子守唄の反響(ソノリティ)
羅江が目を覚ますと、猿ぐつわを噛まされ四肢を縛られ、動こうにも動けない状態だった。幸い窓の外は見えたので景色を眺めていると、歴史のありそうな豪華な門が近づいてきた。そして、車はそこを通ると地下駐車場へと入っていった。
大学の実験棟に連れて行かれた羅江は、そこに並ぶ実験材料たちの姿に愕然とした。小動物たちの叫びは耳を塞ぎたくなるような現実だった。
「なんてひどいことを……!」
「この実験があってこそ、ワクチンや治療薬が使えるようになるんだ。所詮は動物、替えなんていくらでもいるじゃないか」
彼女は言葉を失った。殺される為だけに生かされる動物たち。新薬の実験台になるのはこのいたいけな生物で、そして次々と死んでいく。病院のようなリノウムの空間に、動物たちの叫び声が絶え間なく響き渡る。死と隣合わせなんてものじゃない。死ぬ方がよっぽど楽――そんな世界に生かされているんだ。
そこまでしておいて、人間は何の感謝も無く、当たり前のように薬を使う。あまつさえ、その薬で自殺をしたりする。人間がここまでひどい生物とは思わなかった。自分達の贅沢ために、一体どれだけの動物を殺しているのだろう。
彼女でさえ、生き物を食べるときには感謝を口にして、その尊い死に敬意を払っている。それなのに、彼らときたら――。
「入るんだ」
前を歩いていた教授は、周りのものより一際大きい檻の前で止まった。彼は羅江の肩を突き飛ばし、南京錠を閉めると部屋を出て行った。冷たい床のひやりとした感覚が、羅江の現実だった。
「やだ、出して! 出してよ!」
自分も、あんな風に殺されるのかもしれない。恐怖で二の腕が粟立った。
* * *
ぼんやりと目の前が明るくなっていく。細部がわからない、ぼんやりとした声、映像。
「まま、うたって。おやすみなさいのこもりうた」
羅江の目の前にいるのは記憶に無い女性だったが、羅江にはそれが母だということがわかった。これは彼女の子供の頃の記憶だ。霧に包まれたように思い出せなかった、遥か昔の記憶。羅江は、その記憶を再生しているのだ。
「羅江はこれを聴かないと眠らないのよね」
穏やかに微笑む女性は羅江の理想の母親像で、あまりにも優しいその表情に、瞳から涙が溢れるような錯覚を起こした。しかし、羅江はこの幻の中では傍観者でしかなく、自分と母はどんどんやり取りを続けていく。
「このうた、だいすきなの。ねえ、うたって」
すると、母は口ずさむように軽やかに唄い始め、羅江は愕然とした。その唄は、羅江がいつも唄っている唄に違いなかった。心地よい音に羅江が目を閉じると、ポタージュのような優しい思い出に包まれた。
「羅江」
落ち着いたアルトの声で目を覚ますと、下には真剣な顔の母がいた。羅江は、睡眠を邪魔されたからか顔をしかめ、それでも健気に顔を上げた。
「なあに、まま」
「逃げなさい」
母の声はとても切羽詰まっていて、とにかく大変なんだということがわかった。しかし、幼かった自分はそんなことには気付けず、わけがわからないままに布団を握り締めている。不安げな瞳が母を見つめた。
「え、……どうして」
「すぐに追っ手が来るわ。私たちを狩りに」
追っ手? 狩られる? 誰が? どうして?
