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子守唄の最終楽章(クライマックス)

 かろうじて自動改札口がある程度の小さな駅を出た二人は、大きく息を吸い込んだ。

 空は冴え渡り、どこかから小鳥のさえずりが聴こえる。鮮やかな山の隣には、ぽかんと雲があるだけだ。


「日本にこんなところがあったなんてな」


 道路が整備され、ビルばかりが立ち並ぶところとは違う。ここはまさに桃源郷――暗い現実世界と切り離された安息の地。


「羅江ちゃん、ちょっと歩こうよ」


 羅江は頷き、二人は黄色い絨毯を歩いていった。陽気な日差しに微笑む菜の花を、爽やかな風が柔らかく揺らす。


 無限に続くかのように見えた絨毯にもいつしか終わりが来る。数十分ゆっくりと歩いた彼らは、菜の花の終点で立ち止まった。


「菜の花の色ってとっても暖かい。全てを包み込んでくれる、優しい色」


 羅江はそれだけ言ってその場にしゃがみ込んだ。花と同じぐらいの背丈になってみると、まるで自分が花の中に埋まっていると錯覚してしまいそうになる。


「この中に入っていいかな?」


 羅江はそう言うと、信彦の返事も聞かずに奥へ入っていってしまった。信彦が苦笑しながら菜の花を見つめていると、ふいに何かに服の裾を引っ張られた。


「こんなところに観光なんて珍しいね。どこから来たの? 名前は?」


 病的に白い肌をした少女は、黒い瞳を輝かせて首を傾げた。信彦は彼女の好奇心剥き出しの問いに答える。


「木葉大学から来たんだよ。名前は崎本信彦。……この先には何があるの?」

「街があるよ。あたし、さっき街に行ってきたんだ」


 信彦が少女に尋ねると、彼女は得意気な表情を見せた。漆黒だと思っていた髪は、風に舞うときらきらと輝いた。


「ありがとうね。じゃあ、街に行ってくるよ」


 木を隠すなら森の中、人が隠れるなら雑踏だろう。さすがに周りが一般人だらけなら、奴も安易に手を出せないはずだ。そんな風に思案を巡らせていると、少女はにっこり微笑んだ。


