岩窟の秘石
2050年の地球。地球温暖化はもはや温暖化を通り越して、熱帯・砂漠化という段階に入っていた。都市の様相について、貧富の差は度を極め、巨大ビル群が立ち並ぶ中、骨と皮ばかりの、眼光だけはギラつかせた人々がまるで、枯れ枝が繁るがごとく、横たわっていた。電動自動車はそれらの、社会的弱者、見捨てられた人々、棄民たちの無防備な体躯に対して、やいばをあからさまにむき出しにして、棄民たちのやり場のない無力感が都市の風景を曇らせていた。ある都市では、棄民たちの存在が目障りであるという理由から、砂漠化の進行している地へと追いやり、棄民たちを絶望に落とし入れるのであった。力とスピードそして数の論理がすでに21世紀の慣例となっていた。だが、あからさまに、それらの慣例を用いる人はいない。彼らはその論理に腹の中では従いながら、テレビの世界で演じられているような偽善でもって、常に対処するのが慣わしとなっていた。都市の雑踏の中では、人々の頭の中にある、心地よいバーチャルな悦楽とは裏腹に、ただすれ違う人ですら、身体の方は敵同士であり、互いに傲慢さを主張しあうのであった。
19世紀より、工業化を進めていた日本は、もはや2050年には人間を「労働する機械」であると政府は定義するに至った。「働かざる者食うべからず」という、古色蒼然たるこの思想は、政府の財政逼迫と無関係ではなく、どうでもよいからとにかく、どこかの会社で働いて、社会保障制度をできるだけ圧縮したいのが、その狙いであった。人間を「労働する機械」と認定するかぎり、その他の慣例などもそれと連動して、変更を与儀なくされるのであった。その最たるものが「医療」であった。医学とくに西洋医学はもともと、人間の各器官を機械のようにそれぞれ機能に応じて分解して考えることを、前提にしているので、人間を「労働する機械」と考えることは馴染むかにみえた。しかしながら、事態は紛糾した。「医師」という名称は「メカニックマン」と変更され、その他、病名なども全くすべてというほど、変更されたのであった。それでなければ、人間を「労働する機械」と定義し、人々を労働に駆り立てることはできないというのが、政府をコントロールする中枢である官僚組織の言い分なのであった。だが、医師にとって「メカニックマン」という名称は、そのプライドが許さない。看護師は「助手」であり、これも看護師にとっては大きな困惑であった。そのような紛糾が、ほとんど合理的な解決をされないまま、政府の圧力で押し切られた形で、法案は可決されたのであった。
その様子を医師いやメカニックマンとなった山内はテレビで見ていたのであった。山内は、とくに目立ったところのないメカニックマンであった。特別、メカニックマンとしての技術的才能があるわけではない。またとくにメカニックマンとしての使命感に燃えているというわけでもない。ただ生業としてメカニックマンを営んでいるにすぎなかった。しかしながら、山内に限らずどのメカニックマンも頭を痛めていた問題があった。それは、名称が変更されてからは「孤独」と呼ばれている病が最近、猛威を振るっているということであった。山内の務めるクリニックいや名称変更により、働く機械としての人間「修理工場」にはもはや、この「孤独」と呼ばれる病を患っている人間機械が大勢、通いつめているのであった。この「孤独」に侵されていれば、行政が強引に押し進めている強制「労働」というものが不可能になってしまうのであった。その症状として顕著なのは「人間不信ならぬ人間機械不信」であり、またこの「孤独」という病に侵されている人間機械は他者とのコミュニケーションが、ほとんどできないかあるいは過剰にそれを求めるのであった。「孤独」という病に侵されている人々が通う施設は、まるで学校の授業のように、午前と午後の授業のような「プログラム」が組まれており、その施設のスタッフの意向に合わせるかのように、「プログラム」を毎日、患者たちは「孤独」を抱えながら演技していくのであった。「孤独」を抱えた患者は心のうちでは「プログラム」というものがなんのためのものなのかが理解できなかったのであった。しかし彼ら患者いや名称変更されてからは「ポンコツ」と呼ばれる患者たちは互いにコミュニケーションすることができないかあるいは話相手を求めて、ひっきりなしに話続けるのであった。「ポンコツ」とはいささか侮蔑的な響きがあるが、人間を労働するための機械という観点からすればそれは偽善的独裁政府の見解からすれば当を得たものとなる。
