ごめんね、ぴー助。
ぴー助、というのは、生まれて数日の仔猫の名前です。
頭部と背中が灰色、少し縞が入っているのかな。お腹は白色の小さな、飼い主バカですがかわいい子です。
先日、2016年7月9日(土)に、仔猫を保護しました。
諸事情や背景は省きますが、見つけた旦那氏によると、母猫から育児放棄をされた子でした。
生まれたのは7/7頃。へその緒がまだついていました。
母猫が育児放棄をするのにはそれなりの理由があるのだと考えています。
だからその子のことを旦那氏から聞いても、これまでに聞いてきた他の仔猫たちのように、自然の淘汰を待つ運命なのだとして、「そっか……」とそれ以上考えないようにしました。
けれど、なのに、何故かどうしても気になってしまう。
もしかすると、わたしの心が体調不良だったせいでいつも以上にいろんなことに過敏になっていたせいかもしれません。
雨が降っていました。
梅雨の時期とはいえ、肌寒い。
あの子は、どうしているだろう。
様子を見に行きたいと旦那氏に頼むと、旦那氏もやはり気になっていたのか了承をしてくれ、ふたりで仔猫がいる場所に向かいました。
雨を避け段ボール箱に避難させていた仔猫のすぐそばには、期待していた母猫の姿はなく、カラスがいました。
真っ黒で大きなくちばしを光らせて、仔猫に近付こうとするわたしたちにカァカァと鳴いてきます。
カラスのくちばしが恐ろしいと感じたのは、初めてでした。
命と命がぶつかり合っているのだ、と。
この子は育児放棄をされたのだ。長くは生きられない。すぐに死んでしまうだろう仔猫だ。
頭では判ってる。
けれど、生きながらカラスに喰われて命を奪われるのを、この場にいて、受け入れることはどうしてもできなかった。
旦那氏も、頷いてくれた。
あとどれだけ生きられるかは神のみぞ知る。
思い上がったことかもしれない。おこがましいことかもしれない。偽善だとも独り善がりだとも判っている。
けれど、わたしたちは、この仔猫に選択肢をせめて示したかった。
喰われる苦しみの中で、命を消して欲しくなかった。
そっと取り上げると、手のひらに収まるだけの小ささ。とても軽く、冷たい。けれど、小さく鳴いた。
生きている。
すぐにペットショップに向かい、生後1日目からのミルクや授乳のためのシリンジなどを買い、体温が低かったからカイロも買った。
仔猫の授乳なんてしたことがない。
ネットで調べて、仰向けにならないよう注意をしながら、おっかなびっくりでミルクをあげる。
―――飲まない……?
飲もうとしてくれない。
もちろん、わたしのミルクのあげ方が下手すぎるのもあるのでしょうが、それ以上に、興味を示してくれない。
ミルクの温度が低いのだろうか、仔猫本人の体温が低すぎるのか。
いろいろと対策をしても、―――飲んでくれない。
ミルクを舌に載せても、飲み込まない。
その子は、ミルクを飲む、ということ自体を知らないようでした。
ミルクを飲もうともせず、体温もなかなか上がらない。
どんどん弱っていく仔猫。
動物病院に駆け込みました。
そこでも、先生からミルクをもらうも飲み込もうとしない。シリンジの先に吸いつく様子もない。
ミルクを飲もうとしない。それは、決定的な光景でした。
旦那氏もわたしも、おそらくは動物病院の先生も皆、この瞬間、この子は長く生きられないと確信しました。
体重は70g。絶望的な数字。
この子は生を手放しているのだ。
判ってはいても、僅かな道があるのならば、それに縋りたい。
わたしたちはその子に『ぴー助』と名をつけ、先生に教えられたように授乳をします。けれど、やはりほとんどをこぼしてしまう。
何度かそれを続けるうち、たった一度だけですが、確かに喉を動かして数滴ぶんですが飲んでくれたのです。
ああ、これでぴー助に道が開けた。
生き抜けたぴー助には里親さんを探さなくては。それとも、6匹目としてうちで飼う? そんな話も旦那氏との間に出てきました。
保護した翌日の夜。
ぴー助は、カイロで暖かいはずの場所ではなく、寝床にしていたキャリーバッグの隅でぴぃぴぃ鳴いてました。
ぴー助が鳴いたのは数えるほどしかない。
いま鳴いているということは、それだけ体力がついてきたということだ。
授乳の前に排尿と排便をさせる。
