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第1部 忘却の彼方で

 10年前、アタシは不思議な体験をした……ような気がする。

 それはアタシの勘違いだと思うし、当時は仕事が忙しくて疲れていたからそれが原因だと推測できる。

 しかし、どうしてアタシは10年前の体験を不思議と思うのだろう? だって、美術館に作品を見に行って、数秒間、立ったまま気を失っていただけなのだ。いや、気絶ではなく寝ていただけかもしれない。あの日は早起きだったからとても眠かったのを覚えている。そう、それこそ不思議なほどあの日のことを覚えていた。

(何か、忘れているような気もするのよね……)

 電車の中なので声に出すわけにも行かず、頭の中でそう呟いた。

 それだけじゃなかった。いつもはポケットに入っているレモンキャンディーが無くなっており、その代わりに綺麗な白いレースのハンカチが入っていた。それには『Ib』の刺繍。自分の物ではないとわかっているのだが、何だか捨てるのも気が引けて結局、家に持って帰って箪笥の中に仕舞ったのだ。

 閑話休題。

 アタシがどうして、10年前の体験を頭の中で思い浮かべているのか。それには理由がある。

 ワイズ・ゲルテナ。そして、ワイズ・ゲルテナ展。

 その人があの日、美術館にたくさん、飾られた作品たちの親だ。10年前もゲルテナ展を見に行った。仕事もそっち系なので何かヒントになるのでは、と考えたからだ。

 その展示会が10年越しに今日、開かれる。前と同じ美術館で。

(……はぁ)

 何だか、もやもやする。大事なことを忘れているような。10年前のあの日。アタシは何を体験したのだろう。

(いや、だから数秒間、立ったまま寝てただけだってば……)

 頭ではわかっているのだけれど、どうもしっくり来ない。

 声に出さずに唸っていると降りる駅に到着していた。

「おっとっと」

 慌てて、席を立ち電車から出る。

 さすがに歩きながら考え事をするのは危険なので、このもやもやは一旦、頭の隅に置いておくことにした。

「さて、10年前にも見たけど……今は彼らを見てどう思うかしらね?」

 独り言をごちた後、作品のことを人のように『彼ら』と呼んだことに気付き、首を傾げる。

(まぁ、いいわ)

 今日も早起きしたのでまだ、頭が回っていないのだと自己解決し、改札に向かった。




 ゲルテナ。

 世にたくさんの素晴らしい芸術作品を遺し、この世を去った芸術家。その人の作品が一つの美術館に集められ、今日の『ワイズ・ゲルテナ展』は開催された。

 10年前にも見たのだから、もう見る必要はないのだけれど、何となくもう一度だけ見ておきたかったのだ。

 受付で入場料を払い、足音を必要以上に立てないように気を付けながら館内を歩き始めた。

(うーん、いつ見ても不気味ね……)

 無個性。赤い服の女。吊るされた男。

 それらの作品を見ながら10年前と同じ感想を頭の中で述べる。どうして、アタシはこんな物を見に来たのだろうか?

(うぅ。ちょっと無理し過ぎたのかしら……)

 突然、眩暈と睡魔がアタシを襲った。昨日、仕事のせいで寝るのも遅かったし朝も早かったので当たり前なのだが。

(館内は飲食禁止だけど……これぐらい、いいわよね?)

 いつもポケットにレモンキャンディーを入れている。まぁ、所謂、好物なのだ。それこそ、ホラー映画を見る時や怖い夢を見た時など不安な気持ちになった時に舐めると落ち着く。好物にしてマイパートナー。

(レモンキャンディーをパートナーって……やっぱり、アタシっておかしいのかしら?)

 そう思いながらこっそりレモンキャンディーの封を切って口に運ぼうとした――のだが。


 ――ドン!


