子守唄の旋律(メロディ)
大学から出てすぐの大通りを歩いていると、羅江の斜め上から声が降ってきた。
「どこに行きたい?」
羅江はその台詞に目を丸くした。最後に自由が欲しかっただけで、本当に大学から逃げられるなんて思っていない。だけど、今目の前にいる彼は、本気で大学から逃げるつもりなんだろうか。それは、あまりにも無茶で無謀な考えだ。
「北海道で蟹を食べるのも良いし、沖縄で泳ぐのも楽しいだろ」
だけど、彼の言い方から『逃げよう』というようなニュアンスは伝わらない。小旅行でもしようという軽い言い方に、羅江は惑わされそうになる。もしかしたら、北海道でも沖縄でも行けるんじゃないか――そんな気持ちになってしまう。
「行きたい。けど、この髪じゃすぐに見つかってしまう」
角度によっては虹色に見える、細く長い髪の毛。羅江は自分のそれを見つめて唇を噛んだ。体の奥にある“欠落”が表面に浮き出てしまっているように感じた。
「髪を染めるのはどう?」
「……駄目。あたし、新陳代謝が良くてすぐに髪が伸びてくるの」
大学で剃られた髪は、既に胸の辺りまで伸びていた。
「じゃあ、髪を結んで帽子に入れるっていうのは?」
「それなら、きっとわからない。髪が帽子から出なければ……」
いつ、レジのお姉さんのような人に会うかわからない。同じ失敗だけはしたくない。数日前の出来事を思い出し、彼女は目を伏せる。
「羅江ちゃん、大丈夫?」
信彦は俯いていた羅江に心配そうな声を掛ける。そんな彼に、羅江は顔を上げ、心配ないよと笑ってみせた。
二人はヘアゴムと帽子を買い、大きめな公園のベンチに座った。今日は休日なのか、小さな子供たちが鬼ごっこをしたりして遊んでいる。辺りにはカップルがたくさんいて、仲良く笑い合っている。あんな風に見えるかな――羅江はそう思うが、彼女の見た目は十五歳前後だ。せいぜい仲睦まじい兄妹にしか見えないだろう。
信彦は羅江の髪をそっと持ち上げた。遠慮しているのか、丁寧な触れ方に暖かさを感じる。思えば、ここ数日安心なんて出来なかった。しかし、今は誰も邪魔しない。床に倒れている原岡が発見されるのは、まだまだだろう。
自分は、子供のころ以来の束の間のやすらぎに浸っている。そう実感できたことに、羅江は幸せを感じた。
――いつの間にか、うとうととしていたらしい。羅江の上から、柔らかい声が聞こえた。
「はい、できたよ。……行こう」
公園を出て、またさっきの大通りを歩く。羅江は鮮やかに反射する太陽に顔をしかめつつ、店のショーウィンドウに自分の姿を映してみた。
「すごい……上手」
羅江の髪は、きれいなお団子に纏められていた。自分のそれを手で触りながら、羅江は感嘆の声を漏らした。
「こういうのは得意だからな。よく言われるんだ、『見かけによらず器用』って」
そんなずぼらに見えるか? 信彦はそう言いながらおどけてみせた。帽子を被ってくすくすと笑いながら、羅江はその姿を想像した。
「――あ」
信彦さんのポケットの中から、何かが振動する変な音がした。信彦さんはポケットから黒い硬い機械を出して、それを眺めた。
「信彦さん、それって何?」
「これ? これは、携帯電話だよ」
携帯電話――持ち運びできる電話? 彼女の家に固定電話はあったが、携帯電話は無かった。あんなに小さいのに固定電話と同じ機能があるなんて、固定電話は用済みじゃない。
しかし、信彦はそれを一瞥すると、すぐにポケットに戻してしまった。その動作に、羅江は首を傾げる。
「出ないの?」
「携帯電話は、時に自分の行動を制限される物なんだ」
誰からの電話だったんだろう。聞いてみようとしたが、彼はそれ以上言う気が無いのか、羅江に視線を合わせない。交差点の信号が赤に変わる。
「信彦さん、あたし、電車に乗ってみたい」
信彦は、少し首を捻って視線を泳がせた。我儘ばかりごめんなさいと羅江は心の中で呟く。でも、遠くへ逃げたい。この不安が無くなる場所まで逃げてしまいたい。
「そうだな、電車に乗ろう」
その言葉を聞き、羅江はそっと息を吐き出した。先ほど赤になったばかりの信号は、いつ変わるのだろう。
* * *
「逃げられた!?」
実験棟に男の声が響き渡る。原岡は、予想外に響いた大音量に首をすくめる。
「すいません」
「何をやっているんだ、お前は。欠落種族の少女が脱走を試みないとでも思ったのか」
だったらお前が管理しろよ。そう口が滑りそうになるのを彼は必死で堪える。そんなことを言ったら、クビは決定だ。しかも、この男は血の気が多いから、本当に首を飛ばすかもしれない。
「……すいません」
