昇進
開闢歴二五九三年一二月二三日 ポート・インペリアル鎮守府 司令部前
雪が降りそうな鉛色の空模様の中、アルビオン帝国海軍観測艦ディスカバリー艦長カイル・クロフォード海尉は、司令部の前で待っていた。
ディスカバリーの海尉として乗り込んだが艦長が航行中事故死したため、副長だったカイルが艦長代理に就任。任務であった惑星ヴィーナスの太陽面通過の観測を成功させ先日無事に帰国。最年少の海尉艦長に就任したが、人々を何よりも驚かせるのは、カイルの耳から突き出た尖った耳、エルフだという事だ。
古の暗黒時代、種族を超えて激しく争った。中でもエルフと人間の戦いは激しく、人間が勝利して世界の覇権を握った今でも恐怖として騙りつがえている。
しかし、エルフと人間が争う前の平穏な時代に交流していた名残で時折隔世遺伝で人間の間にエルフが生まれてくることがある。
カイルは稀に生まれてきたエルフだった。
普通ならエルフを産んだことは不名誉であり、生まれた瞬間に死産として殺されることもある。しかしカイルの両親はカイルを殺さず、慈しんで育て海軍に入れてくれた。
ただエルフといっても、精霊魔法は殆ど使えず、精々風や波の動きを見たり、声を変えたり遠くに届けたりする程度だ。
それでも風と波を読む能力は帆で走る操艦に有用で、海軍に入隊した後、カイルが次々と昇進し若くして艦長に任じられた理由だった。
だがエルフ以上にカイルを有能な海軍士官たらしめたのは転生前の記憶、大手海運会社の航海士、杉浦航平の記憶によるものだ。
中学時代、虐めに遭った航平は地元高校への進学をやめて商船高校へ進学。
そこで航海術を学び卒業すると商船会社に入り、以降タンカーや貨物船の航海士として世界中を回った。
ただ二等航海士になる前に元いじめっ子に逆恨みされてナイフで刺し殺され、カイル・クロフォードに転生した。
転生後も航平としての記憶は残っていた。そのため商船高校での授業と航海士として勤務した経験から船を操ることには長けている。
特に航海訓練所へ行ったとき実習帆船に乗り込んだ経験は非常に良く役に立った。
帆船しかないアルビオン海軍では帆船を操れるかどうかで大きな差が出てくる。
海軍入隊後、カイルは航平として生きていたときの経験を大いに使って昇進。最年少で艦長に就任できた。
幾度かの実戦でも冷静に行動し武勲を建てたこともあり、有能な士官という評価を受けている。
しかし、今カイルは非常に緊張していた。
普段なら気後れすることなく司令部に入るのだが、今日は不安で一杯で中には入れず、緊張して建物の前で人を待っていた。
その時、二人の士官が下りてきた。
カイルより少し身長の高い男女。
一人はエドモント・ホーキング。カイルが入隊したとき同じ艦での先輩候補生だった。その時から何かと一緒であり、カイルが海尉に昇進した後も変わらず付き合っている。
もう一人は長身に赤髪が印象的な女性士官、レナ・タウンゼントだった。
カイルと同期で入隊して、それ以来カイルとずっと一緒の腐れ縁の仲だ。
なかなか付き合いが良い二人で、カイルが観測航海に出て行くときも一緒に来てくれた。
今ではディスカバリーで二人とも海尉心得としてカイルを支えている。
その二人がカイルの元にやって来た。
「……どうだった?」
カイルは恐る恐る尋ねた。
「合格よ。海尉に昇進できたわ」
嬉しそうにレナが答えた。
士官候補生から正式な海尉に任官するには、所属艦の艦長から海尉心得に任命され、更に鎮守府司令部が主催する公開口頭試験に合格しなければならない。
今日はその公開口頭試験の実施日であり、二人は試験を受けていた。
観測航海で有名になったことで、特進の可能性もあった。だが二人はあえて一般の試験を受けることを志願した。帝都での観測航海関連イベントを終えると、すぐさま所属するポート・インペリアル鎮守府に戻り試験に挑んだ。
試験で下手な回答をすれば、特進も消えてしまうが、それでも彼等二人は正規ルートで士官になりたかった。
若さ故の純粋さでもあるが、直向きに、必死に、二人は勉強を続けてこの日を迎えた。
そして、見事に合格した。
「これで晴れて正式な海尉よ」
「……」
レナが嬉しそうに行っていたがカイルは黙ったままだった。不審に思ったレナが尋ねる。
「どうしたの?」
「……信じられない。レナが合格できるなんて」
「言うに事欠いてそれか」
失礼なことを言うカイルの頭をレナは叩いた。
「そもそも受験を認めたのは貴方でしょう」
昇進試験の受験資格は、海尉心得である事、そして艦長の許可を得ることだ。
二人はディスカバリー艦長であるカイルの許可を得て昇進試験を受けていた。
合格者を出せば艦長の評価も上がるのだが、失敗すれば下がってしまう。そのため艦長はこれぞと見込んだ海尉心得にしか試験を許可しない。
