グレシャム男爵
「グレシャム男爵をですか?」
「そうだ」
カイルが確認の為に尋ねたところ、サクリング提督は即座に頷いた。
グレシャム男爵は、チャールズタウン近くに領地を持つ貴族だ。
先祖は大貴族の子息だが、三男だったためニューアルビオンへ入植し、自ら開墾して領地作り上げ、爵位を得たという先祖を持つ家の当主だ。
「しかし、チャールズタウン周辺でも大きな領地を持つ貴族とはいえ、私人の為に艦を出すのはいかがかと」
アルビオン帝国海軍はアルビオンのために存在しており、貴族とはいえ私人のために艦を出す事は憚られる。
一応、民間人が便乗することは許されているが、艦の寄港地と便乗者の目的地が同じだった場合のみに限られる。
一民間人のために艦を出す事は通常では無いことだ。
「本来ならばな。だが現状がそれを許さない」
心苦しいといった表情でサクリングは言う。
カイルもニューアルビオンの現状はよく解っている。
独立派と皇帝派が対立しており、現在の所、グレシャム男爵は中立派だ。
サクリング提督は味方に付けるために便宜を図り、海軍、ひいては帝国本土への印象を良くしようとしている。
出来れば皇帝派になって欲しいが、無理なら中立派に引き留めておきたい。
「今回はその一環だ。それに君はグレシャム男爵からの印象が良い」
「まあ、確かにそうですが」
サクリング提督の言葉にカイルは苦笑した。
以前の新大陸勤務でグレシャム男爵とは面識もある。だが、好印象かと問われると微妙なところだ。何よりカイルも会うのを避けたいと考えてしまう。
「兎に角、グレシャム男爵が独立派へ肩入れする事だけでも避けたい。だからこそ皇帝派の多い南部へ行って貰う」
「なるほど。しかし、それならば皇太子殿下がいらっしゃいます。殿下に謁見してからお連れする方が宜しいのでは?」
有力な貴族であるグレシャム男爵と、皇太子であるウィリアムが会談することは、本国の印象を良くする効果的な方法ではないか、とカイルは暗に仄めかした。
「ただちに保養地に行きたいというのが男爵の望みだ。これに関しては一切、口を出せない。知りたければ君が男爵に尋ねろ。なおこの航海は命令である」
そこまでサクリング提督に言われてしまってはカイルも反対を口に出来ない。
「わかりました。艦の出港準備を進めます」
「宜しく頼む」
正式な辞令を提督から受け取り、カイルは敬礼して司令官室を後にした。
艦長の経験はいくらかあるため、新しい艦の乗員を集めるのに時間は掛からなかった。
今回の艦、バルカンは二二門の大砲を積んだ、三本マストのバーク形艤装、前二本が横帆で後ろが縦帆の艦だ。
全長 二一〇フィート 六一メートル
幅 三七フィート六インチ 一一メートル
吃水 一五フィート九インチ 五メートル
乗員 一三五名
フリゲート艦並みの大きさだ。
本来ならより多くの大砲を搭載することが出来るのだが、二四門より上は軍艦として扱われるため、海佐でなければ指揮できない。そのためサクリング提督はあえて大砲搭載数を抑え、級外艦にしてカイルに与えた。
砲戦能力は落ちるが大砲の数が少ない分、身軽で動かしやすいのでカイルは気に入っていた。
艦長一人で船を動かす事は出来る訳がないので、乗員が多数必要なのだが、多くの艦長はここで躓く事が多い。人が足りず戦闘どころか出港もままならないことがある。
だが幸いにもカイルには信頼できる仲間がおり、問題はなかった。
海尉で同階級ではあるが、昔から一緒のレナとエドモントがやって来てくれたため、カイル一人で全ての当直に立つという事態は避けられた。
下士官は熟練のマイルズや、癖のあるステファンなど腕の良い知り合いが何も言わず引き受けてくれた。
若干、人数は不足だったがサクリング提督が自らの旗艦レナウンから何人か割いてくれた。
軍医が欲しいところだが、人材が居なかった。
海軍認定の腕の良い軍医は稀少で引く手あまただし、外科の医師免許を持っている人間はレアキャラだ。
ましてや新大陸は医者の数が少ない。
人材がいない以上は仕方なく諦めるしかない。
主計長が居ないのも問題だった。そのため計算に強いエドモントに兼任して貰うことにした。
海兵隊の派遣も無いため、レナに白兵戦の指揮官を兼任して貰っている。
司令部との交渉に関しては、姉のクレアを艦の魔術師兼書記に任命して任せた。