排尿は、前日に動物病院で栄養剤を注射してもらったから、ミルクはほとんど飲んでないにしてもそれが排出されているのだろうと考えました。
排便は、二度目の授乳時と動物病院でもして、先生から「胎便だねえ」と言われたのですが、それから時間が経っているこのときの排便に、そういうものなのかもしれないのですが、「どうして胎便が出るんだろう?」と、素人ながらに疑念を抱きました。
疑念をうっすらと感じながらも、それでも少しずつぴー助は元気になってきているのだと信じ込み、ミルクをあげました。
もっともっと元気になれ。
もっともっと大きくなれ。
わたしは、気が急いていた。
数滴ミルクを飲んだだろうか。
これだけ飲めただけでも充分だと授乳をそこでやめ、わたしはぴー助のミルクで濡れた口元を拭い、マッサージをし、体重をはかることにした。
―――71g。
少ない。全然増えていない。前回の計測は75gだったから、むしろ減っている。
大丈夫だろうか。
そのとき、遅れて部屋に入ってきた旦那氏が、
「―――ねえ。ぴー助、動いてないんじゃない?」
と言った。
まさかと思って手のひらに乗せたままのぴー助を見る。
動いて、ない。
「ぴー助!」
触っても、名前を呼んでも、反応をしない。
身体が冷えている。
動物病院で教えてもらったように、温度を調節したお湯にお風呂のように浸からせる。
反応をしない。
動物病院で見せたような、嫌がる様子がない。
「ぴー助!」
ただぶらりとお湯に揺られるだけのぴー助。
お湯から引き上げ、タオルに包んでドライヤーで乾かしながら、急いでマッサージをする。
仔猫の心臓マッサージの方法なんて知らない。人工呼吸は、素人の人間がしてしまうと肺が破れてしまうのでは? なにをどうすればいいのか判らない。とにかく、身体をゆく血の流れをイメージして、力を込めすぎないように、けれどなにかの刺激になるようにとマッサージを続けた。
「ぴー助! ぴー助!」
頭では判っていた。
ぴー助は逝ってしまったのだと判っていた。
でも、マッサージの手を緩めることができない。
できなかった。
ぴー助は、わたしの手のひらの中で命を手放していました。
生まれてまだ、たった数日。
へその緒をつけたままで。
猫の顔にもなれず、痩せ細ったネズミの姿で。
びっくりするほど本当にあっけなく、すとんと時間が絶ち切られたように、ぴー助は逝ってしまった。
わたしが、少しだけ無理にミルクを飲ませた直後に。
ぴー助の拍動を手のひらに感じ、本当に生き延びられるのかもと希望を抱いた瞬間に、でした。
なにより愚かしいのは、ぴー助が命を手放したその『時』を、わたしは旦那氏に指摘されるまで気付きもしなかった。
ミルクは無理やりではいけないよ。少しずつ根気よくあげるんだよと先生から言われていたのに、飲んで欲しいという思いが先走って、ぴー助のタイミングを、気持ちを無視してしまった。
ぴー助は、むせることも咳き込むこともできなかったんだろう。ただ、顔をそむけることで精いっぱいの意思表示をしていたのに、わたしは気付きもせず、そむけた口にシリンジを押し付け続けていた。
わたしが、ぴー助を殺してしまったのだ。
この事実は、どうあっても変わらない。
動物病院で注射してもらった栄養剤ぶん、保護したときよりは増えた体重。それが、時間を追うごと減っていって、保護したときと変わらない重さになってしまっていた。
頭では判っている。
ぴー助は、ミルクを飲むことができないのだ。だから母猫も諦めてしまったのだ。
母猫からの育児放棄には、意味があるのだ。
生きることとは食べること。
ぴー助は、最初からそれを放棄していた。
でも。
どうしてもっと寄り添えなかったのだろう。
どうして保護して真っ先に動物病院に行かなかったのか。そうすれば、生への道が開かれていたかもしれないのに。
「温めてあげることが大切」と動物病院の先生から言われていたのに、どうしてカイロを入れただけだったんだろう。もっともっと時間が許す限り、手のひらで包んで温め続ければよかったのに。
「授乳は焦らずゆっくりとね」と言われたのに、どうしてわたしは短気に自分の思いを優先してミルクを強引に飲ませてしまったのだろう。