今日もまた「孤独」に侵された「ポンコツ」が山内のところへ一人やってきた。この「ポンコツ」はとにかく、一日中、スマートフォンでゲームをやっていないと、居てもたってもいられない、というもので本人には病識がなく、母親がとても普通には見えない、とのことで、「修理工場」へ連れてきたのであった。つまり、一日中ゲームをすることを、彼は自らの職業であると、本人はそう思っているとのことだった。山内は頭を抱えた。彼はやっぱり、「孤独」という病と診断せざるをえなかった。また、ある「ポンコツ」は一日中誰かと携帯電話で話をしていないと、気が済まないという。これも、山内は「孤独」と診断せざるを得なかった。どうして、話相手がいるのに、その「ポンコツ」は「孤独」なのかといえば、話し相手が常に必要であるから、という診断であった。またひどい場合には、テレビやラジオを相手に話している「ポンコツ」たちもいるのであった。あきらかに「孤独」とは他者との関係性が破壊されていることとなる。彼らの場合もまた、労働ができないから、という理由により「ポンコツ」と診断されたのであった。こう見てくると「ポンコツ」とは、ただ単に労働ができないという理由によって「ポンコツ」と診断されているように見える。事実それが、「ポンコツ」診断のガイドラインなのであった。
山内は勤務を終えて、リニアモーターカーに乗り込んだ。そこでも、山内が目にするものは、スマートフォンをおもちゃにゲームやアニメに夢中になっている人々であった。彼らは、一応労働をしているということで、「ポンコツ」を免れている。しかし、彼らとて一歩間違えれば、「ポンコツ」になりうる、いわゆる「ポンコツ」予備軍なのであった。「孤独」が彼らを巣食っていないとは、この車両の風景を見ただけではいえない。大声を出して、友達と仲のよいことを、見ず知らずのあかの他人にアピールしている高校生たちが、その胸の内に「孤独」を病んでいないとはいえない。他者との本当の意味での関係性がこの風景だけでは見えないからである。そう考えると、山内はどこか、この国の力・スピード・数の論理が支配する現実の中で、紙一重の差で「ポンコツ」を免れている彼らの先行きを案じざるをえないのであった。彼らが「ポンコツ」予備軍からいよいよ本格的に「ポンコツ」になったとき彼らは真にこの国、いやこの国の人々が「ポンコツ」に大きな圧力をかけてくるのを思うのである。「ポンコツ」という蔑称がただ単に、偏見・差別という言葉でしか言い表すしかないが、その実態は「ポンコツ」予備軍が想像している以上に、大きい社会的圧力を受けることを山内は「ポンコツ」自身あるいは「ポンコツ」の家族からいやというほど、聞かされているのであった。
帰宅した山内はそうして書斎で、いつもの日課となっている研究論文に目を通すことをまるで、儀式でもあるかのようにおもむろに行うのであった。それは「孤独」についての特効薬についての研究であった。いっかいのメカニックマンとして山内もパソコンを覗き込み、熱心に研究論文を読み漁るのであった。ある研究者は、その「孤独」についての特効薬は「愛」というようなことを言っていた。だが、それが本当に特効薬であるかは、大きな疑問の余地が残されていたのである。というのも、インターネットが日常の情報ツールとなっている昨今、「愛」を「愛欲」と解釈するのが一般化されて、「一寸先は闇ならぬ、一寸先は18禁」の世になっていることが、もう2000年代の常識であったからであった。それが「愛」の定義として定着していた。山内自身は、そのことについて何かが違うという、違和感があった。