果てしない旅 13
それから、何か月も過ぎた。
森へは、あれきり行っていない。
課題は返却され、評価は「良」だった。
石板の写しは回収され、また来年の誰かに配られるのだろう。
“変わらぬ者”は、また一枚の紙に戻った。
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秋のはじめ、担任が変わった。
前の先生は外縁部の学校へ移動になり、代わりに新しい先生が来るという。
教室は少し浮き足立っていた。
扉が開く。
入ってきたのは、見慣れない姿だった。
耳がない。
少なくとも、ぼくたちのような長い耳は。
頭の両側は滑らかで、角もない。
背は高く、静かに立っている。
「今日からこのクラスを担当する」
声は低く、はっきりしている。
発音が、どこか少し違う。
古い言葉の響きが混ざっているような。
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最初は、ただのよそ者だと思った。
都市には、外の国から来る者もいる。
耳の形が違う種族も、いないわけではない。
だが、この先生は少し違った。
黒板に書く文字が、妙に整っている。
しかも、最古期の記号をすらすらと書ける。
「これは、石板の原文に近い形だ」
そう言って、あの記録の一節を書いた。
——時を越えて立つ
教室が静まる。
「どうしてそんなに詳しいんですか」
誰かが聞く。
先生は少しだけ考え、
「昔、よく見ていたからだ」
と答えた。
冗談のようで、冗談に聞こえなかった。
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数週間が過ぎる。
先生は、怒らない。
大声も出さない。
ただ、見ている。
誰が嘘をついたか、
誰が困っているか、
誰が本当は質問したいか。
まるで、長い時間、人を観察してきたように。
⸻
ある日の放課後。
ぼくは居残りで、石板の追加課題をしていた。
先生が隣に立つ。
「君は、森へ行ったな」
心臓が跳ねる。
「……どうして」
「靴の裏に、あの森の土が残っていたからだ」
静かな声。
叱るわけでもない。
「何か見たか」
ぼくは迷う。
あの影。
背の高い存在。
「……影を、確認しに」
少しの沈黙。
先生はすぐに笑ったり、否定したりはしない。
ただ、窓の外の森を見ながら、ゆっくりと言った。
「また行ったのか」
子供のような問いかけに、淡々と返す言葉。
——まだ、そこにいるだろう、という意味を含ませて。
ぼくは少し驚き、でも胸が少し落ち着く。
森の縁に立つ影は、今もそこにあるかもしれない。
それを知っている先生の声は、確かなものだった。
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その瞬間、胸の奥で何かが繋がる。
石板の記録。
森の影。
耳のない背の高い姿。
年齢の分からない顔。
しわがないわけではない。
だが、老いてもいない。
時間に属していないような印象。
「先生は……」
言葉が続かない。
先生は、こちらを見る。
その目は、深い。
遠い海の底のように。
「何だ」
ぼくは、喉が乾くのを感じながら言う。
「先生は、“変わらぬ者”ですか」
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沈黙。
教室に夕日が差し込む。
光が、先生の輪郭を薄くする。
「そう呼ばれたことはある」
否定ではない。
肯定とも違う。
「でも、伝説にするほどのものではない」
先生は、チョークを置く。
「ただ、長くここにいるだけだ」
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ぼくは理解する。
石板は象徴ではなかった。
本当に、記録だった。
毎年消えずに残された理由。
忘れたくなかったからではない。
まだ、いるからだ。
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「どうして、姿を見せなかったんですか」
先生は少しだけ微笑む。
「必要がなかった」
それだけ。
「今は?」
「今も、必要とは思っていない」
それなのに、ここにいる。
学校に。
教室に。
ぼくたちの前に。
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鐘が鳴る。
夕方。
先生は鞄を持つ。
「君は、書き続けるといい」
「何を」
「見たものを」
それだけ言って、教室を出る。
⸻
窓から森が見える。
都市は広がり、
塔はさらに高くなり、
歴史は増え続ける。
だが、その中に、
本当に“変わらぬ者”が立っている。
都市伝説ではない。
教壇の上に。
静かに、時間の外側から。