「また来てね。あたし、この村で一番唄が上手なんだ。今度聴かせてあげるから」

「本当? じゃあ、楽しみにしてるよ」

「約束だよ。ばいばいー」


 そして軽く手を振ると、信彦たちが来た道を駆けていく。それを見ていると、信彦は羅江と遊んでいた頃を思い出した。

 ひらひらと飛んできたモンキチョウが、信彦の鼻先を掠めて菜の花に止まる。チョウは羽を数回上下させると、また違う菜の花に飛んでいった。



「ごめんなさい、ちょっと休ませて……」


 さっきの場所から歩き始めて早一時間、ようやく道路に出てきた。しかし道路とは名ばかりで、車が通っている様子は無い。


「ちょっとそこのベンチに座ろうか」


 二人は鳥の糞を避け、寂れたバス停のベンチに座った。パンパンに緊張していた筋肉が緩み、余裕が無かった表情もほころぶ。


「……あの子は街までずっと歩いたのかな」


 羅江の頭をちらちらと行き来する、信彦と話していた少女。声しか聞こえなかったのに、なぜか妙に気になった。


「ねえ、信彦さん――」


 彼女は言い掛けて、台詞を途中で手放す。問い掛けた相手はベンチの背もたれに寄り掛かり、眠りに落ちていた。

 大学でもあんまり寝てなかったのかな。羅江はふっと微笑み、信彦の肩に首を傾けると静かに目を閉じた。


  * * *


「ちょっと、お二人さん」


 当惑した声と共に体を揺すられ、羅江は目を覚ました。道路には無人のバスがあり、目の前には五十代半ばほどの男性がいる。


「困りますよ、こんな辺鄙へんぴなところで寝られちゃあ。さすがに夜は寒いからね、洒落になりませんよ」


 渋みのある温厚な顔は彼の人生を語っていた。地球十周分は走っているであろう彼の伴侶は、塗装が剥げて窓は傷まみれになり、それでも凛々しく輝いている。


「でも、向こうの方には街があるんでしょ? そこから人が来たりしないんですか」


 羅江は先ほどの少女を思い出しながら運転手に聞いた。彼女は街から帰っている途中だと言っていたのだ。しかし、彼は予想外といった風に目を見開いた。


「街……って、もしかしてお嬢ちゃん、街に行くつもりかい?」


 羅江が問いに頷くと、運転手はいやいやと首を振った。そんな冗談と言わんばかりの表情だ。


「そりゃ無茶だ。連れていってあげるから乗りなさい」

「え、……いいんですか」

「いいんですかって、こっちはそれが商売だからね」


 運転手は白い歯をこぼした。確かにそうだと羅江もつられて表情を緩める。そして、まだベンチでまどろんでいる信彦に駆け寄った。


「信彦さん、起きて」

「ん……羅江ちゃん、どうしたんだ?」

「この運転手さんが、街まで連れて行ってくれるんだって」


 その台詞で信彦は立ち上がり、のろのろと会釈をしてバスに乗り込んだ。羅江たちも後に続き、座席に座った運転手はエンジンを掛けた。が、バスはぷすんと間抜けな音を立ててエンジンを止めてしまう。


「あの、大丈夫ですか」

「心配ないよ。いつものことだからね」


 バスは再びエンジンを掛け、道路に滑り込んだ。乗客二人を乗せたバスはその影を東に伸ばし、誰もいない道を走っていった。

 広い車内の中に沈黙が広がる。その空気に耐えられなかったのか、運転手は信彦に尋ねた。


「向こうからっていうと、光園ひかりぞの駅から来たんかな?」


 信彦は光園駅という名前を問い返そうとして、自分たちが降りた駅だと気が付く。


「あ、はい。景色がきれいだから降りてみようと思って」

「確かに、あの菜の花畑に惹かれて降りる人はたくさんおるよ」

「じゃあ、その人たちのために、あそこまでバスで来てたんですか」

「そういうことかな。まあ、大抵の人は見るだけ見たら電車で帰るから、バスなんか使わんよ」


 彼との会話に味をしめた運転手は、タクシー並みに饒舌じょうぜつだった。今までそこまで多く話すことが無かった二人は少し戸惑いながら、しかし楽しみながら、その一時の話に花を咲かせた。


 それからしばらくすると、外に家が見えるようになってきた。川では鳥が泳ぎ、電線では雀が喧嘩をしている。


「もう少ししたら大通りに出るけんな」


 その言葉は本当で、数分もしないうちにバスは大通りに出てきた。店が立ち並び、制服を着た学生が自転車に乗って談笑している。


「この辺でええかな」


 運転手はバス停にバスを停め、羅江たちの方を振り返った。


「本当にありがとうございました」


 信彦がバス賃を払おうと財布を出すと、彼はぼろぼろになった運賃表を見た。バスと共に歴史を歩んできた運賃表は、紙が劣化して茶色く褪せている。


「二人で三百六十円」

「……そんなに安かったんですか?」


 一人分を計算すると百八十円だ。あまりの安さに信彦は首を傾げた。


「こんなに話したのは久しぶりだから、ちょっとしたおまけにしとくわ」

「そんな……いいんですか」

「ええって、気にせんで」


 彼はそう言ってカラカラと笑う。信彦と羅江は目を合わせ、その厚意に甘えることにした。


「じゃあ、ありがとうございます」


 信彦は運転手に小銭を渡し、会釈してバスを降りた。羅江も会釈をして、信彦に続いた。


「また暇だったら光園の方にも来てなー」


 運転手は最後にそう言い残し、バスを発車させた。

 それを見送った二人は、通りから少し外れた道を歩くことにした。近くに学校があるのだろうか――チャイムの音が聞こえる。あまりにもそれが日常的で、信彦は自分たちが追われている立場だということを忘れてしまう。