「試しに受ける位の実力はあったからね」
レナは陸軍の将軍の娘だ。剣の実力は高く、指揮統率力にも優れており、斬り込みや陸上戦闘が得意だ。白兵戦や近接戦闘に関しては、カイルはレナに任せている。
ところが船の事、航海術や操艦になると全くの素人だ。
海軍ではなく、陸軍あるいは海兵隊へ入るべきだとカイルは常々言っていたが、レナは聞く耳を持たない。
仕方なくカイルはレナを数少ない士官の一人として教育するしかなかった。
当直に立たせて、全艦の指揮を執れるようにするしかなかった。
艦長が艦の最高責任者だが、二十四時間常に艦の指揮を執る訳がない。必要な時、入出港の時か緊急時、あるいは戦闘時以外は指揮を執らないことが基本だ。
四六時中当直に立てば、当然、過労となり緊急時に疲れてまともな指揮が出来ない。
何より艦長自ら出て来なければならない程、艦の状況や状態が悪いという事になる。
『何も船長、何も艦長』という言葉があるが、自分で指揮を執る必要が無いくらい乗員がしっかりとしている船、艦という意味であり、船長若しくは艦長が出て来なくても事が上手くいているのは船長が乗組員を良く纏めている証拠だ。
だからレナが一人で当直に立てるように、カイルは必死に教えてきた。
操艦、航海術、天測。レナと一緒に当直に立って、付きっきりで士官に必要な知識を教えた。
その甲斐あって、帰国時には何とかカイルが合格点を与えられるレベルに達した。
「あんたのレベルが高すぎるのよ。どんなレベルを要求するのよ」
実際、この世界にはカイルの要求水準は高過ぎる。それゆえレナは手古摺る。それを見たカイルはレナを低く見てしまう。
商船高専を出て、大手船会社に入り、航海士として勤務した記憶のあるカイルから見れば、レナの水準は低い。
この世界の航海技術が大航海時代と同じレベルのため、カイルがレナに要求するレベルは過剰な程だ。
位置確定のための三角関数を含む数学はともかく、気象学に海洋学など、この世界でようやく学問として成立しつつある状況で、一般人は知らないことだらけだ。
それを覚えろと言うのだからカイルの方が無茶を言っている。
「けど、お陰で楽に合格できたわ」
「試験官の水準が低くて良かったね」
「上官に対して辛辣ね。って私の事をさりげに悪く言っていない?」
そう言ってレナはカイルの頭を自分の左手で胸に引き寄せて固定し、右の拳でこめかみをグリグリ擦りつける。
「いてててて。艦長に対して酷くないか?」
「あんたが失礼な事を言うからでしょう。あなたが教えてくれたことを発揮できるように頑張ったんだから」
レナは少し顔を赤らめながら呟く。
「……ここは異世界? レナが素直になるなんて信じられない」
「五月蠅い。少しは自分の部下のことを信じろ。エロガキ艦長」
「上官への暴行と暴言は軍法会議ものだよ。けど、実はもうすぐ艦長職を解任されるんだ」
「え? どういうこと?」
「ディスカバリーの艦長はミスタ・ウォリスが僕の後任となって、彼の元で新たな探索航海に出る事になった。これからは探索技能に優れた人材の方が良いという海軍省の判断だ」
「航海技術が卓越しているのに?」
カイルの知識は現代日本の海洋知識が元になっている。この世界は元いた世界によく似ており、局地的な違いはあるものの、基本は同じだ。
そのため、アルビオンの反対側の海でも、カイルは十分に波風を予測して航行する事が出来た。
「ミスタ・ウォリスの方が現地に詳しい。それに諸国との交渉に波風が立つことがないからだ」
現在アルビオン周辺のエウロパ諸国は先を争って海外へ進出し、各地を植民地化している。
世界各地に港が出来ているが、港の使用には当局者の許可がいる。
エルフであるカイルではエルフを恐れるエウロパ諸国の人々に悪い印象しか与えない。
しかも観測航海の折には、あちこちの港で武力衝突を含む不幸な事件が起こったためにカイルの名前は悪名として高くなりつつある。
「だから、解任。別の部署に異動しろだって」
まあまあ世界各地に知り合いがいて、そこそこ有名で悪印象の少ないウォリスが後任艦長として白羽の矢が立った訳だ。
「私たちはどうなるの?」
カイルが異動すると聞いて、レナはカイルと離れる事に不安を覚えた。
「ああ、実は二人にも転属の話が来ているんだ。そのことで海軍本部に行くんだけど、一緒に来る?」
カイルは二人に尋ねた。
「来て欲しいの?」
「……そう言ったつもりなんだけど。何しろ、その部署は結構大変らしくて、本国から士官を集めているそうだよ」
「なら、行かないとね」
レナは喜んで付いていくと宣言する。
「勿論、俺も良いよな」
「エドモンドも歓迎だよ」
こうして三人は一緒に海軍本部に向かうことになった。