だから、馬鹿の一つ覚えみたいにその台詞だけを繰り返す。
「お前には言ってなかったんだが、前回の実験であることがわかったんだ」
「な、何ですか」
態度は心もち身を乗り出すだけに留めるが、しかし一字一句聞き逃さないようにする。男は原岡の関心を知っているのか、もったいぶって話し始めた。
「欠落種族に代々伝わっている唄があるそうだ。その唄を聴くと、唄った人の無意識に従うようになるらしい。これでは欠落種族の操り人形が量産されることになるぞ。――責任は取れるのか」
原岡には辞職という道しか無いことは明らかなのに、嫌味ったらしく問いかける。その態度が気に食わない。だから、彼はこう言った。
「何森羅江を捕獲――いえ、保護します」
原岡はこっそりとほくそ笑む。彼女には発信機を付けている。貴重な実験材料を、素直に引き渡すと思ったか。彼の目的は欠落種族を解剖する、ただそれだけなのだから。
* * *
信彦は、駅に行くとすぐに見つかるのではないかと思っていた。しかし、駅は予想以上に混んでいて、背の低い羅江なら滅多なことでは見つからないと安心した。
「信彦さん……!」
雑音の波の中に自分を呼ぶ声が聞こえて、信彦は後ろを振り返る。見ると、羅江は一つの店に心を奪われていた。
そこは駅にありがちな土産屋で、吉備団子やピオーネゼリーなどさまざまな食べ物が陳列されている。しかし、羅江の興味の対象は食べ物ではなかった。
「信彦さん、これ可愛い」
それは小さなクマのキーホルダーで、色によって恋愛運が良くなる、金運が良くなる、などと書いてある。
信彦はそういう物を見るたびに、ご当地キーホルダーじゃないのにと思うが、このクマだけは素直に可愛いと感じることができた。
「ちょっと待って。財布があったはず、――あ」
羅江は服のポケットを探ったが、そんなものはどこにも無い。大学にいたときに取られたんだと気付き、羅江は視線を揺らした。
「それくらい俺が出すよ」
そんな彼女の態度に気付いたのか気付かなかったのか、信彦は自分の財布を取り出した。
「でも、そんな」
罪悪感と感じるものの、だったら自分が出せるのかというとそうではない。彼は社会人なのだから、これくらいなら出してくれるだろう。そう考えてしまう自分自身に羅江は腹が立った。
「俺に買ってもらうの、そんなに嫌?」
「嫌じゃないけど……信彦さんに悪いじゃない」
羅江がそう口にすると、信彦は柔らかく微笑んだ。
「そんなこと気にしなくていいよ。何色がいいの?」
「ピンク……」
羅江はあくまでも信彦に頼りたくないようで、しぶしぶ呟いた。その呟きを聞いた信彦は、ピンクのキーホルダーと水色のキーホルダーを手に取り、さっさと会計を済ませてしまった。
「はい、どうぞ。はは……俺も買っちゃった」
信彦はお揃いにしたかったとは一切言わず、二匹のクマを揺らしてみせた。
そのまま店を後にした二人は、人ごみに流されながらも券売機までたどり着いた。羅江が改札を抜け信彦と歩いていると、不意に声が掛かった。
「もしもし」
思わず羅江の足に力が入る。しかし、走り出すようなことはしなかった。それをしたら余計怪しまれることは彼女にも予想できた。呼吸を整えて、ゆっくりと振り返る。あくまでも、いつでも逃げ出せるように足の力は抜かず。
「落としましたよ」
白髪の駅員が手に持ったクマを羅江に手渡す。名入れテープの付いたパッケージをポケットにしまいながら、羅江はほっと息を吐いた。大丈夫、この人は自分の正体に気付いていない。
「ありがとうございます」
軽く会釈をしてその場を後にするし、階段を上ってプラットホームへ出る。窓の向こう側の電線に留まっている雀は、啄ばむように鳴くとさっと飛び立っていった。
駅にはたくさんの人がいたにもかかわらず、そのほとんどは上りの電車を待っていた。二人が下りのプラットホームで壁にもたれ掛かっていると、静かに電車が滑り込んできた。反対側で待っている人たちが見えなくなる。
車中は予想通りがらがらで、立っている人はほとんど見当たらなかった。二人は掴まり棒を持って出発を待った。
「ねえ、信彦さんはどうして研究者になろうと思ったの」
羅江は心持ち首を傾げて信彦を見た。当時の彼は活発で、研究者なんていう堅苦しそうな職業とは無縁だと思っていた。
「俺の母さんは、俺が中学生のときに癌で死んだんだ。だから、癌の治療薬を開発しようと思って。――そんな簡単にできるはずが無いのにな」
自嘲気味に話す信彦の目は、台詞とは裏腹に強い決意に溢れていて、羅江はふっとプラットホームへ目を向ける。そこにいる人たちの中にそんな強い目をした人なんて――いた!