「愛欲」は他ならぬ、男女の性愛のことであり、それは一時的には満足感を与えることは知られていたが、その後に猛烈な飢餓感を伴い、さらに依存性があることが知られていたからであった。この致命的な副作用は、性犯罪を誘発するということも、すでに2000年代初期より、知られていた。一方ある研究者は、はるか古代の宗教に見られるアガペーというものを、持ち出していた。アガペーは、一方的に相手に自らを与えるという、自己犠牲を伴うものと定義されていた。しかし、物質文明が猛威を振るい利己的に自らの欲望を追求することを是としている2050年において、見せかけの献身やそれを力説する者はあり得ても、本当に自己を犠牲にすることは、皆無に等しいのであった。相も変わらず山内は、同じ個所を何度も、読み直しては、ため息をつくのであった。
山内は深い眠気に誘われた後、ふと気が付いたときには、なんと砂漠のど真ん中に立っていた。山内は何が何だか訳が分からずしばらく立ちあぐねていた。汗がじとじととにじんでいる。そうこうするうち、汗が流滴となって流れる。太陽はギラギラと容赦なく山内を照り付ける。当たりを360度見回した。一面砂漠かと思っていた山内はふと低い丘陵のあたりに、岩窟があるのに気が付いた。涼を求めるつもりで、その岩窟へと、激しく照り付ける太陽を避けるため、急いだのであった。穴に入った山内は穴に逃げ込むと、ほっとしたのであった。いったいなぜ自分がこんな砂漠のど真ん中に来たのか、一向に見当がつかない。山内は穴の出入り口付近でしばらく休んでいたが、奥の方に行ってみたいという好奇心に駆られた。注意深く、のそりのそりと山内は壁伝いに手で確認しながら、奥へと進んでいった。ぼんやりと灯りが見える。そして人影らしいものが、炎の中に揺れている。山内は、ごくりと唾を飲んだ。相手は一人である。その風貌は毛衣を身に着け、腰に皮の帯を締めている。まるで古代イスラエルの預言者のような風貌であった。いったいこんな穴の中一人っきりで何をしているのか。山内は相手の右や左に文字のようなものが書かれている巻き物がたくさん置かれているのに気が付いた。山内はこの対面が何だか、今まで味わったことのない感覚に満ちていることを不思議に思った。山内はしばらく、相手を注意深く観察していたのであるが、自らの身の安全を悟ったので、声をかけた。しかし相手は無言であった。山内はただ沈黙の中に何だか遠い昔のなかにいるような感覚に襲われた。その相手は炎を前に巻き物に文字のようなものを書いていたのであった。そこで山内は目が覚めた。夢であった。
山内の務める「修理工場」は、午前9時からが修理の開始時刻なのであったが、もう7時から来て並んでいる「ポンコツ」たちがところせましと横たわっていた。重い「孤独」を患う「ポンコツ」たちは立っているだけでも、疲れてしまう。座席に座れた「ポンコツ」は、まだ幸運であった。たとえ「ポンコツ」であっても、力・スピード・数の論理からは逃れられない。「孤独」を患った者同士でも、席の奪い合いや、視線による威嚇、知り合いであればお互い愛想がよいのであるが、コミュニケーション不能型の「孤独」を患っている「ポンコツ」は数の論理で、あちこちと空いている場所へと追いやられてしまうのであった。これらの光景は2050年の人間機械社会の日常生活のどこにでも見られるものであった。「修理工場」の修理受付には、まるであちら側とこちら側は別の世界とでもいうように鉄格子があり、この鉄格子が開けられるのは午前8時半であった。その鉄格子が開かれ、さらにカーテンが開かれたら、受付の事務員が対応することになっていた。受付の事務員には若い美女が対応する。なぜ若い美女でなければならないのか、そう思っている「ポンコツ」も少なからずいた。しかし言わずもがなであろう。そして上階にあるデイケアの扉も開かれる。大部分の「ポンコツ」たちはその上階のデイケアへ上っていくのであった。
