ヒラリー医師
開闢歴二五九四年八月二一日 チャールズタウン海軍工廠
「ご紹介して頂けるる医師とは彼女ですか?」
「そうだ。ヒラリー・サマービル。帝都で医学を修めた才女だ」
カイルが尋ねると、バンクス氏は馬車から降りてきた彼女を紹介した。
「初めまして、ヒラリー・サマービルです。宜しくお願いします」
ウフッと笑う彼女を見て乗員達は大はしゃぎした。だが、視線を向けられたカイルの背筋には電撃が走った。
恋のに落ちたのではない。本能的な危機を察知したからだ。
彼女の笑いは女性の可愛らしい笑いではなく、猛禽類が獲物を見つけたときに浮かべる笑いと同類だった。
「と、ともかく面談を行おうと思います。医師の資格はお持ちですね」
「ゼンメルワイス医師の元で学び、帝都で免許を得ました」
「じゃあ、私の兄弟子ですかね」
カイルは帝都に居た頃、ゼンメルワイス医師から医学を学んでいた。信頼の置ける人物で知識も豊かだ。弟子には優秀な人も多いが、こ見込んだ弟子にしか免許を渡す事は無かった。
その分信頼できるが、弟子の中に風変わりな人物が多いのも事実だ。
「艦長も、研究室におられたのですか」
「はい。聴講生のような身分で。それでもし軍医として採用されたとして、艦内でどのような事を行いますか?」
「まずは病気の予防と治療だな。特に消毒を徹底しようと思う。煮沸とアルコール消毒がメインだ。煮沸が一番簡単だが水が手に入りにくいし、海が荒れるとお湯も沸かせないだろう。ならば予めアルコールを造っておいて使う方が良い。それでも病気に罹ってしまった者には勿論治療だ」
「消毒に関しての意見は何かありますか? 自然発生説などどうでしょう?」
「自然発生説は支持していない。白鳥の首は知っているか?」
「勿論です。微生物の増殖説を証明するためのものです」
自然発生説とは、どんなに密封した容器に食品を入れても微生物が増えて腐ってしまう。このことから微生物は空気から自然に生まれるという考え方だ。
「しかし、熱湯で殺菌してガラス玉に入れ、密封した肉は腐りませんでした」
「ああ、だが新鮮な空気との接触が無かったから増えなかったと反論されたな」
現代日本から見ればナンセンスな考え方だが、微生物の知識がないアルビオンではどのように発生するか証明されるのはまだ先だ。今はまだ仮説と実験の段階である。
「そのための実験として白鳥の首を使った。肉を入れた後入り口をペストマスクのように長い吸気管にして微生物をガラスの壁に付着させて肉には触れられないようにする。一方、空気は自由に移動できる。実験の結果、新鮮な空気に触れているにも関わらず、肉は腐らなかった。微生物説の有力な証拠だ。私は殺菌さえすれば病原菌も抑えられると信じている」
実験は成功したが世間に認められるには時間が掛かる。実用化にも時間は掛かる。
しかし、このヒラリー医師は最先端の研究結果を取り入れようとしている。
カイルとしては願っても無い事だ。
(まてよ。だが医師としての腕はどうだ。この程度なら論文を読んでいれば口からなんとでも言える)
転生前の受験塾で、やたらと口の上手いオーナー講師の言葉を呑みにした母親に入塾させられたが、テキストの説明を繰り返すだけで全く指導力が無く、質問しても「自分で考えろ馬鹿」と言った講師を名乗る詐欺師をカイルは思いだした。
言葉だけで信じるのは危険だ。
何か裏付ける方法は無いかと考えていると、艦の方から大きな音がした。
「何が起きた!」
「転落事故です! 作業員が足場から転落して下の廃材置き場に落下、破片が突き刺さりました」
次の瞬間、ヒラリーは自分の鞄を取り出すと飛び出していった。
そしえ破片の突き刺さった作業員を見て破片に手をかざした。
「刺さった破片は脈を打っていないから動脈は避けているわね。このまま摘出する。お湯を沸かしてきて」
周りに指示をすると、自らはカバンに入っていた小瓶からアルコールを出して自らの手と、作業員の傷口を消毒する。
さらにメスを取り出して同じように消毒する。
「患者を押さえて。猿ぐつわも」
屈強な水兵に命じて患者の四肢を押さえさせると消毒済みのメスを傷口に入れる。
「!!!」
作業員は激痛で叫ぼうとするが猿ぐつわのためにうめき声しか出ない。外してやりたいが、舌を噛み切る恐れがあるためで外す訳にもいかない。
そしてヒラリーは素早く傷口を切って広げると破片を取り出した。
「焼きごてを」
造船所で使われている焼きごてを使って、傷口周囲の毛細血管を止血。身体内部を純粋と綿で洗浄すると傷口の縫合。無事に手術は終了した。
「あとは経過観察ですね。破傷風にならなければ良いのですが」