昔の自分と今の自分の頭の中に流れる疑問符の羅列。意味がわからない。薄暗い部屋に豆電球のオレンジ色が揺れる。
「あなたは、生き延びないと駄目。私と彼の、たった一つの生き形見なの」
母は羅江の瞳を覗き込み、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。あまりにも穏やかな母の笑顔に、彼女がどこかに行ってしまうような気がして、羅江の心に不安が渦巻いた。
「あなたは――私たちの希望なのよ」
「まま、まま……」
嗚咽を堪えた羅江は、複数の足が廊下の床を軋ませてこちらに向かってくる音を聞いた。足音を隠すような歩き方に彼女は身震いする。
「ほら、来たわ。隠れて」
母はそう言うと羅江を押入れに隠した。つんとカビの臭いが広がる。そして、足音はすぐそこまで近付き、勢いよく扉が開かれた。
「欠落種族を一名発見しました」
欠落種族。聞いたことが無いはずなのに、とても恐ろしい言葉だと思った。羅江は恐怖のあまり、じっと息を殺すことができてしまった。声を出すなんてとても出来なかった。
「傷を付けるなよ。無事に木葉大学に連れて行かないといけないんだから」
「教授も物好きですよね。職業とはいえ、人間を研究するなんて――」
男の声が消え、場の空気が突然変わった。慌てた男の一人が上ずった声を出した。
「こ、こいつ、舌噛んだぞ。おい、教授に何て言い訳するんだ……!」
体に針が突き刺さった。一直線に駆け抜けた衝撃は、確かに『母は死んだ』と告げていた。そして、その後の記憶は無い。
羅江を見つけたのが教授だったのは、何の因果だったんだろう……。
* * *
もう、何日経ったのか羅江にはわからなかった。窓の無い部屋では一日なんていうものは無く、部屋では常に誰かが動いていた。残虐な実験は、まだ続いている。実験に髪が邪魔だからとバリカンを持ち出されても、抵抗しようとは思わなかった。既に羅江の心の中には諦めの感情しか無い。
彼女の左腕には点滴が刺さっている。そこに送られている液体が何なのか――どうせ、ろくな物じゃない。どうせ、ただの実験だろう。死ももう目前に迫っているように気がした。彼女は冷たい床に座り、膝を丸めた。
突然、思考を一時停止させるほど大きな足音を立てながら誰かが来て、羅江の檻の前で止まった。血の気の引いた顔で、彼女に刺すような視線を放つ。
「これはどういうことなんだ!」
「どうしたんですか。何か不備でも……」
この部屋全体に響き渡るほどの大声に、小動物に注射をし終えた男の人が慌てて駆け寄る。部屋の中にいる動物たちが騒ぎ出す。
「何故この化け物は生きているんだ!」
自分が死んだら困るのはそっちじゃないかと思いながら、羅江は冷ややかな目で彼を眺めた。教授ほどではないにしろ偉い人のようで、胸には小さな金色のピンが付いていた。
「あの、……何をしたのでしょうか」
「ちょっと目を離していた隙に、アルバイトが硫酸を入れたんだ」
一瞬、羅江の中の全ての思考が停止した。言葉だけが頭を通り抜け、その後に意味が追いついた。
「ひ、……っ!」
そして次の瞬間、内容を理解した羅江は後ずさる。衝動のまま腕の管を引き抜き、呆然と彼を見つめる。
頭の中に浮かぶイメージ。硫酸が血管を溶かし、骨を溶かし、肉を溶かし、皮膚を溶かす――。皮膚が溶けて、初めて見ることが出来る自分の中。でも、中にあるのは無。ただぽっかりと何も無い空間があるだけ。そして、その周りにあるのは、焼け爛れた皮膚、肉、骨、血管。
羅江は無知ゆえに、そんなありえない想像を作り上げてしまった。
「まあ、お前の反応を見る限り、硫酸にも耐性があるようだな。結果的には良かったよ」
「あなたおかしい……狂ってる!」
「どこがおかしいんだ? おかしいのは、硫酸を入れても死なないお前のほうじゃないのか」
薄く笑いながらそう言う目の前の男に、羅江の中の何かが外れた。音階の無い音が体を巡る。
お母さんを殺し、動物たちにあんなことをし、反省すらしない人間たち。あたしが二十年間、あの屋敷でいたって平和に暮らして耐えていたのに、それをぶち壊しにした憎い人間。人間に害を与えるつもりも何も無いし、これからも平穏に暮らしたかった。それに、あたしは人を殺さないために外に出たのよ。なのに、この仕打ちは何なの! こんな人間なんて、消えてしまえ、いなくなってしまえ――!
感情の激流。音という音を全て呑み込み、うねってうねって、大きくなって――堕ちた。
唐突に鋭い破裂音がして、羅江は目を見開いた。
鮮血や内臓、筋肉と脂肪が飛び散り、小さな固まりとなって床に落ちる。頬に赤い液体が付いたのを、無意識に拭う。
「あたし、何をしたの……」
気がついたら彼女は檻の外にいた。足元には曲がった南京錠と、わずかに人の形をしているもの――腕や足が十数個。体からはピリピリとしたものが発せられていて、なんだかそれがひどく不快だった。
茫然自失している羅江を気に求めもせず、部下らしき男が口を開く。
「はは……本当に欠落種族なんだな。硫酸を入れたにもかかわらず何とも無かったのは、強い殺意だけで人を殺せたのは――ひとえに、お前が化け物だからなんだよ」
