果てしない旅 9
浜辺を歩いていると、潮が引いたあとの窪みに、小さな水の溜まりが残っていた。
岩に囲まれた浅い円。
空をそのまま切り取ったような、揺れる青。
その中に、ひとつだけ影があった。
小さな魚だった。
まだ透明に近い身体。
内臓がうっすらと透け、尾びれは頼りなく震えている。
潮に取り残されたのだろう。
次の満ち潮まで持たないかもしれない。
あるいは、水温が上がれば、それだけで終わる。
私はしばらく見下ろしていた。
助ける理由はない。
助けなくても、この星の時間は進む。
だが、私は手を水に入れた。
冷たい。
魚は逃げる力も弱く、指先の動きに合わせて揺れただけだった。
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私は岩を動かした。
溜まりを少しだけ広げ、深さを増す。
近くの海から水を運ぶ。
何度も往復する。
それだけのことだ。
魚は、広くなった水の中で、少しだけ泳いだ。
円を描く。
止まる。
また動く。
私は座る。
空が傾き、光が変わる。
星が出る。
小さな水面に、星が揺れる。
魚は生きている。
ただ、それだけのことが、なぜか長く見ていられた。
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次の日も、私はそこにいた。
満ち潮が来れば、この溜まりは消える。
魚は海へ戻るかもしれない。
だが潮は弱く、窪みまでは届かない日が続いた。
私は溜まりを守る。
強い日差しの日は、上に枝を組む。
雨の日は、濁らないように砂を整える。
魚は少しずつ色を持ちはじめた。
透明だった身体に、薄い銀。
目ははっきりと黒くなる。
泳ぎも速くなる。
私の指の影を追うように動くことがある。
偶然だろう。
それでも、私は手を水に入れる。
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季節が変わる。
この星にも、周期がある。
風の匂いが変わり、空の高さが変わる。
魚は大きくなる。
溜まりはもう狭い。
私はさらに岩を動かし、水路を作る。
海と細く繋ぐ。
波が来ると、海水が流れ込み、また引く。
魚は最初、流れに戸惑った。
だがやがて、自分で流れに乗るようになる。
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ある日、魚は水路の先まで行った。
細い隙間の向こうに、広い青がある。
私は何もしない。
手も出さない。
魚は戻ってきた。
何度か往復する。
迷っているのかもしれない。
あるいは、ただ確かめているのかもしれない。
私はただ座る。
時間は長い。
急ぐ必要はない。
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さらに年月が過ぎる。
魚はもう、小さくはない。
銀は濃くなり、背には淡い模様が浮かぶ。
溜まりの王のように、ゆっくりと円を描く。
だが、海は変わらず広い。
ある満潮の夜。
月が大きく、水位が高い。
水路が完全に満ちる。
魚は迷わなかった。
一度だけ、溜まりを旋回する。
それから、流れに身を任せた。
銀の尾が、水の向こうへ消える。
戻らない。
⸻
溜まりは、静かになる。
私はそこに座ったまま、月を見上げる。
守ることはできる。
だが、閉じ込めることは守ることではない。
小さな命は、広い場所へ行った。
それだけだ。
この星の進化も、きっと同じだろう。
溜まりから海へ。
海から陸へ。
陸から空へ。
私は立ち上がる。
足元の水面に、私の影が揺れている。
影は変わらない。
だが世界は、確実に変わっていく。
私はまた歩き出す




