグレシャム夫人はオバリエアを抱きしめた。警告に従ってカイルを放したのではなく、新たな標的を抱きしめるために放したのだ。
抱きつかれたオバリエアはグレシャム夫人の胸の中で暴れる。
暫くして満足したグレシャム夫人はようやくオバリエアを放した。
「カイルも無事だったのね。航海中の話は報告書を読んで知っているわ」
「ありがとうございます」
「本当に寂しかったし心配したのよ。戻ってこないんじゃないかって」
「はあ」
「だから、もう一度抱きしめさせて!」
グレシャム夫人は再びカイルに抱きついたが、カイルは拒絶しなかった。
夫人はカイルの恩人であり、この抱擁のお陰で任務を達成できたのだから。
それは観測航海の前、ニューアルビオン戦隊に所属していたときだ。サクリング提督の命令で、周辺の慰撫、有力者に会い、海軍への協力を求める活動をしていた。
チャールズタウン周辺はグレシャム伯爵の領地が最大であるため、グレシャム男爵を訪ねて協力を求めた。
「邪悪なエルフが我が屋敷に入ることはまかり成らん!」
だがカイルを見たグレシャム伯爵は、カイルが屋敷に入ることを断固拒否した。アルビオンの迷信深い人間はエルフを邪悪な存在と考えており、カイルを見るなり追い払う態度をとることも多い。
カイルも慣れたものであり、任務は達成できないが、ここは引き下がった方が良いと考えたときだった。
「あなた。本物のエルフなの?」
引き返そうとしたカイルに声を掛けたのがグレシャム夫人だった。
「そうですが」
「その耳本物?」
「ええ」
「触ってもいい?」
「少しなら」
カイルは好奇心で寄ってきた夫人に自分の耳を触らせた。最初は恐る恐るといった感じのグレシャム夫人だったが、本物と分かると直ぐに両手で何度も擦るように触った。
「すごい! 貴方のお話が聞きたいわ! 屋敷に来て!」
そう言ってカイルを抱きしめて屋敷の中に入れた。
カイルは耳が性感帯のように弱点で、夫人に執拗に撫でられたため、既に脱力しきっていて抵抗できず、そのまま連れて行かれた。
だが、そのお陰でカイルはグレシャム男爵の屋敷に入れた。
そもそも男爵は邪悪なエルフが自分の妻に悪さをするのを恐れてカイルが来ることを拒んだのだ。
その夫人が自ら家に入れてしまっては、撥ね除ける根拠は無い。
こうしてカイルは夫人から過剰とも言える歓待を受けて、一晩泊まった後、基地に戻る事になった。
カイルはその日のうちに帰りたかったが夫人が執拗に勧めるので宿泊を断れなかった。
ちなみに夫人とはやましいことをカイルは何もしていない。
「妻に手を出したら銃で撃ち殺す」
する気も無かったが、夫である男爵に目の据わった顔で釘を刺される。
ただ、それ以外の事では何ら問題無いらしく、メアリーがカイルを抱きしめるのを許していた。
「ところでミスタ・クロフォード。どうやったらエルフは生まれるのだろうか?」
「残念ながら私も存じません」
このようなことを尋ねてくるのだから、男爵も相当な人物である。
子供を持つならカイルみたいな綺麗で格好いいエルフが良いわと夕食の時、夫人が話したせいだ。
以来、カイルは夫人のお気に入りとなって、夫人を通じて伯爵と慰撫活動を行い、任務を達成した。
そんなわけで、カイルは夫人には頭が上がらない。
こうして再び抱きしめられても、なされるがままなのは仕方ない。
「? !」
ただ、再び抱きしめられた時カイルは違和感を感じ、その正体を推察して夫人に尋ねた。
「あの、夫人」
「なに?」
「胸を触っても宜しいでしょうか?」
「……何を言っているんだエロガキ」
唐突なカイルの言葉に最初に反応したのはレナだった。階級は同じ海尉だが艦長職のカイルの方が上官であり、けじめの無い言葉遣いは御法度だ。そのことはレナも分かっているが、思わぬセクハラ発言であり、言葉が荒くなった。
「違うよ。やましいことは無いよ。診察だよ」
「お医者さんごっこするつもりか」
「違うって」
「いいのよ」
口喧嘩をはじめたカイルとレナを止めたのはグレシャム夫人だった。
「さすがカイルね。気が付いたのね。どうぞ、触って」
「では、失礼します」
カイルは恐る恐る夫人の胸の一部を触った。最初は気が付かなかったが、確かに胸に痼りがある。そしてそのシコリの正体をカイルは覚えていた。
「乳がんですか?」
「ええ、医者からは長くないと言われているわ」
カイルは帝都に居た頃、将来は海軍士官として艦に乗るために医術を学んでいたことがある。そのとき後学のためにと教官が乳がんで亡くなった女性の献体を触らせてくれた事があり、その感触を覚えていた。急病や負傷への対処法だけ覚えられれば十分だったのだが、今回は役に立った。しかし、ガンともなればカイルにも打つ手は無かった。
もっと後の時代なら麻酔や手術道具が発達して切除できたかもしれないが、外傷を縫う程度の技量しか無いカイルには乳がんの手術は無理だ。
「それで療養の為に南に?」
「ええ」
本当は季候の良いところで最後を迎える為に向かうのだろうと思い、カイルは柔らかい言葉をかけた。
「無事にお送りいたします。狭い艦内なので至らぬ所が多いかと思いますが、出来る限り歓待します」
「ありがとう」
カイルはレナに夫人を案内するように命じて下に向かわせた。
「今回もご厄介になる。ミスタ・クロフォード」
夫人が下りて行ったのを見送ると、グレシャム男爵がカイルに頭を下げて礼を言った。
「いえ、こちらこそ恩返しができるので嬉しいです」