「っ!?」「きゃっ!?」

 食べようとした場所が通路の角だったので角の向こうから曲がって来た人とぶつかってしまった。

 世界がコマ送りになる。

 ぶつかって来た人――二十歳ほどの女性がバランスを崩して背中から倒れそうになっていた。それに対してアタシはまだ、体重が重く衝撃も少なかったのでさほど体制は崩れていない。慌てて、手を伸ばし女性の手を掴んだ。手を掴まれたことに驚いたのか目と口を開いた彼女。そして、ゆっくりとレモンキャンディーが女性の口の中へと――。

「うぐっ!?」

 女性が反射的に口を閉ざす。そうしなければキャンディーが口から外へ逃げてしまうからだ。そのまま、何度か口の中で転がしているようで目を白黒させながら口をもごもごさせていた。

「だ、大丈夫!?」

 美術館なので出来るだけ声を抑えながら問いかける。

「は、は……い?」

 彼女は頷こうとするが、その途中で固まってアタシの目を覗き見た。

 女性は綺麗で真っ直ぐなストレート。色は茶髪。そして、何よりその瞳が印象的だった。見ていれば心まで吸い込まれそうになるほど澄んだ紅い瞳。そう、バラ色だと言えばいいのだろうか? そんな綺麗な眼だった。

「本当に大丈夫?」

 その眼に心を奪われ、思考停止になりそうだったが、何とか理性を保ったアタシは再度、質問する。

「は、はい……ありがとうございました」

 飴が口の中に入っているので喋り辛そうだったが、彼女は答えてくれた。

「いえ、アタシがこんな場所で立ち止まってたのが悪かったのよ。それに……ごめんなさいね? その飴、アタシのなの」

 『係員には内緒ね?』とお願いする。それに対して彼女は頷いてくれた。追い出されたらせっかくの入場料が勿体ない。

「怪我もなさそうね。よかったわ」

「……」

「ん? 何かしら?」

 ジーッと彼女がアタシを眺めている。

「あ、この口調? 男なのに変よね? 気分を悪くしたのならごめんなさい」

 昔からずっとこの口調だったのだ。今更、変える気もないし変えられないだろう。

「そ、そう言うことではなくて……えっと」

 どうやら、アタシの被害妄想だったらしい。彼女は慌てて否定して何かを離そうとするも黙り込んでしまった。

「……そうね。ここに立っていたらさっきみたいなことが起きちゃうから場所を変えない? ほら、あそこに休めるように椅子があるわ」

「は、はい……お願いします」

 それからアタシたちはベンチの方へ移動し、ゲルテナ作品を眺めた。アタシは別に話すこともないし、彼女から話し出すのを待っていたのだけれど、いつまで経っても女性は話し出さない。

「ねぇ? ここには一人で来たの?」

 痺れを切らしたアタシはそう聞いていた。造作もないただの世間話である。

「……はい」

 それなのに何故か、彼女は答え辛そうに頷く。

「? アタシもなの」

「そうなんですか」

「ええ、そうなの」

「……」

「……」

 また、沈黙。でも、不思議と嫌じゃなかった。このまま、黙ってこのベンチに2人で座っていても苦じゃない、と思っている自分に驚きもしたが。

 しかし、それはアタシだけだったようで次第に彼女がそわそわし始める。

「……もしかして、トイレ?」

「っ……はい」

 なら、どうして行かない? その疑問が一瞬だけ頭を過ぎるもすぐに答えが見つかった。

「いってらっしゃい。ここで待っていてあげるから」

 彼女はアタシに何か言いたそうにしていた。だが、その踏ん切りはまだついていない。それなのに突然の尿意。そんな中途半端な状態で席を立てばアタシが勝手に帰ってしまうかもしれない。そう考えたのだろう。だから、トイレに行けなかったのだ。

「いいんですか?」

「ええ。今日はのんびりするつもりだったから。こうやって、座ってるのも楽だもの」

「じゃあ……行ってきます」

 女性は少しだけ顔を紅くしながらトイレへ向かった。やはり、もうちょっとだけ言葉を濁せばよかった。男に尿意を指摘されるのはさぞ恥ずかしかっただろうに。

 数分待っていると彼女が帰って来た。

(歩き方、ものすごく綺麗ね……)