色々と奇行の多い姉ではあるが、優秀なことは折り紙付きだ。艦内の事務など簡単にこなしてしまう。
ウィルマに関しては観測航海で見せた計算能力と、教え込んだ航海技術を見込んで航海補佐にしている。補佐とはいえ、彼女に実務を全て任せても大丈夫だ。
見た目は十歳程の少女なのに、何処にそんな計算能力があるのだろうか。
転生前のカイルでさえ商船高校に入ってようやく三角関数をマスターした。小学生ぐらいのウィルマはどうして出来るのだろうか。
「ミスタ・クロフォードの教えが良いからです」
カイルがウィルマに尋ねたところ、無表情に答えを返してきた。
追従なのか本音なのかはカイルには判断できなかったが、彼女の言う通り、教え方が良かったとカイルは思う事にした。
「失礼します艦長」
艦長室で航海計画を確認していると、掌帆長――水兵の纏め役であり最先任の下士官に任命したマイルズが入室してきた。
「グレシャム男爵が夫人と共に乗艦されます」
埠頭に送ったボートがゲストを伴って帰ってきた旨をマイルズは報告した。
「わかった。甲板に引き上げて差し上げろ」
「アイアイ・サー」
直ぐにカイルも上着を着て、鏡で制服に乱れが無いことを確認し、艦長室を出て甲板に上がった。
甲板では既に滑車とロープを使って水兵達がゲストである男爵を引き上げていた。
通常ならタラップか縄ばしごで上がってくるのだが、慣れない者には無理だ。特に波で揺れている時は梯子に飛び移るだけでも大変だ。
まして泳げない人々が大半の世界、乗員の大半も泳げないのでは無理も無い。
そのため、ゲストは滑車とロープを使って引き上げる。
ゲストとなる人物は無事に甲板に降り立った。
「ありがとうミスタ・クロフォード」
動揺もせずに答えたのはグレシャム男爵その人だ。
四〇代半ばの人物で、少々、神経質な顔つきをしている。
「乗艦を歓迎します」
カイルが敬礼をして迎えたが、グレシャム男爵は返事もせず直ぐに身を翻して舷側から身を乗り出して下を見る。
失礼な態度に乗員達は驚き、ウィルマは怒りのあまり手を上げて男爵を叩こうとしたが、すかさずカイルが止める。
「失礼ですがグレシャム男爵。幾ら貴族でもそのような態度は」
代わりに脇にいたレナがグレシャム男爵をたしなめようと口を開いた。
「いいんだ」
だがカイルはレナを止めた。
「しかし艦長」
「しょうが無いよ。心配なんだから」
「慎重に上げろよ! 絶対に海に落とすな! もっとユックリ上げろ!」
作業中の下士官を差し置いてグレシャム男爵の怒声が上がる。
マイルズが一瞬カイルを見るが、カイルは好きなようにさせろと目線で答える。
「ユックリ上げろ!」
男爵の要望に応えて、マイルズは作業中の水兵に命じる。
ほとほと嫌になったような顔をして、水兵達は徐々にもう一人のゲストを引き上げた。彼等が不満は顔を見れば分かるが、何故男爵が神経質になるのかも直ぐに判った。
引き上げられてきたのは、端正な顔立ちに豪奢なブロンドの髪を持つ女性だった。
白バラの大輪を思わせるような色白の女性で、レナより年上だが、若々しくエネルギッシュな女性だ。
「そんなに怒鳴らなくても。大丈夫よ」
怒鳴っている男爵を女性は軽くたしなめる。
「君が心配なんだよメアリー」
「ありがとう貴方」
女性の名前はメアリー・グレシャム。まだ二〇歳の若い女性であり、グレシャム男爵の妻である。ちなみに二人とも初婚である。
数年前に結婚したばかりで、残念ながら子供はいない。
端から見たら父親と娘に見えてしまう。
ちなみに男爵はロリコンではない。メアリーは成熟した女性である。
年を取ってから結婚したため、年の離れた若い妻に男爵が過保護なだけだ。
「おい! 気を抜くな!」
男爵が過保護になるほど美人だという事は、夫人をみた水兵達が色香に呆けて力を緩めたことからも明らかだ。
今回の男爵の叱咤で水兵達は我に返り作業を再開。無事に夫人を甲板に下ろした。
「大丈夫かメアリー」
「大丈夫よ貴方」
甲板に降り立った夫人を男爵は周囲の目も憚らず抱きしめる。少し大柄な女性だが、腰をコルセットでくびれた夫人の身体が折れないかと心配になる程に細い。
熱々の抱擁を見せつけられて周りの方が恥ずかしくなり、皆が目を逸らした。
「あら」
二人の抱擁は、夫人がカイルを見つけてようやく終わった。
「カイルちゃーん!」
夫の抱擁から離れた夫人はカイルの元に向かって突進し、そして抱きついた。