 穏やかに照る太陽が、ビルのガラスにキラキラと反射している。しばらく無言で歩いていると、羅江が意を決したように声を掛けた。


「ねえ、聴いてほしいの。おやすみなさいの子守唄」


 信彦は突然の台詞に目を丸くし、言葉の意味を理解すると微かに眉をひそめた。彼女はまだ母親の思いに溺れているのだろうか。

 彼の胸中を察した羅江は首を振った。瞳を見ると、毅然とした意志がそこにあった。信彦は思わず圧倒されてしまう。


「お母さんのことと、この唄が好きなことは関係ないの。……頭の中を巡るだけで心地いい唄なんて他に無い」

「――じゃあ、聴かせて。羅江ちゃんが何に囚われているのか」


 羅江は返事の代わりに大きく息を吸い込む。そして、その吸った息と共に音を紡ぎ出した。信彦は、その美しい音色に思わず息を呑む。

 溢れる音に秘められた物哀しさは道行く人の足を止めさせる。雑音の無くなった空間に、混じりけの無い唄だけが響く。

 羅江はただ無心で唄い続ける。募った思いを全て込めて。流れるように大きくなっていく旋律。止まらない――もう、止められない。

 クレッシェンドに次ぐクレッシェンド。アンダンテからアレグロモデラート……もっと速く。

 信彦は縫い付けられたかのように羅江から目が離せなかった。服の裾を握りしめて唄う彼女は、自分の運命を憂いて叫んでいるようだ。しかし、あくまでも音律は優しく穏やかだ。母親が子を思って唄うそれのごとく。

 ――愛してる。

 確かに聞こえたその言葉は淡い泡沫で、彼女の唄の全てだった。信彦は一瞬、母親の胸に抱かれている感覚を思い出した。


「――――……」


 最後の音を響かせ、唄は終わった。目を開いた羅江はほうっと一息吐く。


 その場にいる全ての人が唄の余韻に酔いしれていた。しばらくの静寂。それを破ったのは、さきほど放歌高吟した本人だった。


「……信彦さん!」


 ぱちんと泡が弾けるように放心から覚めた信彦は、笑顔で駆け寄る羅江に言葉を掛けた。張り詰めていた息を吐き、ゆっくりと吸う。


「すごい……すごかったよ」


 言葉にし尽くせない感動は月並みな賛辞にしかならない。自分の感情をうまく表現できないもどかしさが彼の体を動かした。衝動のまま、目の前にいる羅江を抱き入れる。

 羅江は驚きに目を見開いた。信彦は彼女の体が硬直したことには気付かず、掠れた声でささめく。


「羅江ちゃんの唄、すごくよかった。感動したよ」

「本当?」


 彼女は顔を上げ、嬉しそうにほころばせた。しかし、視線がまともにぶつかってしまい、照れ臭さを隠すためにポケットに手を入れる。次の瞬間、その笑顔が凍り付いた。


「信彦さん。……これって」


 羅江はポケットから黒い物体を取り出し、信彦に渡した。それを食い入るように見つめた後、彼は首を振った。


「やられた。発振器だよ」

「あたしがもっと早く気付いていれば」


 ごめんなさいと呻いた羅江は、目に涙を浮かべて俯く。信彦は彼女の肩を優しく抱いた。


「羅江ちゃんのせいじゃないよ。俺だって全然気付かなかったんだから。それより今は――」


 発振器が付いていたとわかれば、いつまでもこの場に留まっていることは出来ない。信彦は辺りを見渡し、様子がおかしいことに気が付いた。突然言葉を途切れさせた彼に、羅江も顔を上げる。そして、二人は絶句した。

 つい先ほどまで騒がしかった路地は静まり返っている。突っ立っている人々の目に意思はなく、ぽっかりと穴が開いているようだ。時は止まっていて、自分たちだけが取り残されている。そんな考えが頭に浮かんだが、信彦はすぐに首を振った。ありえない。


「嫌だ、怖い……」


 羅江はぎゅっと信彦の服を掴む。彼はその上に静かに手を添えた。

 太陽を地平線が遮り、地上の影をも溶かしてしまう。ビルのガラスはもう何も映さない。



「崎本!」


 突然、この場にそぐわない大声が聞こえる。二人が振り反ると、そこにはヘッドホンを手にした原岡が立っていた。

 どうしてという疑問が頭に浮かんで消える。羅江のポケットに発振器があった。疑問に対する答えはそれだけで十分だ。

 羅江の頭の中で大学での記憶が甦る。身動きの出来ない体に突き付けられる、鈍く光るメス。彼女は自分の口が渇くのを感じた。


「……何の用だ、原岡」


 信彦の声色が低くなる。しかし原岡は彼には見向きもせず、羅江を見やった。


「お前に用は無い。用があるのはそこの欠落種族にだ」


 冷ややかな目と視線が合い、彼女はびくんと体を揺らす。ふっと首元を抜けていく風は妙に冷たかった。原岡はオレンジ色の耳栓を耳から取り出し、それには目を向けず地面に捨てる。