修理時間が始まった。山内は今日も、相変わらずマイクを通じて「ポンコツ」たちの名前を呼ぶのであった。「ポンコツ」たちの特効薬は「愛」であるということは、知られていた。しかしこの「愛」なるものはまだ、開発途上にあり、代用品の安定剤や睡眠剤をなんとか、組み合わせて「ポンコツ」たちそれぞれ固有の症状に合わせて処方するのが、一般的な方法なのであった。山内は「ポンコツ」をまた一人、そしてまた一人と「修理」していく。しかし、この「修理」はとりあえずの間に合わせであり、場合によっては代用処方が功を奏さない場合がたびたびあったことは、メカニックマンであれば誰でも周知のことであった。午前の「修理」を終えた後、山内は別室の控室で、休憩するのであった。まぶたを閉じた山内は、午前の「修理」の疲れの中で、やや煩悶を感じたあと、浅い眠りへと、誘われたのであった。山内は昨日見た夢を思い出していた。巻き物に文字のようなものを書いていたあの人物の持つ不思議な輝き、炎を前に熱心に巻き物に文字のようなものを書いていたその人物には一種の使命感をもって書いているという雰囲気を山内に与えていたのだった。山内はその人物との邂逅を味わうかのごとく、その夢に酔っていたのであった。
勤務を終えた山内はまた例のごとく、足早に歩きリニアモーターカーに乗り込むのであった。山内が目にするものは、スマートフォンをおもちゃにゲームやアニメに夢中になっている人々であった。いつもの車両内の光景を目にしている山内は、ハッとため息をついて車両の床に目を落とすのであった。靴底で汚された床が妙に足元に粘りついている。それに嫌悪感を感じた山内は、目を挙げた瞬間、何かの異変に感ずいたのであった。車両の中にいる人々が、山内の疲れとは無関係に、へらへらと笑っているのである。山内自身は何も楽しいことがないのに、それにも関わらず、車両の中にいる人々がにやにやと笑みを浮かべている。山内はその笑みは喜びの笑みではないと感じたのであった。どこか不自然で作っている笑いである。しかし彼らの腹の底には顔の表情とは裏腹に何かどす黒くて、赤く膿んだものがあると感じるのであった。そして山内はこれらの人々のにやにやと笑う顔に、どうにも耐えきれず、途中下車したのであった。ホームのベンチにやっとの思いで座った山内は、何か途方もない暗黒の闇が目の前にあるように感じられた。何か大きなショックを受けた後に感じる、闇へと吸い込まれていくような感覚に襲われる。山内は「もしや」と思った。その後、1,2時間をベンチで腰かけて過ごした山内は、目を閉じて暗闇の中で苦悶したのだった。山内は改札を出て、近くの「修理工場」へと向かった。修理時間にはまだ間に合う。山内は待合いで、自分の名を呼ばれるのを待った後、「修理室」の扉を開けた。山内はリニアモーターカーの中での自らの状況をメカニックマンに告白した。相手のメカニックマンは山内に「孤独」の宣告を言いわたした。
処方箋を受け取った山内は、薬局へと足を運び、調合された処方薬を手に持ち帰宅したのであった。山内は、処方薬をコップの水といっしょに一気に胃袋へと流し込み、その夜は深い眠りについた。山内は深夜の2時前後に目を覚ました。そして、今日が何月何日かを確認した後、明日は「孤独」の特効薬についての例会が開かれることになっているのに気付いて、急いで論文の確認作業をし始めた。
処方薬を飲んではいたが、「孤独」を宣告された山内はどうにも気分がすぐれない。出勤途上においても昨日の悪夢の残遺が山内に襲いかかってくる。リニアモーターカーの中では、やはり人々は昨日と同じようににやにやと笑っている。山内は床に目を落とし到着駅のアナウンスを聞くまで、目を閉じていた。例会の会場に到着した山内は、そこでも人々はにやにや笑っているのが苦痛でならなかった。それが社交辞令のつくり笑いであることは明らかであると山内は、そう思った。会場の中で苦痛をこらえながら、山内は例の「孤独」についての特効薬について、意見が交わされているのが耳に聞こえていた。そして「愛」の定義について、山内が何度も学術論文で目にしていた文字の数々が耳に入ってきていたのであった。山内はそれらの文言の繰り返しに飽きていた。