「の、信彦さんっ!」
それを見た羅江は思わず信彦に飛びつき、彼の方向を指で指した。白衣を脱いだ男が向こう側のプラットホームにいた。
「早すぎる……」
信彦は零れる言葉を制御することなく発し、無意識に羅江を守るように包み込む。いや、大丈夫だ、まだ相手は気付いていない。
「大丈夫だよ、羅江ちゃん。ここから離れてしまえばもう安心だから」
信彦は、胸の中で震える羅江に優しく声を投げかけた。しかし、油断せずプラットホームを注視していると、厳しい表情で辺りを捜し回っている原岡と目が合った。はっとした信彦は瞬間的に目を逸らす。しかし、次に視線を戻したとき、そこに原岡はいなかった。歩き回る人の群れが、餌を探す蟻の大群に見える。
『電車が発車いたします』
プルルルルという音に続けて、プラットホーム内にアナウンスが流れた。並んだ人たちは、条件反射でこちらに視線を向ける。
早く発車してくれという気持ち、それだけが信彦の心を占めていた。そのおかげか、アナウンスが流れたと同時にドアが閉まり、電車は進み出した。
人がいなくなったプラットホームを眺めていると、階段から駆け下りてくる男の姿が見えた。彼は諦めに似た溜め息を吐いて、こちらに視線を向けた。その、じっとりとした蛇のような目に、信彦の背中を冷たいものが流れていった。
電車が発車して約五分、窓の向こう側の景色が田園に変わる頃、車内に羅江の声が落ちた。
「あのね、あたし、大学にいるときに昔の夢を見たの。お母さんがあたしに唄っていた子守唄……あたしがいつも唄っている唄なの」
そして、その言葉に手繰られたように記憶が溢れ、羅江は息せき切って話し始めた。夢の中で母が子守唄を唄っていたこと、家に大学関係者が来たこと、母が教授に殺されたこと――。
「あたし、わからない。あの唄……どうして」
「羅江ちゃん」
泣き出しそうな顔で首を振る羅江に、信彦は優しく声を投げた。
「お母さんが毎日その子守唄を唄っていたから今も覚えているっていうだけじゃないかな。……もしくは」
言いかけて、信彦は口をつぐんだ。しかし、羅江の続きを促す視線に負け、再び口を開いた。
「もしくは、『欠落種族』に関係があることかもしれない」
「信彦さん!?」
悲鳴のような羅江の声を聞き、しかし信彦は考えを否定することはできなかった。
「羅江ちゃん、君が見た夢は本当の記憶?」
「…………」
「二十年前、殺人事件があった。犯人は死体解剖の結果人間亜種だと言われ、欠落種族と名付けられた。――彼女は、君の母親じゃないのか?」
羅江は俯いたままぽつんと呟いた。
「……あたし、知らない」
信彦は無言で視線を窓の外へ向ける。二人の間にある一歩分の距離が、妙に遠いように思えた。
――お互い無言になって十五分ほど経った頃、突然羅江が声を上げた。
「あ、お花畑……」
見ると、若草色の絨毯はとっくに終わっていて、菜の花の黄色い絨毯が広がっていた。風に揺れてそよぐ菜の花はこれ以上ないほど幻想的だった。
「信彦さん、次の駅で降りない?」
信彦は外の風景に心を奪われたまま「いいよ」と答えた。