「――お前、唄ったな?」


 羅江に悪いことをしたという自覚は無いのに、彼の言い方は彼女を責めている。羅江は原岡の見透かしたような台詞に混乱した。


「羅江ちゃんが何を歌おうと、それは彼女の自由だろう」


 信彦は羅江を庇うように前に出て原岡を睨み付ける。彼の声は震えていて、怒りを抑えていることがわかった。羅江は原岡の目から視線を外す。


「そうか、だったら教えてやろう。……その唄は、欠落種族に伝わる悪魔の唄だ。お前も精神が不安定になっているはずだ」


 ――はじめからわかっていたのかもしれない。羅江は腹岡の言葉を聞いても驚かなかった。それよりも、子守唄を悪魔の唄と罵られたことが彼女を不快にした。


「お母さんの子守唄を悪く言わないで!」


 信彦さん、あの唄を聴いたあなただったら、あたしの気持ちをわかってくれるでしょう? 羅江はそう言いかけて、彼の口からこぼれる不明瞭な言葉に気付いた。


「そんな……この唄が……」


 信彦の肩は不自然に揺れている。彼が動揺しているのは、後ろから見ても明らかだった。羅江の目が大きく見開かれる。


「崎本、今ならまだ間に合う。欠落種族に操られるな」

「……嘘よ。信彦さんはこの唄のことを褒めてくれた」

「まだわからないのか? 操られるというのは、お前の望み通りに行動するということだ」


 彼の台詞を理解した羅江は、がっくりと膝を折った。言葉にならない言葉が唇からこぼれる。信彦は、打ちのめされた彼女に駆け寄った。


「羅江ちゃんの子守唄は俺の心を動かしたよ。この感情は操られてなんかいない」


 羅江は何も言わずに首を振る。感情という本人でも把握できない代物の真偽なんてわからない。なぜなら、羅江は自分の唄を信彦に認めてほしいと思ったから。


「一度でも唄を聴いた者は、多かれ少なかれ精神に異常をきたしているはずだ。なぜお前は今まで人間に見つかることになく生き延びてこれたんだ」


 否定は不可能だった。羅江は納得してしまったのだ。自分があの唄を唄ったことで、多くの人の人生を変えてしまったことに。


「――原岡さん」


 羅江は立ち上がり、原岡の前まで歩み寄ると顔を上げた。彼女の意志の宿った目に、原岡は思わずたじろぐ。


「あたしが死ねば、その人たちを操ることはできないんでしょ」

「羅江ちゃん!」


 信彦の叫声を聞いた羅江はそれを黙殺し、原岡の返答を待った。信彦の感情が信じられなくなった今、信用できるのが敵対する原岡だけだということは、なんという皮肉なのだろう。


「……お前、死ぬ気か?」

「あたしは唄の能力なんて知らなかった。でも、あたしは人間とは違うから。あたしは自分がしたことの責任は取れる。唄を聴いた人が元に戻るなら……死ぬことだって」


 原岡は、自分の胸が歓喜に震えるのを感じた。これこそ自分が待ち望んでいたものだった。羅江をうまく唆して警戒心を解けば、欠落種族の生体解剖が実現する。もう失敗は犯さない。


「お前の質問の答えはイエスだ。主を失った操り人形は糸が切れるだけさ」

「そう……。だったら、あたしがすることは決まってる」


 羅江は、原岡が何かを言うより先に、そっと息を吸い込む。子守唄の暗示を自分にかけて自殺する――彼女はその唄なしに死ぬ気は無かった。

 二度目の子守唄は先ほどとは別物のようだった。原岡は自分の思慮が浅かったことに気付き、唇を噛み締める。この唄が終わった後、生きた彼女に会うことは無いだろう。


 ――ラメンタービレ、哀しい子守唄。理由は哀しい運命を持って生まれてしまったから。

 声を潜めるようなピアノはメゾピアノへ。そして、さらに大きなフォルテが響き渡る。

 フォルテ……ううん、もっと強く――クレッシェンド!

 羅江の唄は、もはや子守唄とは言えないほどの激しさを持つ。留まることを知らない感情の波。


 体中でうねる大きなメロディ。その最後の音が響き、堕ちる。自らを殺めるために。羅江の目から涙が、制御されることなく流れ落ちる。

 信彦さん、ありがとう。ごめんなさい。そして、おやすみなさい――。彼女はその唄に自身を任せた。

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