山内は地球の未来を想像した。巨大企業は人間機械の欲望を利用して莫大は利益をあげ、地球の砂漠化はますます進むことになる。木製製品であるもの、例えば安価なエレキギターなどは昨今まで爆発的な売れ行きを示していた。それはテレビアニメに影響されて、持っているだけで弾くつもりのない若者が、ファッション感覚で持ち歩くだけのものであった。森林伐採が加速化するのは、この話を聞いただけでも明らかである。もはやこの国の中枢都市は現実と非現実が入り乱れ、アニメやゲームのファッションを模倣し、現実の人間くさい営みをそれらのファッションで隠蔽するしか考えつかない。もしこの非現実のなかで生きるとすれば、人間機械個人もその非現実の軽やかさ、明るさの一部として人生そのものを演技していくしかないのであった。その非現実の幻想から取り残されたものは、闇から闇へと葬り去られる。この国の行政機構いや国民はこのような方法で多くの諸問題をもみ消しにしていった。またこうも考えるのであった。人間機械たちは大部分が肉食をしている。しかし彼らが菜食に切り替えれば、食用動物が食べる分だけの穀物を人間機械自身が食することとなる。その分多くの「ポンコツ」を救うことになるが。もっとも力・スピード・数の論理が支配する現在の物質文明が「ポンコツ」を救うのは、偽善以外にありえないだろう。いずれは地上の都市はすべて消滅し、地表の一面は砂漠と海水だけが残り、人類は地下都市に住むことは、まさに現実のものとなりつつある。そして19世紀以来大工業化によって巨大企業が破壊していった絵になる風景はまさにその地下都市のなかで、今度は絵や写真を模倣して地下都市の景観をつくっていくのであろう。その絵になる風景を乱すものはすべて排除していくことに、この国の統治機構は猛烈にエネルギーを注いでいくことになるだろう。
そうこうして山内は、「孤独」の特効薬である「愛」の研究について最先端の研究を行っているといわれている、高名な大学教授の発表が行われ始めようとしているのに気がづき、注意を集中するのであった。その教授の説によれば、「愛欲」の「愛」とは違って「孤独」の特効薬となる「愛」とは、まず人間機械自身の存在を無条件に喜んでもらえることが重要であり、そして働くということ以前にまずその存在の唯一性が確保されているということが大前提であり、「人間機械は働くから愛されるのではない、愛されているという実感をその存在自身が自明のものとして感じているがゆえに、働くことができるのだ」というのであった。山内は「愛」の研究について一歩前進したと思い、心のなかに何かほんのわずかであったが、明るい光を見た気がしたのだった。続けて教授は次のようにもいうのであった。ただこの「愛」は人間機械の成長段階において、臨界期というものがあって、その臨界期を過ぎてしまっては、いくら投与しても効果がない。そして「孤独」の特効薬としての「愛」はまずは、「誰か」から与えられる必要がある。つまり愛してくれる「誰か」を経由する媒体として必要とするというのが現段階での研究の結論であった。山内は息を飲んだ。
会場を後にした山内は、リニヤモーターカー車内での、人々のへらへらと笑いながらもその心のうちに赤く熟し膿んだ何かの不気味さを思い出して吐き気をもよおし、電動タクシーを拾うのであった。涼しい車内で運転手と二人、運転手にすらにも恐怖心を抱いている自分に気づいていた山内であったが、リニヤモーターカー内での恐慌に比べれば、まだはるかに耐えやすかった。車内はことのほか、涼しく居心地よい。山内は、例会での教授の発表について頭の中で思いめぐらすのであった。「孤独」の特効薬となる「愛」とは、まず人間機械自身の存在を無条件に喜んでもらえることが重要であり、そして働くということ以前にまずその存在の唯一性が確保されているということが大前提であり、「人間機械は働くから愛されるのではない、愛されているという実感をその存在自身が自明のものとして感じているがゆえに、働くことができるのだ」という言葉が、思い出される。
