アネモネの恋着
わたしは玲子様の使用人だ。
いや、ただの使用人ではない。
彼女の身の回りの世話や望まれれば送迎もこなすが、本当の目的は彼女の監視と報告だ。これは玲子様の祖父であり二宮グループ会長からの命であった。
由緒ある二宮家に代々仕えてきた家系の出身であるわたしに拒否権はなかった。
けれど、はじめはそれでも良かった。彼女とひとときを過ごし、尽くすことが出来れば、それだけでわたしは満たされた。
美しく聡明で、読書が好きな玲子様。それだけであったら何処にでもいる良家の息女だろう。
しかし二宮グループを担う者としての重圧に耐える姿は、酷く儚げに見えた。
彼女は本家で生活しているときから決して使用人の前で弱音を吐くことなどなかった。家族とさえ共に生活をする事が出来なかった彼女に「甘える」という選択肢はまるで机上の空論のように、実態を伴わない曖昧なものでしかなかったのかもしれない。
玲子様はいつもひとりだった。
それは学校でも、本家でも、二宮グループを背負って出るパーティーでも。
正しく言うならば、ひとりというのは語弊があるかもしれない。玲子様の周りには人が集まってくる。けれどもそれは決して玲子様自身と親しくなりたいからという訳ではなかった。彼らの目的は二宮という家を利用することなのだから。
立場上、そんな彼らともそつなく関係を続けなければならない玲子様の笑顔は冷え切っていた。心からの笑みではないことはすぐにわかった。
彼女に心からの笑顔をもたらすのはひとりしかいなかったからだ。
わたしは「彼」を知らない。
けれど、玲子様は「彼」の前で何かを話しているだろうことはすぐにわかった。帰宅時にふんわりと消毒薬と煙草の匂いをさせてきたとき、玲子様の機嫌は幾らか穏やかに思えたから。
本来であったらその機微な変化さえも本家に報告をする必要があった。「何か変わったことがあったらどんなに小さなことでも逐一報告をするように」というのが会長からの命であったからだ。
しかし、わたしは玲子様が家というものに縛られ苦しむ姿を見たくなかった。
きっとこの件を本家に報告すれば、すぐに二宮家は手を打つだろう。何をするかは分からないが、「彼」と彼女を引き離すことを厭わないだろうとは予想できる。二宮とは体面のためならどんなことでもする、そのような家だった。
わたしは密かに、そんな家に生まれた玲子様を可哀想に思っていた。
そして同時に弱みを見せまいとする彼女が愛おしかった。
わたしは彼女がバスルームで声を殺して泣いていることも、本家と不仲である理由も、「彼」と過ごすことが最大の癒やしであることも知っていた。
玲子様の現在の住居はモデルルームのように整いすぎているとも思える殺風景なマンションであった。
本家のように趣味の良い絵画や家具で揃えるのかと思いきや、全く逆のモノトーンでシンプルそれでいてシックな内装であった。どうやらごちゃごちゃとしているのは彼女の好みではないらしかった。
それでも。少しでも帰宅して気が休まればと思い、玲子様が好んで過ごされるリビングとバスルームに花を生けようと決めたのは、ほんのささやかな思慕の情があったからだ。
使用人として、抱いてはいけない感情だという理解は十分にあった。
だから決してこの想いは口にはしない。
花に興味のない玲子様のことだ、きっと花言葉はご存知ないだろう。それもあって、わたしは花に思いを込めることにした。それしか自分の身分では許されないからだ。
気付いてもらえなくとも、その花を見て玲子様が癒やしを感じてくだされば良かった。
ガチャリとした特有の、ドアが開いた音がした。
「ただいま」
玲子様の凛とした美しい声が部屋に響いた。
玄関で待っていたわたしは玲子様を出迎え、彼女が持っていた鞄を持つ。そして玲子様はそのままリビングへと進んで、わたしはそのうしろをついて行く。
「あ、」と一言発した後に「変わった」と玲子様はリビングを見ながら言った。
その視線の先には先ほど生けたばかりの赤々としたアネモネがあった。
けれどその意味を知らないであろう彼女の表情は、後ろから窺うに何も変わっていないように思われた。
「良いわね」
「ありがとうございます」
玲子様はいつものように生け花を褒めてくださった。
それだけで良いのだ───
いつもと同じやりとりは済んだから、持っている鞄を書斎まで運ぼうと一歩踏み出したそのとき。
「霧島」
名を呼ばれて、思わず足を止めた。
「いつも───分かってる。ありがとう」
そう言って玲子様は淡く微笑んだ。
その笑みは、決して社交辞令的なものではなく、申し訳なさそうな───それでいて嬉しそうなそれであった。
ああ、気付かれていた。
それだけでわたしは満たされるのだ。彼女が誰に心惹かれようと、一瞬でもわたしに微笑んで下さったなら「彼」との関係はそっと心に秘める。都合良く報告書だって改ざんしよう。
二宮に仕える者としてではなく、玲子様に仕えるものとしてわたしはここにいるのだ。
わたしが忠誠を誓うのは玲子様だ。
「今度リンドウを贈るわ」と言って玲子様は笑った。
リンドウの花言葉は『誠実』
そして───『悲しんでいるあなたが好き』。