「ええ、そうですね。病院に入れるよう手配します」
「宜しくお願いします。それと改めまして本艦の軍医をお願いします」
「ありがとうございます」
開闢歴二五九四年八月二三日 チャールズタウン海軍工廠
ヒラリーの手術の腕前を見せつけられたカイルは直ぐに採用を決めた。
しかし、彼女が見せた猛禽類のような笑みが気になる。
採用か否かを賭けていたステファン達は大いに盛り上がった。掛け金を擦った者も美人の軍医が乗艦したことを喜んでおり、この点は良かったと思う。
しかし、カイルの嫌な予感だけは頭の隅にこびり付いて離れない。
それでも事故後も艤装作業は進み、ユニティーは無事に就役しすることが出来た。
「これでようやく出撃出来るな。補給が大変だ」
補給廠と搭載する食料、水の手続きを行っているエドモンドが愚痴っている。
だが愚痴っているわりに笑顔だ。自分の能力、実家である紡績工場で培った計算能力と事務処理能力を遺憾なく発揮できることが嬉しいらしい。
それでも、カイルは意を決して伝えた。
「エドモンド、済まないけど、ユニティへの補給が終わったら他の艦へ移ってくれないか?」
「面倒な仕事を押し付けた後、ほっぽり出すのか」
「いや、説明不足で済まない。今回は長期間の作戦になるし、実は小規模な上陸作戦も検討している。海兵隊だけでは手が足りないからベンネビス歩兵連隊も出すことになった。そのためユニティーとは別に補給艦を仕立てて向かうことになる。そのうちの一隻をエドモントに任せたい」
「……艦長という事か?」
「ああ、補給艦だが立派な艦長だよ。目的地までは船団航行をするが、大丈夫だろう」
「有り難い。出世だ。でもレナは良いのか」
「まだ航海を任せるのは不安だ。それに陸上戦闘の方が彼女には性に合っている。手元に置いておくよ」
「梃子摺るんじゃないのか?」
「物資が足りないと文句を言われるよりマシだ」
「わかった。十分な物資を積み込んで向かうよ」
「ありがとう」
エドモントを送り出すと、入れ替わりにヒラリーが乗艦してきた。
「乗艦を歓迎します。宜しくお願いします」
「こちらこそ」
獲物を探す目つきでヒラリーは周りを見ている。
女性が乗艦するのを見て、乗員達は声に出して喜んだため、マイルズに叱責される。
「では、医務室にご案内します」
「ありがとうございます。それと助手の件に関してはどうなりましたか?」
「はい、要望通り六人を手配しました。その内四人は屈強な水兵です」
衛生兵は並みの兵隊以上に腕力がなければ務まらない。
負傷して暴れ回る兵士を押さえつけるのが彼等の役目であるためだ。
勿論、雑用などの任務もあるが、緊急時に求められていることは患者を手術台の上に載せて取り押さえることだ。麻酔も無いために、手術中患者は激痛の連続で暴れることが普通だ。
手術台に乗せてロープで縛ることもあるが、手早い作業の為にロープで縛る手間を惜しむ時は衛生兵が手足を押さえる。
「ありがとうございます。荷物の方は?」
「すでに医務室に運び込んであります。こちらです」
カイルは自ら下甲板に設けた医務室に連れて行った。
喫水線近くで太陽光の入らない薄暗い場所だが、揺れが小さい上に被弾の危険が少ない場所だ。
カイルとしても自分以上に貴重な人材を失う訳にはいかないため、出来る限りの配慮していた。
「荷物は全て運び込みました。また、要望されたものは出来る限り揃えております」
カイルが伝えると、ヒラリーは並べられた荷物を一つ一つ丁寧に見る。
「完璧です。ありがとうございます。これで研究が捗ります」
「は、はい」
物騒な響きを伴った単語にカイルは冷や汗が出た。
「ああ、艦長。このあと乗員の健康診断を行いたいのですが、ご許可を頂けますか?」
「勿論です」
「ありがとうございます」
許可を得てニコリと笑うヒラリー。カイルには、その瞳が獲物を見つけた猛禽類の目に見えた。
司令部やエドモント達補給部隊との打ち合わせのため、カイルは出航前に上陸し、副長であるレナが指揮を執った。
その間にヒラリーによる健康診断が行われる事になった。
「手空きの者は上甲板に集合せよ!」
レナが号令を掛けて当直以外の全乗員を集める。
全員が集合したところでヒラリーが助手を率いて上甲板に上がってくる。
レナはこのヒラリーがどうも気に入らない。カイルのお気に入りとなっている事に苛立っているという乗員の噂も耳に入っており余計に不機嫌だ。
だが、健康診断はカイルが許可したことであり、実行しなければならない。
整列した乗員をヒラリーは一見して笑いながら言う。
「うふっ、患者がいそうね」
そして大声で彼等に指示を出した。
「全員ズボンを脱ぎなさい」