しかしながら、車外は摂氏40度近い、猛暑であった。その車外は、ほとんど荒野といってもよいような風景が広がり、政府の恩着せがましい、いかにもお上からのご恩給とでもいうような態度で食料品を配給して回る政府からの職員たちが、枯れ木のような手足で腹ばかり膨れている、「ポンコツ」たちに食料品を与えている。「ポンコツ」」たちが列をなす。何気なくその光景を眺めていた、山内であったが、電動自動車の渋滞が続くなか、電動タクシーが速度を緩めたときに、ふと木陰の中で母親らしい「ポンコツ」が自分の子供らしい「ポンコツ」に自分の分らしい食料品を与えているのを見た瞬間、山内は「ポンコツ」がなぜこんなことをするのか。物質文明の中で利己主義が常識であり力・スピード・数の論理が支配する当世でありながら、母親の「ポンコツ」が自分の子供である「ポンコツ」を虐待することは、「修理」の時によく「ポンコツ」たちから聞かされる話であった。しかし、母親らしい「ポンコツ」が自分の子供らしい「ポンコツ」に自分の分らしい食料品を与えている。しかも母親らしい「ポンコツ」の手足すらまるで枯れ木のようであり、腹が膨れている栄養失調というのに。山内は訳がわからず、母親らしい「ポンコツ」が自分の子供らしい「ポンコツ」に自分の分らしい食料品を分けていることを、この母親らしい「ポンコツ」にわけを聞きたくてたまらなくなった。そして、電動タクシーの運転手に道路わきに車を止めて、しばらく待つようにと言って車外へ出たのであった。山内は、走ってその母子のところへ近づいていくのであった。山内はその母親らしい「ポンコツ」に訳を聞いた。その返事は、私にもわかりません。ただ可愛いんです。であった。子供らしい「ポンコツ」は、母親らしい「ポンコツ」と同じく、手足は枯れ枝のようであり、腹が膨れて、テレビで見られるようなアイドルやアニメのキャラクターのような人気者の風体にはとうてい及ばない。にもかかわらず、その母親らしい「ポンコツ」はその子が可愛いというのだ。
まさか、あの最先端の研究で高名な教授が言っていたこと、「孤独」の特効薬となる「愛」とは、まず人間機械自身の存在を無条件に喜んでもらえることが重要であり、そして働くということ以前にまずその存在の唯一性が確保されているということが大前提であり、「人間機械は働くから愛されるのではない、愛されているという実感をその存在自身が自明のものとして感じているがゆえに、働くことができるのだ」という言葉をまた思い出したのだった。
そして再び電動タクシーに戻った山内は、荒野の道路の渋滞を目にしながら、あの母親らしい「ポンコツ」が子供らしい「ポンコツ」に自分の分の食料をやったこと、そして、私にもわかりません、ただ可愛いんです、という言葉を頭の中で反芻しながら、「孤独」の特効薬なる「愛」について考えるのであるが、その一方でみずからが罹患している病でもある「孤独」が、再び山内を現実の力・スピード・数の論理が支配する世界へと引き戻すのであった。しかし、あの最先端の研究で高名な教授が言っていたこと、「孤独」の特効薬となる「愛」とは、まず人間機械自身の存在を無条件に喜んでもらえることが重要であり、そして働くということ以前にまずその存在の唯一性が確保されているということが大前提であり、「人間機械は働くから愛されるのではない、愛されているという実感をその存在自身が自明のものとして感じているがゆえに、働くことができるのだ」とは別に、次のようなことも言っていたのを思い出す。それは「孤独」の特効薬としての「愛」はまずは、「誰か」から与えられる必要がある。つまり愛してくれる「誰か」を経由する媒体として必要とするというのが現段階での研究の結論である、ということだった。