「綺麗ね」

「へっ!?」

 思わず、呟いてしまった。それを聞いた彼女は目を見開いて驚愕する。

「歩き方。ものすごく綺麗だったわ」

 さすがにこのままではセクハラで訴えられるかもしれない。すかさず、フォローを入れた。

「え、あ、はい。ありがとうございます」

 目を丸くしながら彼女はお礼を言う。その後、またアタシの隣に腰掛けた。

「……」

「……」

 今日、何度目かの沈黙。

 それからしばらく、時が過ぎる。

「あの……」

 突然、女性が口を開いた。

「……何かしら?」

 夢の世界へ片足を突っ込んでいたので反応が遅れてしまったが何とか返答する。

「どうして、ここに?」

「へ?」

「いや、その……あまり、ここにいる作品たちを良いように思っていなかったようなので」

 彼女の指摘に今度はアタシが驚かされる。よく見ている子だ。

「何でかしらね? 10年前にも『ワイズ・ゲルテナ展』を見に来たのだけど……もう一度だけ見ておこうかなって」

「10年前?」

「そうなの。その時、変な体験をして。今日、ここに来たのはその体験の真相が知りたかったからもね」

「体験って!?」

 美術館だというのに大声で叫ぶ彼女。すぐにハッとして周囲にいる他のお客さんに頭を下げた後、アタシの答えを待った。

「そんな特別なことじゃないわよ? 数秒間、立ったまま寝ててあるはずの物が無くなっていただけよ?」

「あるはずの物?」

「さっきのレモンキャンディー。いつもポケットの中に入れてたのに無くなっていたの。その代わりにハンカチが入っていたわ」

「白いレースの?」

「ええ……って、何でわかったの?」

「……何となく?」

 首を傾げながら言われても『可愛いわね、この子』と思うだけだった。

「まぁ、結局、その体験については全くわからなかったわ」

「まだ……」

「え?」

「まだ、美術館の中にいます。諦めるのは早いんじゃないんですか?」

「……そうね。もうちょっとだけ見て回ろうかしら?」

 そう言いながら立ち上がる。そろそろ、潮時だろう。彼女と別れてゆっくり作品を見よう。

「あの……」

「何かしら?」

「私も、一緒に見て回って良いですか? 独りだと寂しくて」

 彼女の提案にアタシはちょっとだけビックリする。だって、彼女とアタシは今日、初めて会った。こんな三十路過ぎの男と一緒に見て回りたいなどと思うはずがないと思っていたのだ。

「アタシは別にいいけど……いいの?」

「はい。何だか、貴方と話していると落ち着くんです」

「あら。偶然ね。アタシもよ」

 それからお昼過ぎまで二人で世間話をしながら(もちろん、小声で)美術館を回った。




「今日はありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 結局、あの体験に関する事は何一つわからなかった。さすがにお腹が空いて来たので帰ることにしたのだ。

「「……」」

 でも、何故か別れの言葉が言えず、美術館の前で二人で立ち尽くしていた。

(何でかしら……この気持ち)

 彼女と離れるのが怖い。会ってまだ1~2時間だというのに。

「ねぇ?」「あの」

 声をかけたが彼女と被ってしまった。それなのに口を閉ざすどころか続きの言葉を発してしまう。

「お昼、一緒にどう?」「お昼、一緒にどうですか?」

 数秒間の硬直。そして――。

「ぷっ……あはは」「ぷっ……ふふ」

 同時に噴き出した。

「ま、まさか……同じことを思っていたなんてね」

「はい、吃驚です」

 あまり表情を変えない彼女は素敵な笑顔を浮かべながら頷く。

「そうね……アタシ、ここら辺に美味しいマカロンの店を知っているの。そこへ行かない?」

「っ……はいっ!」

 一瞬だけ目を見開いた彼女は力強く首を縦に振った。

「じゃあ、行きましょう。あ、いけない。すっかり、忘れていたわ」

「?」

「アタシの名前はギャリー。よろしくね」

 自己紹介を忘れていた。やはり、今日は頭が回っていないようだ。

「私はイヴ。よろしくお願いします、ギャリー……さん」

「?」

 しかし、先ほどまで笑っていた彼女は少しだけ悲しそうに自分の名前を言った。


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