カラスに喰われる苦しみの中で命を終わらせて欲しくないと上から目線で言いながら、わたしこそが、飲みたくもないミルクを無理矢理に飲ませ、苦しい思いを強いさせて死なせてしまった。
『ぴー助はほとんど鳴かなかった』じゃない。ぴー助の鳴き声に、わたしはちっとも気付かなかったのだ。
判っている。
たとえ命を落とす前にまた動物病院に連れて再度栄養を注射してもらうにしても、その場しのぎでしかないのだと判ってはいる。
ここでこの単語を出すのは不謹慎かもしれないが、胃瘻という言葉が頭に浮かんだ。
これで、よかったのだと無理やり自分を言い聞かせた。
延々と栄養剤を毎日注射してもらっても、自分からミルクに対して口を開こうとしないぴー助が生き延びられるとは、どうしても思えなかった。そんな状態のぴー助を、一生支え続けられるのか、と。
頭では、そう感じた。感じようと言い聞かせた。
気持ちは、全然追いつかない。
「ぴー助はそういう運命だった」
「最初から生きられない子だった」
「カラスに食べられることなく生を終わらせることができたのだ」
「しかたがなかった」
「少しでも愛情を受けたのだから、幸せだったと思うよ」
いろんな慰めの言葉が頭に浮かんだ。
これらはきっと、わたしが誰かがペットを亡くしたときに言っただろう言葉だ。
なにも、まったく響かなかった。
頭では、そんなことはもう百も承知しているのだ。いまさらあらためて他者から言われたって、それがなんになる。事実をただ再確認するだけで、大切ななにかをもぎ取られた心には、僅かも届かない。
他人事のような言葉でしかなかった。
泣いているのは、心だ。
苦しくて引き絞られているのは、気持ちだ。
正論を聞かされても、もう頭は既に承知している。それがなに? としか言いようがない。
どんな言葉も、意味をなさなかった。心に僅かも届かなかった。
これまで自分が友人や親たちにかけてきた言葉は、心を上滑りするだけの無意味な記号でしかなかったのだ。
ぴー助が開けた心の穴は、ぴー助でしか埋められない。
正直、自分の父親が死んだとき、これだけのものを感じただろうか。
こんなにも泣いただろうか。
いろんな事情があって、父親のときは泣くことは許されなかったというのもあるけれど、こんなにも漠然とした喪失感を感じていただろうか。
ぴー助が死んだなんて信じられなかった。
大きな衝撃の前に、ひとは段階を経てそれを受け入れてゆくのだと本で読んでいる。
そうか。
うん。
全然、現実のこととは思えない。
これが、第一段階―――拒絶か。
そう自分を分析する自分がいた。
怒り、取引、受容。
いまの自分がどこにいるかは判らない。もしかすると、もう既に受容の段階にいるのかもしれない。
ただ、いまだぴー助と二日間過ごした部屋を片付けられないでいる。
ぴー助の話を最初に聞いたときのままの気持ちでいるべきだったのだろう。
自然の淘汰にまかせ、これまでも何度も聞いた他の仔猫たちのように、なにも感じないようにして、なにも考えないようにして、関わるべきではなかったのだろう。
ぴー助は、本当はあのまま、雨に冷やされた空気の中で、静かに死を迎えていけたのかもしれない。
カラスは生きたまま襲おうとしたのではなく、ただ、近くでその死を待っていただけだったのかもしれない。
わたしが生意気にも助けようとしたことで、緩やかに死へと向かっていた時間をいたずらに引き延ばし、ぬくもりを与えたことで、よけいな苦しみを味わわせてしまったのではないのか。
ぴー助の存在がわたしを引き上げてくれるかもしれないと、一方的な期待と夢を押し付けていたのかもしれない。
ぴー助の世話をすることで悪夢を見なくなるのではないか。連続1時間以上の睡眠がとれるようになるのではないのか。
自分の心の調子が、このまま浮上できるのではないのか。
わたしは、ただ自分に酔っていただけだった。
悔やんでも悔やみきれない。
残された者は悔やむものだと頭では判ってはいるのに、悔やんでしまう。
きっといまは、そういう時期なのだ。
もうひとりのわたしが、やはり分析をする。
ぴー助を失ってどれだけ沈もうとも、先住猫である毛玉sにとっては、いつもと変わらない一日だ。
知らない気配がある。二本足は気もそぞろだ。
ぴー助が生きていたときは、そんな違和感を感じてはいたようだった。