山内には妻がいたものの、妻には「愛欲」つまり、男女の性愛のことであり、それは一時的には満足感を与えることは知られていたが、その後に猛烈な飢餓感を伴い、さらに依存性があることが知られていた「愛欲」は感じていたのは自ら認める以外にない。そして妻が山内と結婚に及んだ理由は、この世の常識である山内自身の「メカニックマン」としての地位と収入以外の何ものでもなかったのだ。そのことに山内自身、気づいた時にはすでに「孤独」という病の宣告を受けたあとであった。「孤独」の特効薬である「愛」つまり、まず人間機械自身の存在を無条件に喜んでもらえることが重要であり、そして働くということ以前にその存在の唯一性が確保されているということが大前提であり、「人間機械は働くから愛されるのではない、愛されているという実感をその存在自身が自明のものとして感じているがゆえに、働くことができるのだ」という「愛」を、山内はとうてい、この妻から期待することはできない。そのことに山内は苦々しい思いがしたのであった。山内はたった今、帰宅したにも関わらず、再びあの母子の「ポンコツ」たちのことが、頭から離れない。再び路上に飛び出し、そして駅の方へ電動タクシーを拾うために走り出したのであった。
まだ午後2時である。オゾンホールがさらに拡大した地球の日照りは、激しく路面を焼き焦がし、真夏の太陽はこの時ピークを迎える。電動タクシーに乗った山内は先ほど目にした母子の「ポンコツ」を探そうと、泳ぐように目線を走らせる。しかし例会への道筋を再び、電動タクシーで戻るなどということはいまだかつてないことであった。もう一度あの母子に会いたいという思いを強くもっていた山内であった。しかしいくら探しても、もはやあの母子らしい姿はどこにもなかった。山内はこの時、かの教授の言っていた言葉を思い出す。「孤独」の特効薬としての「愛」はまずは、「誰か」から与えられる必要がある。つまり愛してくれる「誰か」を、経由する媒体として必要とするというのが現段階での研究の結論である。気が付いた時には、「孤独」を病む山内はその「愛」してくれる「誰か」をひたすらに求めていたのだった。
電動タクシーに乗っていることに限界を感じた山内は、電動タクシーを下りて走り出し、荒野をさまようのであった。「孤独」を病んだ山内は、もう一度あの母子の「愛」を見たいという思いが心の奥底から湧いてくる。不意に目の前の風景にいつかの夢の中で見た光景を見るような感覚に山内はおちいった。どこかで見た覚えがある光景であった。汗がじとじととにじんでいる。そうこうするうち、汗が流滴となって流れる。太陽はギラギラと容赦なく山内を照り付ける。当たりを360度見回した。一面砂漠かと思っていた山内はふと低い丘陵のあたりに、岩窟があるのに気が付いた。涼を求めるつもりで、その岩窟へと、激しく照り付ける太陽を避けるため、急いだのであった。岩窟に入った山内は穴に逃げ込むと、ほっとしたのであった。山内は穴の出入り口付近でしばらく休んでいたが、奥の方に行ってみたいという好奇心に駆られた。注意深く、のそりのそりと山内は壁伝いに手で確認しながら、奥へと進んでいった。ぼんやりと灯りが見える。そして人影らしいものが、炎の中に揺れている。山内は、ごくりと唾を飲んだ。相手は一人である。その風貌は毛衣を身に着け、腰に皮の帯を締めている。まるで古代イスラエルの預言者のような風貌であった。いったいこんな穴の中一人っきりで何をしているのか。山内は相手の右や左に文字のようなものが書かれている巻き物がたくさん置いてあるのに気が付いた。山内はこの対面が、以前夢で見た光景が再現されていることを直観した。山内はしばらく、相手を注意深く観察していたのであるが、自らの身の安全を悟ったので、声をかけた。その相手は炎を前に巻き物に文字のようなものを書いているのであった。その全身からは、強い使命感を持つ者にだけ与えられている一種独特の存在の光輝を放っていることに、山内は出会った瞬間にすでに気づいていた。「孤独」に病む山内は自ら気づく前に相手に「孤独」の処方薬である「愛」を求めていることを、とっさにいってしまった。その素性すらも知らない相手にである。そして相手は口を開いた。