男は羅江には見向きもせず、自分に酔ったように説明を始めた。
「ここでは欠落種族を解剖したことが二度ある。俺はその解剖を手伝ったが、満足な結果は得られなかった。すぐに死んでしまったからだ」
そして、不気味な笑みを浮かべて近づいてくる。悪意なんてものではなく、言いようの無い変なオーラが、この男から滲み出ている。半径五メートル以内に近づきたくない。近づいたら、このオーラに汚染されそう。そう思わせるだけの違和感が彼にはあった。
「教授を手伝いながら、ずっと思っていたよ。欠落種族を解剖したいとな。今日、やっとその夢が叶うのだよ」
男はすぐ側まで来たが、羅江は立ち尽くしたまま、ぴくりとも動けない。そして、いとも呆気なく捕まってしまった。
意識が戻ると、彼女はあまりの眩しさに目を細めた。手術で使うようなライトが、視界いっぱいに広がっていた。嫌な予感に周りを見ると、羅江の両足手首は固定されていた。冷たい器具が四肢を切りつけているようだ。
そして、台の側にいるのは、両手にメスを持っている白衣の男。鋭利なそれを目の当たりにして、羅江は顔面蒼白になった。
「嫌……」
無意識に拒絶を表す言葉が口をついて出る。今まで死んでもいいって思っていたけど、本当は死にたくない。羅江の目尻から涙が零れ落ちた。
「――始めようか」
観念した羅江は目を硬く閉じ、全てを待とうと決めた。しかし、彼女が予想した感覚は訪れず、羅江は思わず目を開ける。そこには、男が訝しげな顔で先ほどの状態のまま立っていた。
耳を澄ますと、なにやら足音らしき音が聞こえる。目の前の男が、一人では無理だからと助手でも呼んだのだろうか。しかし、その音はひどく切羽詰まっているようで、羅江は首を傾げた。
そうこうしているうちに部屋のドアが勢いよく開き、派手な音と共に、真面目そうな男が入ってきた。急いで走ってきたようで、息を切らして肩で呼吸をしている。
「原岡!」
「さ、崎本! お前、なんで実験棟に……!?」
「アルバイトがおろおろしていて、聞いてみたら人体実験をしているんだってな。お前、自分が何をやってるかわかってんのか」
崎本という男は原岡の質問には答えず、ただ軽蔑的な眼で睨み据える。突然の出来事に、羅江の頭には疑問符が飛ぶ。原岡の助手だと思っていた男が、なぜ彼を批判しているのか、全く見当が付かない。
「何をしに来たんだ。理由も無く実験室に入ってはいけないことぐらい知っているだろう」
「この少女を解放するためだ」
彼はそう言うなり腰を屈め、素早く原岡の腹を殴った。一瞬の出来事だった。
「げふっ……」
殴られるとは思ってなかったのだろう、原岡は苦痛に顔を歪めた。
「悪いな。だけど、人体実験なんてするもんじゃない」
「こんなことをしてどうなるか、わかってるのか」
呟く程度の音量の、掠れた声で言う原岡。そんな小さな声でさえ、ここでは大きく響く。
「ああ」
崎本は駄目押しに、うめく彼の腹をもう一度殴った。すると、原岡はすぐに床に崩れ落ちていく。崎本はそれを横目で見ながら、羅江の手足の自由を奪っていた器具を外した。解放された羅江は台から降り、ちらりと床に視線を向けた。
「あの、この人は大丈夫なんですか」
「ちょっと眠ってもらってるだけだよ。――それより、怖くなかった?」
そう聞かれると、羅江の心の中の何かが決壊した。緊張が解けて安心してしまい、膝の力が抜けてしまった。涙がとめどなく溢れ、いくら拭っても止まらない。
「ありがとう、ございました。崎本さんがいなかったら……」
「もう大丈夫だから安心して。人体実験なんて、人がすることじゃないよ」
崎本はそう言いながら、棚に無造作に置かれたカルテを手に取り、何とはなしに眺めた。しかし、次の瞬間、崎本の意識はカルテの中へ吸い込まれた。
「何森羅江……って、羅江ちゃん!?」
「え、何? どういうこと?」
崎本の様子に、羅江の顔には驚きの表情が浮かぶ。外に出ない彼女には、友達はおろか知り合いすらいないはずだ。
「俺の名前は、――崎本信彦」
羅江は嘘だと思った。まさかそんなことがあるはずが無い。しかし、頭の中にある“のぶひこ”と一致する記憶は、そのまさかなのだ。
「……のぶひこくん、なの?」
頷く彼に、まさかが確信に変わる。あの時の面影が残っているものの、もう男の子じゃないんだなと実感できる。突然の再会に、当時の記憶が鮮明に思い起こされる。
羅江は、昔のことを思い出して感慨にふけりかけて――しかし、頭の中を現実がよぎる。
「信彦くん――ううん、信彦さん。あたし、駄目なの。あたしは普通の人間じゃない」
羅江は俯いた。幸せに暮らせるはずの彼を巻き込むわけにはいかない。
「それがどうしたんだよ」
だから、こんな反応を予想していなかった。泣きたい気持ちを堪えると鼻の奥がツンとして、結局涙が出てくる。
「でも、あたし……」
信彦は、予想外の答えにたじろぐ羅江に笑顔を見せて、そして手を出した。
「行こう、連れていってあげるから」
そして、彼女は信彦の手を取った。取ってしまった。彼が不幸になるとわかっていたのに……その暖かな眼差しに負けてしまった。
――連れていって。お願い。