日陰からの魔手
5 逃亡者から簒奪者へ
彼女は『悪魔』から逃げる為に走っていた。
雪の中を必死にただ我武者羅に、手で宙をかきながら、もがくように逃げていた。
街が見えてきて、彼女は「やった」と心の奥底から喜んだ。
(人がいる…、大勢の人がいる。 そして私を助けてくれる。)
彼女はそう思った、しかし木々の合間を走る彼女に当然誰も気づかない。 真っ白な質素なワンピース、中に綿が入っているそのワンピースだけを纏った彼女は、真っ赤に張れあがり、感覚のない素足で森の木々の中を駆け抜ける。
彼女はあるモノを見つけた瞬間、走ることをやめた。
それを見た瞬間、彼女は『アレ』だと確信した。
遠い昔、彼女がまだ幸せであった頃、それと引き換えに不幸を背負っていたような存在。
昔とまったく同じように『アレ』は立っていた。
(本来ならばそうであるはずがなかったのに、全てにおいて自分が優位に立っていたはずであったのに……!)
心の叫びは自身への嘲笑となり、掠れた笑い声をあげた。ぼぅっと幸せそうに微笑み立っている『アレ』への憎悪へと変わった。
そしてその瞬間、彼女はニヤリと笑った。
(そうだ……、こうしよう……これがいい……)
内心の暗い考えを実行に移そうと決めたとき、彼女の顔には狂気が満ち満ちていた。 やがて追いついてきた『悪魔』に腕をつかまれ、引きずられても、彼女はずっと笑っていた。
(待ってなさい…? 全てをあなたに返してあげる。そして私が全てをあなたから奪ってあげる。 みんなみんな、私をコケにしてきた奴等に復讐してあげる! 今日、復讐の鐘は鳴る!)
この計画は成功する、彼女は暗い笑みを浮かべココットを睨みつけていた。
ココットはしばらくぼぅっとしていたが、体が冷えたために、かろうじて資料館の塔の鐘が見えるカフェに入り、暖かな飲み物を注文した。
しかし資料館を訪れて以来、何も口にはしていなかったが、食べる気力も食欲も萎えていた。
飲み物が来る少し前、資料館の塔の鐘が鳴った。
ココットは首を傾げ、自分の時計を見た。
時刻は午後4:32分…
変わった時間に鳴る鐘だと、ココットはその時気にも止めなかった。
それが危険を知らせる警鐘であることを知らずに。
結局飲み物が冷え切るまでカップと睨めっこをしていたココットは、冷め切った中身を飲み干して再び外に出る。
ココットは外に出て不思議に思った、さっきまでは確実にあった人の往来が今はまったくないからである。
ココットは不気味に感じながらも、ホテルに戻ろうと歩いていると、後ろからザクッザクッと雪を踏む足音が聞こえた。
恐る恐る振り返ると、小柄で柔和な顔をした黒服の修道女が、立っていた。
「あの…私に何か?」
恐々としながら尋ねたココットに、修道女はにっこりと微笑んで言った。
「竜神のご加護を」
その直後、背後に密かに立っていた別の修道女に頭を殴られてココットは昏倒してその場に崩れ落ちた。
彼女は自分の代わりに『檻』に引きずられていく『アレ』を見て、笑った。
彼女にとっての、計画の第一段階は突破したからである。
しかし本当に大変なのは、これからだと言うことを彼女は理解していた。 そしてうまく立ちまわらねば、自分の命の危険すらあるという事も…。 彼女は自分が、ほんのちょっと前まで閉じ込められていた『檻』に戻ってきた。
『悪魔』達数人が掲げるカンテラの明かりが、陰気な狭い室内を照らしている。 その中央には『アレ』がいる。
入ってきた彼女に気づき、『悪魔』の一人が声をかけた。
「随分とゆっくりなお帰りでしたね、シャロット様?
…それにしても、本当にそっくりですよねぇ。すっかり大きくなって…、お陰で事が運べるわ」
シャロット…それは彼女の名前であった。
冷笑とともに呟かれた言葉は、この北部地方に降り積もる雪よりも厚く、冷たい。
「シャロット様、後は頼みますよ?」
『悪魔』こと黒い服の修道女達の中で、厳しい顔で一番年老いた修道女がそう言った。
作業は五分もかからず完了した。
シャロットは着ていたワンピースを脱ぎ、代わって今は『アレ』ことココットの代わりに纏っていた服を、修道女たちが剥ぎ取り、シャロットが今まで着ていた服を着せる。
厚手のズボン、黒い長袖のセーター…。
極めつけは、『アレ』と呼ばれたココットと、良く似た…否、似過ぎているその姿。
腰まで伸びた淡い緑の髪、茶色の瞳、同じような肢体、服のサイズさえもぴったりである。
瓜二つ、もしくは双子かと思えるようなほどにそっくりな二人は、今は服を交換して完全に入れ替わっていた。
「それで、すぐに行くのかい?」
修道女の声に、しゃがみ込んでココットの顔を軽く叩いていたシャロットは振り返らずに忌々しそうに呟く。
「そんなことをしたら怪しまれるわ。 この子を起こして…それからね」
シャロットはさらに強くココットの顔を殴った。
「ううっ…」
ココットが低くうめいて目を瞬かせると、シャロットはココットの眼前に顔を思いっきり近づけた。
「おはよう、目が覚めた?」
ココットは最初、何がなんだかわからず。呆然としていたが、鏡ではないことに気づいて叫んだ。
「こっ…ここはどこっ 何故あなたは私の服を着ているの?」
痛みと混乱で目の前で何が起きているのか理解できてない。
本能的に危機を感じ、無我夢中で暴れ出したココットを、シャロットは馬乗りになって押さえつけ、髪を引っ張る。
「早速だけどあなたの名前は…?」
「嫌だァ、離して、離してよっ」
シャロットはさらに激しく暴れるココットを、殴りつけて痛め続けた。 腹を蹴り上げ、髪を引っ張り上を向かせる。
恨みがましげな視線を蔑むように見下ろして、細い指で首を締め上げる。 苦しげにもがき、手を伸ばそうとするココットを嘲笑うかのように、シャロットは極上の美しい笑みを浮かべていた。
「何の恨みがあって、そこまでするのか」と言いたくなるような暴力を誰も止めない。
ココットはぐったりするまで締められたせいで、何も考えられなくなっているのか、今度は再度問われた名をいとも容易く口にした。
「こ…、ココット…」
ぐったりとしたココットは床でぜいぜいと荒い息をつきながら、シャロットの顔を見た。
「そうココット、私はあなたよ。 あなたはココットではないの。
あたしがココットよ?」
「な……にを、いって……」
弱々しくも、首を振りながらココットは、何か必死過ぎるほどの勢いと懸命さを顔に浮かべ抗議した。
しかし複数の不気味な笑い声と、ココットを否定し続けるシャロットの声に為す術もなく抵抗もできず、再度殴られたせいで頭が朦朧としているらしく、ココットは闇に閉ざされた。