「いや、最後の時を二人で静かに過ごせるよう船を出してくれて本当に感謝している。陸は危険でね」
「そんなに危険なのですか?」
「独立派と皇帝派が対立している。各所で口論が起こり、武器を使った喧嘩になることもある」
「そこまで酷いのですか?」
「これが原因でね」
男爵が差し出したのは一冊の本、カイルが参加した観測航海の報告書だった。
「私たちの航海が原因なのですか?」
「いや、この報告書自体は非常に素晴らしい。君の活躍を知ってメアリーも心を躍らせた。病の痛みを忘れる程にね」
「では、何が問題なのでしょう」
「これだよ」
そう言ってグレシャム伯爵は本に付いている小さな紙を指差した。
「印紙だ。これがないと本を売ることは出来ない」
先の戦争の戦費と、増大した新大陸での駐留経費を賄うために増税が行われていた。
印紙もその一つで、本やパンフレットなどの印刷物の他、パスポートなどの公文書、果てはトランプにまで収入印紙の添付が義務づけられていた。
「これが厭でも目に入るからね。増税に皆怒っているよ」
「しかし、これはニューアルビオン防衛の為に使われるのですが」
「それは分かっている。しかし、人々は本国に金を取られていくことが我慢ならないんだ。それに戦費は国債で賄われたのだろう。買い取ったのは大半が本国の人間だ。今回の増税は本国の人間に金を渡している、と批判する者も多い。
「そうですか」
アルビオンが勝てたのは戦費調達に成功したからだ。その大半は国債であり、買ったのは本国の商人や中産階級だ。借りたからには返さなければならない。何より軍資金を出してくれた自国民には確実に返さないと彼等が困窮してしまう。
しかしそのための税金を巻き上げられる側はたまったものではない。
「普通の本がこんな有様だからね、地下出版が盛んだ。印紙を貼らずに済むからね。ささやかな抵抗運動として行われているよ。それに当局の検閲をすり抜ける事が出来るから内容も過激だ。先日出版された『事実』という某ニューアルビオン人が書いたパンフレットでは、皇帝が如何に無能か、能力が無く、ただ怯え、家臣のいいように操られていると書いている。人々の皇帝信仰をボロボロにしているために、大人気だよ」
「でしたね」
カイルも一応、押収物を読ませて貰った。
皇帝専制と貴族専制の汚物が議会を支配しており、国民は奴隷でしかなく、自由を得るには独立するしかない。皇帝は国民を顧みることはなく、搾取の対象にしか見ていない。その証拠に未だかつて皇帝の恩寵がニューアルビオンに与えられた事実はない。アルビオンという小さな島が、大陸を支配するというのは、小さな惑星がより大きな衛星を従えているようなもので、自然の原理に反する。
等々過激な事が書いてある。
一般人の国民は皇帝が自分たちの生活を良くしてくれると信じている、いや信仰しており、皇帝信仰と呼ばれている。これまで政府から何度も宣伝が行われたり、役人が繰り返し言っているからだ。しかし、今回のパンフレット『事実』の内容はその信仰心を打ち砕くものだった。
カイルは否定しようとしたが、隣の領地で地方領主だった時代の皇帝陛下も、今の私的な部分も、いずれも普通の優しい小父さんである。それを思い出すと『事実』の内容を全面的に否定することができない。根は優しい人なのだが、悪意を持って解釈すれば『事実』のように見えなくもないものだ。
「作者は匿名だが、噂ではリード氏の名前も挙がっている。そのような悪口を言う人が多くてね。静かに過ごしたくて離れさせて貰うんだよ」
「海に、いや艦にいる限りは邪魔はさせません」
「ありがとう、ミスタ・クロフォード。ところで、エルフの秘術で妻の病気を治せないだろうか?」
真顔で男爵は聞いてきた。
「残念ながら。そのような秘術があるかどうかさえ知りません」
人間の両親から、先祖返りで生まれてしまったカイルにエルフの秘術は伝えられていない。
風や水を操り、時に傷や病を治したといわれるエルフだが、秘術を伝えられていなければ無理だ。
「そうか。ああ、神よ。何故、私ではなく、妻に死を与えるのか!」
男爵は大声で天に向かって叫んだ。そして自分が注目を浴びている事に気が付いて謝罪した。
「済まない」
そう言うと男爵は夫人を追って階段を降りていった。
その足取りは力なく、弱々しいものだ。
夫人が亡くなったら、自殺してしまうのではないかとカイルは心配した。
「夫人を怒らないんですか。カイルを抱きしめたのに」
レナはこの騒動の中でも大人しくしていたクレアに話しかける。
弟であるカイルが大好きで、私の夫宣言をしたカイルの姉である。余所の女性がカイルに抱きついているのに平然としているのが不思議だった。下手をすればファイヤーボールでバルカンごと灰にしかねない。
「いいのよ。カイルの味方になってくれる人は。私が怒るのはカイルに下心のある色魔を追い払っているだけだから」
「さようですか」
確かに、人妻であり、夫婦の仲のよろしいグレシャム夫人は大胆な行動を取りこそするものの、本質的に安全とみて良いだろう。
「だから、ミス・タウンゼント。貴方は直ぐに下船してね」
「私はバルカンの一等海尉です」
クレアの言葉をレナは拒絶した。
「夫を惑わすなら、容赦しないわよ」
「発情を抑えろ、淫獣」
「二人とも、お客さんを乗せているんだから、喧嘩はしないでね」
カイルは溜息を吐きつつ、二人をたしなめた。
今後も二人の口論が続くのかと思うと、カイルの気は重い。