あなたは、自分が「孤独」だ、といいますが、本当に「孤独」なんでしょうか。あなたは、誰かに愛されていないと感じている、だから「孤独」だという。だけど「愛される」のに「誰か」である必要があるんですか。山内は不意を突かれたように、何を言おうとしているのかと疑問に思い、引き続き相手の言うことに耳を傾けた。例えばですよ、「誰か」ではなく、「何か」ではいけないのでしょうか。「何か」があなたを愛している。大事なのはいいですか、あなた自身が、「愛されている」ということじゃないんでしょうか。確かに、都会の雑踏のなかで、見ず知らずの他人ばかりが行き交う雑踏のなかに、一人でいれば、仲のよさそうなカップルや、家族連れをみて、「孤独」を感じずにはいられず、胸の奥にぽっかりと穴が開いたりして、その隙間を埋めたくなるのは、無理もない。そうして、やむにやまれず、町の裏通りで、こっそりと、つまらないことにふけることになったり、挙句の果てには、犯罪に手を染める輩がどれほどいるでしょうか。でもですよ、そんなことになって、たとえばあなたを愛している「何か」がいるとする。そして、その「何か」が悲しんでることは想像できないですか。その「何か」があなたを愛しているのに、あなたが、自分自身が「孤独」なんだと信じこんでしまえば、あなたを愛しているその「何か」の存在を否定することになると思わないですか。「信じる」という言葉をご存じですよね。「信じる」という行為は相手に向かって自分の心をまず開かないことには成立しえない行為なんですよ。心を開くとはどういうことかわかりますか。つまり、裏切られる、というリスクを背負うことになるんです。隠者はまた、続けた。
しかし「孤独」を信じるのか、それともあなたを「愛」してくれている「何か」を信じるのか。それはあなた自身が決めることです。しかし「孤独」であると信じこんでしまうと、自らの首を絞めるように、結局「孤独」地獄へと、らせん状を描きながら、あっという間に落ちていってしまうんですよ。あなたは、この物質世界、三次元世界がすべてであると、思い込んでいませんか。しかし、あなたもご存じのように、四次元というものもあるんですよ。しかし、この三次元世界は四次元を三次元的な考え方でしかとらえられないんじゃないんでしょうか。
よく聞いてください。四次元では四次元的な存在が四次元的に、私たちを扱っているように思いませんか。例えば、私たち三次元の人間機械が二次元の世界である絵を自由に描くように。そして四次元のさらに上には、その次元でもその次元的存在が、その次元的に私たちを捉える。こうなってくると、この世の、目に見えるもの、手で触れるものがすべてだなんて、それこそ妄想になりゃしませんか。だから私は、この「何か」が私を、それこそあなたが今、しきりに求めているまさにその「愛」で愛してくれている、と思っています。しかし、言っときますけど、この世の宗教っていうものには、くれぐれもご注意なさったほうがよろしいですよ。大事なのは、「誰か」ではなく、「何か」があなたを愛しているということなんですよ。
山内は、この物質世界がすべてではなく、さらに高次元の存在が、山内自身を「愛」しているということなのか、としばらく思い巡らした後、何か心のなかで大きく膨らんでいくものを感じた。では例会での最先端の研究をしている高名な教授が言ったこと、つまり「孤独」の特効薬としての「愛」はまずは、「誰か」から与えられる必要がある。つまり愛してくれる「誰か」を、経由する媒体として必要とするというのが現段階での研究の結論であるということ、は何だというのか。そして今、目の前の隠者が語ったこと、つまり、「何か」が愛してくれている、しかも物質界の三次元の存在ではない、さらに高次元の「何か」が私を愛してくれている、というのはどういうことなのか。
放心してしまっていた山内は、気が付いた時には道路脇に出て、電動タクシーが止まるのを待っていた。しかし山内は、これまでの凡庸な山内ではなかった。山内は、あの穴で出会った隠者の存在の輝きと同じものを、その全身から放っていた。山内は心の中で腹を決めたかのように、視点を一つも揺るがすことなく、一点を見つめていた。帰宅した山内は「孤独」と「愛」について、岩窟の穴のなかで出会ったあの隠者の語った言葉を一言一句、もらすことなく、次の例会での発表のために研究論文にまとめたのであった。