先住猫である彼らには、いつもと変わらないようにと気をつけてはいたけれど、感じるものはあったようだ。
あったようだが、ウチの毛玉sはみんな皮肉にもとにかく食欲大魔人だ。
エサ鉢に顔を突っ込んで一心不乱に貪る様子に、以前なら「ちょっと、もう野良じゃないんだからがっつきすぎだよ!」と文句を言っていたのに、ぴー助のことがあってからは、「食欲があるのはいいことだよねぇ」と感じるようになった。
食への貪欲さ。
だからこそ彼ら先住猫たちは、母猫から育児放棄をされても生き延びることができたのだ。
喧嘩をしたり、一人で勝手に大運動会を始める毛玉もいる。カーテンを食べる毛玉もいる。わたしによじ登ろうと、脚に容赦なく爪を立ててくる毛玉もいる。お尻の穴からんこんこを生やしたままうろちょろする毛玉もいる。
それでも、彼らの顔を見てしまうと、「ぎゃあ~!」と悲鳴をあげるよりも言わずにはいられない。
「猫の顔になれてよかったねえ」
と。
生まれたばかりだったぴー助は、ネズミの顔のままで逝ってしまったから。
ぴー助が逝ってしまってまだ数日。
それでも少しずつ、ウチには日常が戻り始めている。
きっとこのままわたしは、ぴー助のことを忘れていってしまうのだろう。
目が腫れるほど大泣きしても、ぽろぽろと端から砂が崩れ落ちてゆくように、雨粒が砂絵を崩してゆくように、ぴー助のことを、ぴー助がいたという事実自体を忘れていってしまうのだろう。
ぴー助の顔、ぴー助の感触、ぴー助の姿、ぴー助の重さや温もり、名前、それらのすべてが、消えてしまうのだろう。
実際、ぴー助の鳴き声はどんなだったか、もうはっきりとは思い出せない。
毛玉sの声に、はっとすることはあっても、どんな声で鳴いていたのか、自分ひとりではしっかり思い出せない。
ぴー助の鳴き声がすると耳を澄ませることもあるのに、じゃあどんな声が聞こえたのと問われると、判らない。ぴぃぴぃ鳴いていた、のだろう。という当たり障りのない答えしかできない。
なんて薄情なんだろう。
なんて自分勝手なんだろう。
そんな自分勝手なわたしなのに、けれどぴー助はたくさんのものを残してくれた。
生きるということ。
食べるということ。
悲しみは頭ではなく心にあるのだということ。
心に伝わる言葉は、本当に難しいということ。
死ということ。
命が在るということ。
そして、深い絶望と諦め。
わたしはぴー助を苦しませるばかりだったのに、ぴー助は、たくさんのものを与えてくれた。
生きるべきではなかった、生きてはならなかったわたし。
そんなわたしに、たった二日間ではあっても夢を見させてくれたぴー助。
生き延びさせてくれたぴー助。
ごめんね、ぴー助。
なのにきっと、ぴー助との出会いで生まれたこのさまざまな思いや考えも、わたしは忘れていってしまうんだよ。
忘れたくないと強く強く願っても、薄情なわたしは、忘れてしまうんだ。
ごめんね、ぴー助。
ねえ。ほら、聞こえる? お腹が鳴ってる。
愚かなわたしには、無情にも食欲があるみたいだ。
あなたが抱くことのなかった食欲が、情けなくもわたしにはあるみたい。
ぴー助。
ぴー助。ありがとうね。
ぴー助には迷惑でしかなかったかもしれないけど、ぴー助に出会えて、本当によかったって思ってる。
神さまにこの出会いを感謝している。
大好き。
過去形じゃなく、大好きだよぴー助。
ありがとう。
ごめん。ごめんね、ぴー助。
あなたを殺してしまって、ごめんなさい。
ただこれは覚えていて。
ぴー助。あなたは、ひとりじゃないから。
あなたを思うわたしは、確かにここにいたのだと。
わたしがあなたを忘れてしまったら、ぴぃぴぃ鳴いて夢に出てきて。
ううん、忘れてなくてもせめて夢では会いたい。
自分を殺した相手のことなんて、憎らしいだけだよね。恨めしいだけだよね。
それでもいいから。
それでいいから。
ね。ぴー助。
天国では兄弟に会えた?
とんでもない二本足に捕まっちゃって、たいへんだったんだよ~とぼやいてるのかな?
ぴー助。
ぴー助。
ぴー助。
本当に、ありがとう。
そうして、本当に本当にごめんなさい。
わたしを許さなくていい。
だから、お願い。
天国では、どうかどうか幸せになってね。
そうしていつか、いつか、どこかでまた逢えたらいいな。